4話:王女イナーシャの旅立ち

 ――一週間後。


 夜明けと言えば聞こえはいいけど、実質まだ夜中と呼ぶべき時刻。

 私とフィリアは人目を避けて城の裏木戸を抜け、堀に渡された板の上を恐る恐る渡っていた。

 いくら誰かに見咎められたら困るとはいえ、夜光玉石が放つわずかな光だけで足元を照らして進むには、この板切れはなんとも頼りない。

 でも、私以上に怖がりなフィリアが黙って前を行くのに、不平を漏らすわけにもいかず、その小さな背中をじっと追い続けているうち、どうやら無事に堀の上を抜けたらしかった。


「なんか、一気に魂のロウソクが減った気がしない?」


 冗談めかして言ってみても、フィリアから返答が帰ってこないのは、多分無言で頷くぐらいしか出来なかったのでしょう。

 初っ端からこんな目に遭わされる彼女の不遇を思うと、なんだか溜め息が出そうで――せめて明るく元気づけようとした途端、近くの茂みから低く呼ぶ声がする。


「姫様……イナーシャ姫。こちらへ」


 おそらくは昨日から此処に伏せていたのであろう、平服姿の衛兵が数名。

 招かれるままにそちらに足を向けると、茂みの奥に私たち二人分の旅支度が整えられていた。


「最低限の旅装と、食料。地図と路銀も入っております」

「それから、こちらを。我が王よりお預かりしました」

「父様から? ……これ、巡礼者ピルグリムのケープじゃない」


 その名の示す通り、巡礼の旅を認められたものが、その証として身につけるもの。

 我が国のみならず、これを持つ旅人には一切危害を加えてはならず、また困っていたら援助しなければならない、という共通した不文律がある。

 本来であれば、私が受け取って良いものではないけれど……僅かにでも旅の負担を減らしたい父が打った苦肉の策だと思えば、お断りすることはできなかった。


「国王陛下に伝えてください。イナーシャは、確かにお心を受け取りましたと」

「は……っ」

 

 ケープを抱きしめ、暗い空に輪郭線だけが浮かぶ王城……父の居所に向け、深く礼をする。

 出発前、父様に会うことすら出来なかったのだから、せめてここからお別れを言いたい。


 ――聖国第一王女イナーシャは、突然の病に倒れた。


 この一週間、旅立つまでに与えられた準備期間のうちに世間へ流された噂は、呪いのことも傷のことも伏せられ、ただ私が人前に出られない身体になったことだけを暗示していた。

 実際、呪いの話を母様から聞き、慣れ親しんだ王家から出ていかないといけない、と聞いた後は、自室で喉が嗄れるまで泣き続けてたし、その間はフィリア以外の誰とも会わなかったから、ほぼ寝たきりで居たようなものだしね。

 だからこれは、あくまで話に聞いただけだけど――婚約者であるニコロ王子は、私が倒れたという連絡を聞くなり、即座に駆けつけてくれたそうだ。

 疫病の可能性があるから、の一点張りで母様が会わせなかったし、お国からも急かされて渋々お帰りになったと――でも、私もそれで正解だったと思う。

 ……どうせ、たがいにもう結婚することは叶わないのだから。

 明日、じゃない、もう今日のことね。

 たぶん昼頃には、公的に「イナーシャは死んだ」と発表され、葬儀も行われる手筈になっている。

 つまり、私はもう王族でなく、一人の死者。

 たとえあの仮面の男を見つけ出し、この手で恥辱を晴らせたとしても、「傷モノの姫」は王族の列にふさわしくない。

 だから父様と母様は、せめて私の名誉を護るために、若くして病死した娘、と記録を残した。

 そうすれば、神に呪われた家系、関わってはならない王家、という評判は避けられるから。

 私だって子供じゃないから、理解は出来る。

 納得は出来ないけど、だけど――国とはそういうものだ。

 

「姫様……どうぞお気を確かに……」

「大丈夫よ、フィリア」


 じっと王城を見つめ続けていた私を気遣ってか、幼馴染の侍女は沈痛な声をかけてくれたけど……むしろ今は変に吹っ切れてしまって、悲しいという感情は浮かんでこないのよ。


「涙なんて、三日前に枯れ果てたもの。泣いてるヒマがあったら、やることをするわ」

「…………はい」


 それに――本当に泣きたいのは間違いなく、私じゃなくて彼女の方なんだから。


「貴女こそ、今ならまだこの人たちと一緒に王城へ戻れるのよ?」


 今回のことで、フィリアは『仮面の男』の手引をしたのではないかと疑われ、暫くの間拘禁されていたと聞いた。

 私の寝所へ最後に立ち入ったのは確かに彼女だけど、そんなことを考えるワケがない。

 それ以前に、彼女にその気があるとしたら、私はもうとっくに“あちらの住人”になってるはずよ!

 ……というようなことを、尋問室に乗り込んで捲し立てた私のブチ切れっぷりに驚いたのか、あるいは形式的な取り調べをしていただけだったのかは分からないけど。

 兎に角、フィリアはすぐに無罪放免されたし、あの日の宿直の兵たちにもお咎めは無かった、と……これも後追いで聞いたこと。


に義理立てしたって、どうしようもないじゃない」

「……お言葉ですが、姫様」

 

 別に試したわけでも、冗談を言ったつもりもなかったのだけど、フィリアは――私に同行することを強く申し出た幼馴染は、いつにないほど強い眼差しを私に向け、はっきりとこう言ってくれた。

 

「フィリアは生まれたときから死ぬまで、貴女様専属の侍女です。他の誰がお供せずとも、私が行かないことはありえません」

「…………」

「それに、私もまた、呪われているようなものですから……どうぞ、何処へともお連れになって下さい」

「あ……ありがと」


 さっきああ言ったばかりなのに、不覚にも涙ぐみかけてしまって、慌てて目をそらす。

 と、東の空が僅かに、でも確実に――漆黒から青を含んだ深い藍色へと変わり始めているのが目に入った。

 間もなく明け方、旅立たねばならない時刻。

 これ以上此処に留まれば、野良仕事に出てくる農夫や牧童の目についてしまうから。

 

「あなた達も、見送りありがとう。陛下と……妹たちをよろしくね」

「そのような……勿体ないことです、姫様」

「姫。どうか道中、ご無事で……」

 

 彼らとこうして言葉を交わすのも、きっと最後でしょう。

 ひとしきりの別れを済ませ、荷の中へケープを収めるために屈み込んでいた私の背後から、かさりと草を踏む音がした。

 衛兵たちに緊張が走った、一瞬の後。

 その場に居た全員が、一斉に膝をついて頭を垂れる。


「…………イナーシャ」

「母様!?」


 今回ばかりは、敬称付きで呼ぶのを忘れたのも許して欲しいわ。

 女王陛下ともあろう方が、供回りも付けずに夜中の野原を一人歩きだなんて、前代未聞すぎるもの!


「ど、どうして」

「我が娘の出立です。見送る理由など不要でしょう」


 さらりとそう仰ったけど、私はそこでやっと自分が屈み込んだままだったことに気がつき、慌てて跳ね起きる。


「私のようなもののために、女王陛下御自ら――」

「止めましょう、イナーシャ。もう、そのような言葉を使いあう必要はありません」


 昔むかし、子供の頃によくそうしてくれたように、温かい手が私の髪を梳く。

 

「何の庇い立ても出来なかった母を恨んでいますか――いえ、聞くまでもないでしょうね」

「いいえ、恨んでなどおりません」


 嘘じゃない、本心からの答え。

 神託の巫女である母様に虚偽は一切通用しないし、そうでなくても、母様だけの責任で私の追放が決まったわけじゃない。

 誰が悪いかといったらあの仮面の男以外にないし、もしも奴が「神」やそれに準ずるものだったのなら、今回の事件は“災厄”と呼ぶべきもの。

 本当に、誰も悪くない。誰もが……だからこそ。


「王も、他の王女たちも、見送りに来たがったのです。……しかし……我らは王族の――……」

「分かっています。分かっていますから、何も仰らないで」


 段々と曇っていく顔が、肩に置かれた手の強さが、何よりも雄弁に母様の苦悩を物語っていて、むしろ私の方がその眼を直視できなくなっていた。

 この傷を癒せる日がいつか来るのなら、そのときは、せめてこの人に……。


「……――これが、母から出来る最後のことです、我が娘よ」


 私の声に出来ない想いを見透かしたように、それ以上の対話を打ち切るように、母様が厳しさを取り戻した口調で言う。


「南へ向かいなさい。この地より山を二つ越えた先、シジマの国に在る“至聖の祠”へ」

「“神託”――では、あの仮面の男はそこに?」

「わかりません。しかし、貴女がそこに行かねばならないということだけは、はっきりと感じるのです」

「……有難う御座います。必ず、その通りに致します。それでは――」


 一秒ごとに挫けそうになる心を叱咤して、震えそうな足で踵を返す。

 もういっそ走り出してしまおうか、そんなふうにも思った瞬間。


「待って――最後に、最後に、一度だけ!」

「……え」


 背後から、懐かしい匂いと熱が私に重なる。

 僅かな間、たった三秒だけだったけど。

 母様は――女王でなく、一人の母親として、呪われて消えていく私を、強く抱きしめてくれた。

 

「……さらばです、イナーシャ」

「母様、どうぞお元気で」


 包み込まれる温かさが消えれば、残るのは冷えた早朝の空気だけ。

 二度とは戻ることが許されない旅立ち。

 それでも、もう決して下は向かないと、母様の腕の中、私は誓った。

 仮面の男に『約束』を果たさせるまで、止まらずに歩み続けると――そう決めたの。

 

「行きましょう、フィリア」

「は、はい!」


 二度とは振り向かず、ただ前だけを見つめて。

 背後で私たちを見つめる人たちへ、心の中でだけさよならを告げながら。

 雲一つない快晴の夜明け、はるか遠くに聳える青い山脈の先。

 聞いたことすらない巡礼地を目指し、私はフィリアと二人、街道をひたすら南へと進んでいった。

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