壱
「
寝覚めの挨拶のように、男が低い声で言った。『男』と言っても、その額には鋭い角が二つ。眼は鮮血のように紅く、唇の隙間からは牙が覗いた。牡丹が眠る布団の横で、着崩れた着物姿でゴロリと寝転び頬杖を突く姿は――
そんな鬼の姿に牡丹は驚く様子もない。布団から起き上がると鬼の事など見向きもせずに、寝巻きを脱ぎ捨て着替えを始めた。長襦袢を纏い、瑠璃色の小袖を着付けて――その間、終始鬼の視線がじとりとまとわりつく。今にも、指の一本に喰らい付きそうな。肌を舐め回すような感覚が終始続くも、矢張り、牡丹は気にも留めなかった。それどころか、着替えが終わると同時に淡々と今日の予定を告げる始末である。
「今日は二軒廻るわ」
着替えが終わった牡丹が振り返れば、鬼もまた慣れた様子で「へいへい」と軽口に返事する。そのついでと言わんばかりに、くわっと一つ、鋭い牙を見せつけるように大きく欠伸を描く。かと思えば、鬼の特徴だった牙がするすると短くなって、そこらの人間と変わらぬ歯になる。それどころか、角も目も、爪も、人そのものへと変じていた。
◇
笠を被り、杖をつく。歩き巫女のような装束で、牡丹は街中を進んだ。その背後を、いかにも無頼漢な男が着いて歩く。これではまるで、無防備な女の
周りもそう感じているのか、陰鬱な視線が牡丹へと注がれて、ひそひそと小声で話す者もいる。嫌に陰湿な空気は、牡丹が異質であるとでも言っているようだった。が、牡丹はそれに気付きながらも一切関心を持たなかった。
そうして辿り着いたのは、街中に存在した一軒の食事処だ。
「御免下さい」
牡丹が軒先から一言声をかけると、開店前の店の中は人気が無い。が、暫くすると慌てたような足音が軒先に近づいて、ほんの指が差し込まれる程度の隙間が空いた。
「裏に回ってくれ」
三十路を超えた店主らしき男の顔が隙間から覗いたかと思えば、それだけ告げて扉はピシャリと閉まった。悪辣な店主の対応にも関わらず、牡丹は言われるがまま店の裏手へと足を運ぶ。慌てて裏口へと回ってきた店主は、「さっさと入ってくれ」と言って、牡丹と鬼を中へと追い立てた。
土間から草鞋を脱いで座敷へと上り、店主に案内された先。布団の上で、ゼエゼエと荒い息を吐く幼い少女の姿があった。店主の娘だろうか。傍目、熱に魘された子供。しかし、牡丹の目には違う姿が映る。ゼエゼエと吐く息は黒く、靄となって少女の身体に纏わりつく。牡丹は据えた目で見下ろすも、事も無げに近づいて布団の横へと膝を突いた。杖を置いて、笠を外し、布団を剥いで少女の身体を頭の先からつま先まで覗き込む。すると、牡丹を警戒したとでも言うのか、少女を離すまいとしがみ付くように、靄が濃くなった。
「さっさと離れなさいな」
牡丹は黒く染まった少女の身体へと手を伸ばす。丁度、心臓の上あたりに手を翳すと、探るような手つきが止まった。そのまま少女の心臓辺りに手を乗せて、かと思えば何かを掴む仕草をして手を持ち上がる。
根を引っこ抜くように。ぐいと引っ張り上げれば、黒い靄は牡丹へと移動した。すると今度は、牡丹の身体が黒く染まるが、それも次第に薄れて消えていった。
「ふう」
と、牡丹の唇から風が吹く。最後の靄を蹴散らすかのような清涼な吐息を最後に、少女の呼吸はすやすやと静かな寝息に変わっていた。
「終わりました」
牡丹は表情を一片も変える事もなく立ち上がると、背後で見守っていた店主が、娘の様子に気が付いたのか、それとも牡丹の声に促されたのか。
「ウメ!」
慌てたように駆け寄り、娘が静かに眠る姿を間近で確認すると、涙を流していた。
「よかった……本当によかった」
店主の目に、牡丹は一切映っていなかった。感謝もなく、ただ娘の姿に安堵する。
牡丹もまた、病が消えた娘に興味も失い、笠を被り直して杖を手にする。そのまま鬼を引き連れて家を後にした。てくてくと、また鬼を引き連れて歩いて、別の家へ。同じように病に伏した男を治すと、牡丹は帰路へと着いた。
牡丹は
邪気祓いは邪気を喰らう。だからか、邪気祓い自体が病の元との謂れもある。それゆえに、疎まれる事はあれど感謝はされない。
それでも、牡丹は人を治し続けている。
一人の鬼を引き連れて。
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鬼を飼う。 柊 @Hi-ragi_000
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