可畏はそれまでに、どれだけの人間を喰らってきたかを憶えていない。不知火と契りを交わしてからも同様で、憶えている事と言えば最初に喰った贄が不知火の当主の女房だったという事。あとは些細な事柄も特徴も覚えてはいなかった。

 可畏にとって、人など所詮、腹を満たす為の食料でしかないのだ。



 ◇


「何故、贄を喰わない」

 

 夜半も過ぎ、人々が寝静まり声も無い刻限。暗闇に沈んだ部屋で、老いた声がしじまに鳴った。その声の行く先は、正面に座る鬼――可畏だ。身体は闇に沈んで、異形の姿のように身体の輪郭は曖昧になっている。しかし、赫赫とした紅い目だけは、しかと正面にいるであろう男を捉えて、不気味なまでに明瞭としていた。 


「まだだなぁ」


 間延びした声で戯けるように答えながらも、老いた男を見る紅い眼光は炯々とする。


「牡丹は十分に力を蓄えた筈だ。何が不満だ」

「まだなぁ、邪気に染まりきってないんだよなぁ。己の内の邪気に苦しみもがいて、のたうちまわって、殺してくれと懇願する。さぞや、牡丹は死に際まで美しく抗ってくれるに違いない」


 戯けた様子から一転、可畏は熟した果実でも思い浮かべるように舌なめずりをして、牡丹の死に様に想いを馳せてでもいるのだろう。今はまだ無い極上の味でも想像して、それはそれはうっとりと恍惚の表情を浮かべていた。

 それが、老いた男には気に食わなかった。


「それに何年かかると思っている。お前の役割は護法の柱だ。不知火との契りを忘れたわけではあるまいな。いつとも解らん食べ頃とやらまで、お前が保つ保証はあるのか」


 腹の底から響かせる静かな怒りだった。男にとって――不知火にとって可畏は必要不可欠にも等しい。不知火は長年、邪気を喰い、化生を喰い、鬼を喰ってきた。腹に溜めた邪気は血に染みて、護法が無ければ格好の餌食。もしも今、護法が消えたとあれば――そんな焦りでも滲ませたように、男の低く滲む声は今にも爆発しそうな怒りを含んでいた。

 しかし、可畏にそのような怒りなど通じていないのか、あっけらかんとした声は言う。

 

「じゃあ、先に予備の贄をくれ。どうせ、もう限界の頃だろう」

「駄目だ、牡丹が先だ」

「何でだよ」

「前回の食事でお前はどれだけ喰い散らかしたと思って」

「不味い肉を喰わせる方が悪い」

「ふざける――」


 ふつと、若い男の声が止まった。夜闇の不気味さを、鋭い殺意が駆け抜けた。ただの闇がぞわりと動いて、おどろおどろしい気配となって男へと纏わりつく。もう、その時には男の目には可畏の姿は映ってはいなかった。


「どこへ……」


 男は目を彷徨わせた。が、思わぬ方向から響いた音に男は身を竦ませる。


『お前、俺を調伏したとでも思っているのか?』


 背後から轟く、異形と思しき声。それまでは、確かに人と違わぬ声だった筈。しかし今、耳を刺す音は濁り、地を這い、鬼の毒気を一身に浴びせられているかのようで、今にも男の心の臓を捻り潰さんとしていた。


『契りがあるからお前を殺せないだけ。お前が護法の主であるからと言って、お前を主と認めたわけではない』

「だが、護法を成立させねば、お前とてただでは済むまい。どうするつもりだ」

『俺はお前と違い、死を恐れてなどいない』


 男の肩に何かが触れた。人に似ているが、明らかに人よりも硬い皮膚と鋭利な爪。


『お前はどうかな』


 男は思わずごくりと喉を鳴らす。可畏が何も出来ないと知りつつも、その手が今にも男の身体を引き裂きそうでならなかった。が、その感触も、夜闇の中に静かに消えて行く。

 緊張の糸が切れたと同時、禍々しい気配も消える。それは、可畏が男から遠のいた証拠でもあった。部屋の扉を開け放って出て行くすんでの人影を認めて、男は言った。

 

「用意していた贄はくれてやる。だが、此度は前回のようにはいかんぞ。私とて、護法を受け継いだ身。お前を制御する力ぐらいはある」

「はは、やれるものならやってみろ」


 煽る物言いを残して、可畏の気配は消えた。


 ◇


 可畏はそっと、慣れた部屋の襖を開く。気配を消して、部屋の主が起きないようにと、そっと部屋の隅へと向かおうとした――が、


「また呼ばれたの?」


 もう眠りについていたと思っていた牡丹から、寝ぼけてなどいない声が可畏の耳に届いた。


「まだ起きてたのか」

「可畏が帰ってくるのを待ってたの。何かあった?」

「何も。じじいの戯言に付き合ってただけだ」

「本当に?」


 表情が乏しい牡丹の顔が、問いかけるように澄んだ瞳で可畏を見やる。


「寝れねぇなら、寝かしつけてやろうか」


 可畏は戯けた調子で答えた。牡丹が眠る布団の横へと頬杖付いて寝転んで、その姿は宣言通り、本当に寝かしつけようとしてでもいるかのようだった。 

 

「私、十八になったって言ったと思うのだけど」

「ガキじゃねぇか」


 牡丹の顔が僅かに歪む。しかし、気のせいかと思うほど僅かな時間で、牡丹はいつも通りの平常心で、可畏の方へと身体を横に向けた。

 

「そう言うなら、何か話をして」

「そうだなぁ……お前のご先祖が如何に気狂い下衆野郎だったかの――」

「それはもう聞き飽きたわ」

「じゃああれだ。昔寝とった陰陽師の女房が実は坊主ともねんごろだったっていう……」

「それ面白いの?」

「……俺がまともな話ができると思ってるのか」

「出来ないわね。昔から、ずっと」


 夜闇の中、澄んだ瞳は可畏を見やる。昔を懐かしむような、誰かを慈しむような眼差しで。

 可畏は何を返すこともなく、その目を掌で覆い隠した。


「もう寝ろ」


 暫くすると、牡丹の吐息は規則的になる。可畏もまた、眠る牡丹に身を寄せ、瞼を閉じた。



 その翌朝、可畏は忽然と姿を消した。

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