牡丹ぼたんは、今日も美味そうだなぁ」


 寝覚めの挨拶のように、男が低い声で言った。『男』と言っても、その額には鋭い角が二つ。眼は鮮血のように紅く、唇の隙間からは牙が覗いた。牡丹が眠る布団の横で、着崩れた着物姿でゴロリと寝転び頬杖を突く姿は――所謂いわゆる、鬼である。したり顔で牡丹の目覚めを待つ目は正にそれだろう。布団の上で流れる牡丹の長い髪を一つ束にして、鋭い爪を見せつけるように指先で弄る姿は獲物を前にして弄ぶ獣のよう。


 そんな鬼の姿に牡丹は驚く様子もない。布団から起き上がると鬼の事など見向きもせずに、寝巻きを脱ぎ捨て着替えを始めた。長襦袢を纏い、瑠璃色の小袖を着付けて――その間、終始鬼の視線がじとりとまとわりつく。今にも、指の一本に喰らい付きそうな。肌を舐め回すような感覚が終始続くも、矢張り、牡丹は気にも留めなかった。それどころか、着替えが終わると同時に淡々と今日の予定を告げる始末である。

 

「今日は二軒廻るわ」


 着替えが終わった牡丹が振り返れば、鬼もまた慣れた様子で「へいへい」と軽口に返事する。そのついでと言わんばかりに、くわっと一つ、鋭い牙を見せつけるように大きく欠伸を描く。かと思えば、鬼の特徴だった牙がするすると短くなって、そこらの人間と変わらぬ歯になる。それどころか、角も目も、爪も、人そのものへと変じていた。


 ◇


 笠を被り、杖をつく。歩き巫女のような装束で、牡丹は街中を進んだ。その背後を、いかにも無頼漢な男が着いて歩く。これではまるで、無防備な女の美人局つつもたせだ。


 周りもそう感じているのか、陰鬱な視線が牡丹へと注がれて、ひそひそと小声で話す者もいる。嫌に陰湿な空気は、牡丹が異質であるとでも言っているようだった。が、牡丹はそれに気付きながらも一切関心を持たなかった。


 そうして辿り着いたのは、街中に存在した一軒の食事処だ。


「御免下さい」


 牡丹が軒先から一言声をかけると、開店前の店の中は人気が無い。が、暫くすると慌てたような足音が軒先に近づいて、ほんの指が差し込まれる程度の隙間が空いた。


「裏に回ってくれ」


 三十路を超えた店主らしき男の顔が隙間から覗いたかと思えば、それだけ告げて扉はピシャリと閉まった。悪辣な店主の対応にも関わらず、牡丹は言われるがまま店の裏手へと足を運ぶ。慌てて裏口へと回ってきた店主は、「さっさと入ってくれ」と言って、牡丹と鬼を中へと追い立てた。


 土間から草鞋を脱いで座敷へと上り、店主に案内された先。布団の上で、ゼエゼエと荒い息を吐く幼い少女の姿があった。店主の娘だろうか。傍目、熱に魘された子供。しかし、牡丹の目には違う姿が映る。ゼエゼエと吐く息は黒く、靄となって少女の身体に纏わりつく。牡丹は据えた目で見下ろすも、事も無げに近づいて布団の横へと膝を突いた。杖を置いて、笠を外し、布団を剥いで少女の身体を頭の先からつま先まで覗き込む。すると、牡丹を警戒したとでも言うのか、少女を離すまいとしがみ付くように、靄が濃くなった。


「さっさと離れなさいな」


 牡丹は黒く染まった少女の身体へと手を伸ばす。丁度、心臓の上あたりに手を翳すと、探るような手つきが止まった。そのまま少女の心臓辺りに手を乗せて、かと思えば何かを掴む仕草をして手を持ち上がる。


 根を引っこ抜くように。ぐいと引っ張り上げれば、黒い靄は牡丹へと移動した。すると今度は、牡丹の身体が黒く染まるが、それも次第に薄れて消えていった。


「ふう」


 と、牡丹の唇から風が吹く。最後の靄を蹴散らすかのような清涼な吐息を最後に、少女の呼吸はすやすやと静かな寝息に変わっていた。


「終わりました」


 牡丹は表情を一片も変える事もなく立ち上がると、背後で見守っていた店主が、娘の様子に気が付いたのか、それとも牡丹の声に促されたのか。


「ウメ!」


 慌てたように駆け寄り、娘が静かに眠る姿を間近で確認すると、涙を流していた。


「よかった……本当によかった」


 店主の目に、牡丹は一切映っていなかった。感謝もなく、ただ娘の姿に安堵する。

 牡丹もまた、病が消えた娘に興味も失い、笠を被り直して杖を手にする。そのまま鬼を引き連れて家を後にした。てくてくと、また鬼を引き連れて歩いて、別の家へ。同じように病に伏した男を治すと、牡丹は帰路へと着いた。


 牡丹は邪気じゃきばらい。病の原因である邪気を取り込んで、病を治す。

 邪気祓いは邪気を喰らう。だからか、邪気祓い自体が病の元との謂れもある。それゆえに、疎まれる事はあれど感謝はされない。

 それでも、牡丹は人を治し続けている。


 一人の鬼を引き連れて。

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2024年12月3日 12:00
2024年12月3日 12:00
2024年12月4日 12:00

鬼を飼う。 @Hi-ragi_000

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