断章1:王子ニコロの決意

「イナーシャ姫が…………死んだ?」


 その余りにも恐ろしい急報を持った早馬が、婚約者であるニコロ王子の元に辿り着いたのは、イナーシャが人目を避けて旅立った日から数えて三日後、雷雨の降りしきる日のことだった。


「……つきましては、我が王、女王よりの書簡をお届けに参りました」


 ずぶ濡れのままで謁見に臨んだ急使が、至急確認を要する内容であることを示す緋色の組紐をつけた書簡筒を差し出す。

 この様な場合であっても、まずは大臣が受け取り、危険がないこと、見せても構わない内容であるかを確認してから王へ手渡すもの。

 それは王族を護るための措置であり、また一種の儀礼でもあるのだが、このときニコロは玉座から駆け下りると、ひったくるようにして自ら書状を開いた。


「…………」


 歳はイナーシャより一つ下の十七歳、もう充分に成人しているものの、金髪の巻き毛とその童顔によって、まだ凛々しさよりあどけなさが勝る第二王子。

 常に微笑みを絶やさず、穏やかさをもって国民の敬愛を得ているニコロの頬から一気に血の気が引いたのを見て、そこに居る全員が内容の厳しさを悟る。


「ニコロ。あとは私が読もう」

 

 彼の兄、次期国王に決まっているジゼロは立ち上がると、無言のまま戦慄く弟の手からそっと書状を取り上げる。

 すかさず駆け寄った女官にニコロを任せ、最初から最後まで二度通じて書簡に目を通した彼は、王を顧みて静かに頭を振った。


「……残念です。フラシア国王の印章も、確かに……」

「…………むう」


 報告を受けた王が長い鬚を撫でながら嘆息すると同時に、居並ぶ群臣もまた、押さえきれないざわつきを漏らす。


「倒れたとの連絡があってから、十日余りだぞ……」

「婚礼を目前に、なんという……」


 言うまでもなく、この訃報はイナーシャが“呪われた”ことを隠すために作られたもの。

 しかし、紛れもなく聖国の印章が押され、王・女王の連名で署名までしてある書状を届けられて、それがニセの情報だと見破れるはずもない。

 大国であるフラシアと姻戚関係になることは歓迎すべきことであっただけに、王は暫く天井を仰ぎ見ていたが、ふと気付いたように座を正した。

 

「こたびの婚礼はあちらから持ちかけられた話だ。もとより、かの王家には代々女子しか生まれないのは有名な話……その点については、何と?」

「はい。イナーシャ姫に代わり、第二王女・クラヴィス姫との婚儀を改めて進めたいと」

「そうか。であれば――」


 王はその先の言葉を呑んだが、そのような『代替案』が示された以上、フラシアが己の国に対して危険な含みもっていないことは分かる。

 その事実が確認できただけでも、一国の王からすれば間違いなく胸を撫で下ろすべき朗報だった。

 しかし……。


「代わり……代わり、ですって?」


 王子の椅子でずっと顔を覆っていたニコロからすれば、それは全く承服できるような事ではない。


「あの方の……イナーシャ姫の代わりなど、誰が――!」

「控えろ、ニコロ!」


 顔を跳ね上げ、激高して口走った言葉を上塗りするような強さで兄に睨まれ、幼顔の王子がぐっと言葉に詰まる。

 

「失礼した、使者殿。婚礼を間もなくに控えての訃報に、弟も混乱しておるのです。ご容赦頂きたい」

「は……」

「葬送の儀もありましょうし、我らの支度も整えねばなりません。後日改めてのご連絡を差し上げると、両陛下には然様お伝え願いたい」

「承知致しました」


 昼に夜を継いで駆けつけた使者が、今度は返答を伝えるために再び雷鳴の中に飛び出していくのを見送ったあと、王は人払いをし、謁見の間に二王子だけを残した。


「ニコロよ、軽率だったぞ!」

「許してやれ、ジゼロ。儂とて、流石に動揺を隠しきれなんだわ」


 いまだ顔を覆ったまま動けずにいる弟を嗜める兄王子を、老年の王が制する。


「よもや、あの咲き誇る夏の花のような姫君が、急に病死するなどとはのう……」

「それなのですが、父上。この報せは、本当なのでしょうか?」


 まだその手の中に残してあった書簡へ改めて眼を落としながら、ジゼロはどうにも腑に落ちない、というふうに首を傾げた。

 

「どういう意味かね、ジゼロ?」

「私はかの第一王女と一度しか顔を合わせていませんが……己の健康と勝ち気を何よりの誇りとするような、勇ましい姫君だったと記憶しています」

「うむ……半年前、ニコロを紹介するために伺ったときも、その言葉に相違ない印象であった」

「まして、病に倒れた前日は舞踏会に参加していたというではないですか」

 

 話しているうちに纏まっていく考えに、ジゼロの顔が徐々に険しくなっていく。

 その意味を直ぐに察した王は、それ以上の険しさをもって何度も鬚を撫でた。


「まさか、そのときに暗殺された、と?」

「……有り得ない話ではありません。あるいは、ニコロと結婚させないために、死をでっちあげたか」 

「いや、それはあるまい。仮に婚約を一方的に破談にされたとて、フラシアにどうこう言えるほどの力は、我が国にはない……口惜しいことだがな」

「いずれにせよ、まずは密偵を放ち、事実を確かめるべきでは――」


 黙りこくったまま、婚約者の面影を瞼の裏に浮かべていたニコロの耳に、二人の会話が染み込んでいく。


「……でっちあげ……だって?」


 ふつふつと湧き上がる、痛みにも似た怒り、あるいは悔しさ。

 初めて出会った日、そのたった一度の逢瀬で、ニコロの心はイナーシャに奪われていた。

 あの勝ち気な性格と物怖じしない瞳に惹かれた、年若い王子の想い――それは『一目惚れ』という言葉を当てるだけでは明らかに不十分だろう。

 婚前にたった数度しか会えない相手、政略結婚であること。

 それらを重々承知しながら、彼はそれでも彼女と結婚出来ることを純粋に喜んでいたのだ。


 ――だというのに、何故。

 何故、婚約者たる自分が一度の見舞いも出来ないまま、彼女は突然、立ち枯れるように死んだのか?

 その理由も知らされずに、この先を平気な顔で生きていけ、と――……?


「王子よ、もう休め。今後のことはまた明日、重臣を交えて相談しよう」


 ニコロがその穏やかな性格の裏で抱いていた、激しい恋心を知ってか知らずか――ぶつぶつと何かを呟き続ける彼の身を案じた王が声をかける。

 しかし、その言葉に対して、彼はつと立ち上がると、王の前で膝を折った。

 

「……いいえ、父上。その必要はありません。僕は喜んで、第二王女に婿入りしましょう。それで、フラシア王家の中にのなら……!」


 言いながら、ニコロがおもむろに顔をあげる。

 その真っ赤になった両眼に宿る、悲壮なまでの意志を認めた兄、強壮で知られた次期国王たるジゼロは、知らぬ間に息を呑んでいた。


「お前――まさか」

「…………」


 婚約者であるニコロに、イナーシャが消えた本当の理由を悟られないことを目的として作られた、偽りの訃報。

 フラシア王室を護るために作られた一つの虚偽が、先になって遥かに大きな問題を呼んでしまうことなど、誰が想像しえただろう。


 ――イナーシャ姫の死の真相を、この手で探り出す。


 兄の手に握られた、婚約者の死を告げる紙切れを睨みつけながら、まだ年若い王子はその決意を固めていた。

 それが、どんな意味を持つのかも知らずに――……。

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