第二章:隠者は時に縛られて

5話:トラブル・イン・トラベル(前)

 出立の日から数えて四日目。

 幸いに天候が崩れることもなく、人が多く行き交う街道をずっと南へと歩いてきた私とフィリアは、お昼どきを目の前にして、この度で初めての大きな分岐路にぶつかっていた。

 かなり古い時代に設置されたものなのでしょう、風雨に晒された行き先表示の立て看板は文字が掠れている上、そもそも微妙に方向がズレていて、なんとも頼りない。

 『元』とはいえ、私たちは王族とその侍女なのだから、文字はちゃんと読み書きできる。

 出来るんだけど……これはそういうレベルの問題ではなさそうだった。

 

「右が『シスト公国方面』よね、これ。直進は――フィリア、これ読める?」

「すみません、私にもちょっと……」


 大切な街道の行先表示をこうまで削れてしまったまま放置するなんて……と憤ってみても、私自身がその放置していた為政者サイドの人間なのだから救えない。


「とりあえず、南に行けば良いのよね?」

「はい。おそらくは」


 目的地である『至聖の祠』はひたすら南下していき、二つの山を超える必要があることは、母様から確かに聞いた。

 右の道が続く先、シスト公国領は我が国の南西に位置しているのは知っている。

 ということは、真っ直ぐの道が正解?

 でも、あの国って巡礼登山で有名だったわよね……。

 …………ん?


「待ってよ、こういうときこそ地図を見るべきじゃない!」

「そ、そうでした。さすが姫――」

「ちょっと、フィリア!」


 後ろから人が来ているのは分かっていたから、慌てて彼女の口を手で塞ぐ。

 最初の宿を発つとき、これからは『イナーシャ』を縮めて『イナ』と呼ぶように決めたのに、何度と無く嗜めても『姫様』呼びが治らない。

 いや、そりゃ十数年の間ずっとそう呼んできたのだから、難しいのかも知れないけどね?


「そう呼ばれると若干――どころかかなり、切なくなるんだってば」


 自分から「もう『姫様』じゃないわ」と訂正するのは、私としても辛いものがある。

 陥った境遇については色々と吹っ切ったつもりでいるけど、もう一度なんてのは本気でゴメンだから、今は前だけ向いていたいのよ。


「ご、ごめんなさい……イナ様」

「分かってくれれば良いの。ほら、泣かない!」


 私の事を考えるとすぐ目が潤むぐらいに気が小さいくせに、どう説得しても『様』付けだけは頑として譲らない、この子の頑固さは何なのかしら。

 ま、それぐらいなら巡礼者のお付き、ということで誤魔化せなくもないでしょう、多分。


「とにかく、早く地図を見ましょうよ。貴女のリュックに入ってたわよね」

「はい、少々お待ちを」

 

 まったく、地図を見るだなんて、そんな当たり前のことすら思いつかないようで、この先大丈夫なのかしら。

 本当に、私たちは世間知らずの二人組だと思い知る。

 普段は馬車でしか移動しないうえ、他国へ行ったことがないものだから、この程度の分岐路すらパッと選べない。

 まあ……私は熟考した上で選んだとしても、ことごとく道を間違える人間なのだけど……。

 と、とにかく。

 昨日にはもう出来てしまっていた、靴擦れとマメの痛みが酷くて、ブーツの中に布を当てたいと思っていたところだったから、休憩するには丁度いい。

 分岐路の目印として植えられたのか、ポツンと生えている木の下にリュックを下ろし、地図の巻物を引っ張り出す。


「ここがフラシアの王都でしょ?」

「そうですね」

「で、南へ三日歩いたのよね」

「その通りです」

「…………」

「…………」

「……フィリア、私たちっていま何処に居ると思う?」

「え、ええと……その……」


 駄目だ。

 冗談抜きで、マズいかも知れないわ!

 王室の蔵書にあるような綴り本と、持たせてもらったこの一枚地図では、精密さがまるで違う。

 これに描かれているのは大まかな国境の線、湖や山のような大きな地形だけ。

 目的地にマークをしてくれてはいても、そこに至る街道のラインはだいたいの線でしかない。

 いや、旅に持ち出せるようなサイズといったら、こんなものが限界かも知れないわよ?

 でも、さすがにこれじゃ……。


「……地理のお勉強、お嫌いでしたものね……」

「唐突に私の旧悪を抉ったわね、フィリア!?」


 本当のことだから一切否定出来ないけど、幼馴染にしみじみ言われたら、そりゃショックは受ける。

 ここで「貴女も苦手だったでしょう」と言い返すような不毛なコトをしている時間があるなら、さっき通り過ぎた茶店で訊いたほうがよっぽど早い。


「仕方ないわ、情けないけど一旦引き返しましょ」


 二人がかりで現在位置すらわからないなんて、と溜め息をもらしながら、とりあえず立ち上がろうと顔をあげた、その時。


「ここ、地図で言やこのあたりだよ、姉ちゃん」

「え??」


 文字通り目と鼻の先から、突然の高い声。

 一体いつの間にそこへ来たのか、多分十歳にもならないぐらいの男の子――褐色の肌に青色の眼、この国では余り見ない、南方の民族衣装を纏った少年が、地図の一点を指さしていた。


「な、何よ、貴方?」

「何よって! 今いる場所がどこかも分からないみたいだから教えてやったのにさ、ひどい言い草じゃないか」


 いきなり過ぎて、莫迦みたいに単純化した質問が口から漏れてしまったけど……ぷくっと頬を膨らまされてようやく、自分の物言いの拙さに気付く。

 女二人が頭を突き合わせてうんうん唸っていれば、何事かと思う人もあったに違いない。

 多分、この子もそれを見かねて寄ってきてくれたのでしょう。


「ありがとう、助かったわ。それから、ごめんなさいね」

「いーよ。その代わり、はい」

「……その手は何?」

「何、じゃないだろ。教え賃!」

「しっかりした子ね……フィリア、彼にお小遣いを――」

「はい。こちらを」


 さすがは私の侍女というべきかしら、私が顧みるよりも早く、彼女はいくらかの小銭を用意してくれていたらしい。

 用心のため、腰のポーチには少額の貨幣だけを入れるようにしているから、大した額面ではないけど、このぐらいの子ならこれぐらいで充分――……


「ちぇ、これっぽっちか。巡礼の姉ちゃん、しけてんねぇ」

「…………こ、この子は……!」


 たいへん結構な教育を受けていらっしゃることね!

 実に王族的な嫌味が出かけるのをなんとか飲み込んだところで、ふと思いついて渡した額の倍を自分のポーチから取り出す。


「じゃあ、追加でこれもあげるから、他のことも教えて。どう?」

「マジで? いいよ、何が知りたい?」


 即座に奪い取ろうとするお子様の手が届かない位置、私の頭上へ手を差し上げて、情報が先だと暗に示す。


「この山と――あと、この山も越えて、さらに南に行きたいの。どう行けば早いか知ってる?」

「なんだ、姉ちゃんたちはオイラの故郷まで行くのか?」

「え……故郷?」

「そうさ。このあたりに故郷がんだ」


 男の子が指さしたのは、確かに山を二つ越えた先にある、さらに深い山の中。

 今から向かう方向に詳しそうな人と、こんな場所で出会えたという驚きと、先を急ごうとする焦り。

 それらが合わさったせいで、私は――おそらくフィリアも――その子が言った言葉の微妙なニュアンスを聞き落としてしまっていた。


「ねえ、それならもう少し出すわ、あなたの故郷周辺の情報を教えて頂戴!」

「…………。うん、良いよ!」


 あるいはこのとき、笑顔で快諾した男の子の返答に間があったことにも、もっと注意を払うべきだったのでしょうけれど。

 そのとき、残念ながら私たち二人にはそんな余裕が全くなかった。


「とりあえず、この分岐はまっすぐ進むんだ。しばらくオイラが道案内したげる!」

「そう……なら、お願いね」

 

 相手が小さな子だから、という油断。

 かなり有力な手がかりが得られそうだという安堵感。

 偶然通りかかったにしては、珍しい格好をしているけれど、街道筋だから有り得ないことではない、という思い込み。

 後から思えば、自分自身を引っ叩いてやりたくなるほど『旅でやってはいけないこと』を並べ立てているわね、私。

 でも、とにかく。

 駆け出す少年の背を追いかけ、道を進み始めた私たちが「騙された」という事実に気付くのは、『トラブル』の大きな口の中へ落ち込んだ後になってから、だった。

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