第27話 抱き締めた気持ち

 父と母は仕事に忙しく深夜を回っても帰ってこない。尊斗は家に基本一人だった。昼は友人たちと一緒にいられるが、夜は話す相手も誰もいない。冷蔵庫がぶううんと動く音を聞きながら、冷凍されたご飯を一人で食べた。たまに早く帰ってきた父と母を出迎えると、疲れ切った顔で静かにしろと言う。人がいても家は静かだった。

 一人でいると寒くて眠れなくなって、布団をかぶりながら父と母の服が入ったクローゼットの中に潜り込む。クローゼットの中の空っぽの服たちに頭を撫でられて尊斗は眠った。仕事着に皺をつけるなと両親に怒鳴られても、何度もやった。

 ある日、母がいなくなった。いつからいなくなったかはっきりしたことは尊斗にもわからない。父方の祖母の家に預けられることになり、親しい友人たちと別れる時間すらほとんどなかった。帰りたいと祖母に言っても悲しそうに頭を撫でられるだけで、何も言ってもらえなかった。

 友人の誰もいない教室で一人ぽつんと座った。慣れない場所でじろじろと見られて居心地が悪かった。その中の一人がうつむいていた尊斗の肩を叩いて、こう言った。


「お前、お父さんとお母さんに置いていかれて一人でおばあちゃん家にいるんだろ。さびしいだろうから仲良くしろって――」


 その後の記憶は尊斗にほとんど残っていない。悲鳴と机と椅子が倒れる音と手の痛み。同級生を殴ったことで、保護者として祖母のマリエが呼ばれた。祖母は泣いていた。初めて祖母の泣き顔を見た。見ていると苦しくなって、ごめんと言った。だけど、悪いことをしてしまったという気持ちよりも裏切られた気持ちが強かった。

 何で母さんはどこかへ行ったんだ。父さんはどうして転校なんてさせた。どうしてばあちゃんは泣くんだ。俺はいつ泣けばいい。悲しむ祖母ので、尊斗は泣きたくなかった。

 殴った一件から、周りから遠巻きにされた。あいつが避けているのも、そいつが目を反らすのも、こいつが陰口を言うのも、全部ムカついてどうしようもなくて、学校を飛び出すようになった。そこで会った奴らとつるんでいても無性に暴れたくなって、ちょうど肩がぶつかった奴とよく喧嘩をした。祖母が霊能力者から水盤を買うまではそんな毎日だった。


「なんで勝手にそんなことをしたっ! 誰の金だと思っているんだ! ただでさえ無駄な金を払ってるのに!」


 父親に怒鳴り付けられて、祖母はまたすすり泣いていた。尊斗がこんなふうになったのもお前のせいだと、放置していた父親の癖に責任を擦り付けていた。殴りかかろうとする尊斗を祖母が必死に止めて、大丈夫大丈夫よと囁いた。この水盤があるからね。これで、尊斗の悪いものは全部なくなるからねと何度も何度も繰り返した。父親がさらに激昂しようとするので、尊斗ははさみを持ち出した。

 刃物を出されて怯えむ父親の前で、尊斗は脱色した長髪をはさみでざんばらに切った。


「これで文句ねえだろ! いまさら父親面すんなよ! お前なんかよりばあちゃんのほうがずっと正しい!」


 祖母はよかったよかったと笑った。間違っていなかったと喜んだ。尊斗は、自分が何かを間違えたような気がした。

 結局、自分の感情をもてあましたガキの癇癪だった。無性にムカついて学校に行かなくなったり、夜の町で警察に追いかけられたり、喧嘩して人を殴ったのは全部尊斗で、そんなことしなかったら祖母は悲しまなかったし、騙されないで済んだ。苦しいと感じるなら、それは全部自分が悪かったからだ。だから、どんなに窮屈でも祖母を守ると決めた。

 そう自分で決めたはずなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。


「不幸の全部が君のせいだなんて、そんなことはあり得ないよ」

「……力持ってる奴ってのは全員心が読めんのかよ」


 過去の自分を思い出していた尊斗の意識を引き戻したのは、カグチの声だった。何もかもわかっているという表情をして尊斗の目を覗き込んでいる。


「見えるんだよ、私には。君が一人で苦しむことはないんだ」

「一人で泣くほどガキじゃねえ。むしろ群れるとだるいだけだろ」

「嘘でもないけど、本心でもないね。心が凍ってしまっているから、自分でも本当の心がどうなっているかわからなくなっているだろう」


 話せば話すほどじりじりと胸の奥あたりがじりじりと違和感を怯える。火からもうもうと上がる灰色の煙を吸ったような痛みを尊斗が息するたびに感じる。手はまだ握ったままだ。早く終わらせたい。


「いつまでやんだよ。お前に力なんてねえってことで終わりだろ」

「それはできない。私に力がなかったとしたら、君を救うことはできないからね」

「まじでうぜぇ。あと5分だ、それでいいだろ」


 一旦目を開いた尊斗は円野見に時間を計るように頼んだ。円野見はスマホを取り出して、公平を期すように信者たちにも見せる形で5分のアラームをつけた。尊斗は一秒が減る遅さに苛立ち、自分で言った時間を少し後悔していた。

 カグチの顔にさっきまでの焦りはない。それどころか、尊斗を見る目は子供を見守るように穏やかであった。気持ち悪い。


「救われたと私に言うだけでいいんだ」

「は?」

「それだけでいい。そう言うことによって、それは私の力によって事実となる。君の心を救うことができる。苦しみから解放されて楽になるんだ」

「ふざけんな、言うわけねえだろ!」

「やっぱり、君の心には言えないほどの苦しみがあるんだね。助けを必要としているけど、頑なになって言えないだけだ」


 言い返せば言い返すだけ意味不明な言葉が返ってくる。尊斗はもうしゃべるまいと自分の口を閉じた。力強く握った手の中に汗がたまっている。

 カグチのかざしていた手に血管が浮き、力がさらに込められる。


「このままでは、君は苦しむことになる。これから先も、ずっと」


 苦しみはいつまで続くんだろう。


「君の心は誰にも気づかれない」


 指先がとても冷たい。


「今なら、私が救える。君の苦しみは終わるんだ」


 このまま世界が終われば、苦しみも終わるんじゃないだろうか。


「救われたと言いなさい」

「…………お、」

「――大浦っ!」


 指の力が抜けていく尊斗の名前を円野見が呼んだ。はっとしてもう一度手に力を入れる。ばくばくと尊斗の心臓が痛いほどに脈打って、耳鳴りがした。

 ため息をついたカグチが、夜に燃える篝火のような薄暗い目を円野見に向けた。


「妨害は感心しないな。そうやって邪魔をするのは公平じゃないね。私も怒りたいわけではないんだ」

「……そうですね。失礼しました」


 分が悪かった円野見は大人しく引き下がったが、何かを心配するように何度か尊斗のほうを視線を送ってきている。うるせえ、わかってると言ってやりたいが、今の尊斗にはそれができるほどの余裕はなかった。

 カグチが肩をぐるりと回して、もう一度尊斗の手の上に血色の良い手を広げた。手の中が熱い。


「さて、君の浄火を続けよう。じゃあ考えて、君の考える温かな幸せはどんな形だろう」


 尊斗の手の中をぴりっとした刺激が走った。以前に手のひらを襲った熱と痛みが、思い出したよう痛んでくる。痛みを感じているとばれないように、爪を手のひらに食い込ませた。痛みは痛みで誤魔化せばいい。


「君が手を開けば、もう痛みも苦しみもない。自分の幸せが何なのか想像してごらん。我慢しなくていいんだ」

「自分の、幸せ」

「もう苦しむことなく、自由に楽しく笑っていられるんだよ」


 直接火を押し付けられたような熱い痛みと血が出そうなほど爪を食い込ませる鋭い痛み。尊斗は今何の痛みで自分が苦しんでいるのかわからなくなってきた。いっそ手を開けば、楽になれるのか。

 尊斗は自分の幸福な風景をかすむ視界の中で幻視した。

 それはまだ両親と一緒に住んでいた頃、祖母の家に泊まったときだった。尊斗は眠れなかった。幼い頃は皮膚が弱く、夜は背中がかゆくてどうしようもなかった。腕を折り曲げても背中にうまく届かず、寝返りを何度も打って、布団の上で背中をずりずり擦っている俺は、泣きながら寝ている祖母のところへ行った。


「つらいのねぇ……おいでおいで」


 祖母の乾いた手が尊斗の背中をさすった。祖母も眠たいのか何度も手が止まったが、尊斗がぐずるとすぐにまた撫でてくれた。尊斗は安心して眠ることができたが、翌朝の祖母の顔は眠たげで何度も欠伸をしていた。悪いことをしただろうかともじもじ黙っていた尊斗に、祖母はやさしい手で背中を撫でた。


「大丈夫よ。尊斗のためならばあちゃんはちょっと眠いくらい平気。よく眠れたでしょう」


 幸せという言葉で尊斗が思い出したのが、この日のことだった。

 尊斗が眠れるようにと眠らずに背中を撫でてくれた。そうやって大丈夫だと言ってくれるだけでよかった。あの頃から成長していないのかもしれない。尊斗は苦しみから抜け出したい。自分のせいだとわかっていても、終わらない苦しみに耐えられず、逃げ出たいと思っている。つらい思いをするぐらいなら、世界が滅亡しろと癇癪を起こしている。

 だけど、それじゃ駄目だ。ばあちゃんが無理をする。また泣かせてしまう。救われるのではなく、救いたい。これは意地だ。


「俺は、もう逃げねえ」


 はっと息を飲んだカグチがかざしていた手を引いた。それと同時にアラームが鳴った。時間だと円野見が終わりを告げる。


「5分が経過しました。貴方の負けです」

「いや、待て。さっき君が妨害した分の時間だ。その分の時間もあれば私は救える……!」

「もう一度言います。貴方は救えなかった」


 カグチがふらふらと後ずさる中、信者たちのほうが信じられない、もう一度だ、嘘だと気が狂ったように叫んでいる。救いの力がないのなら、彼らは全員救われていない。

 尊斗は呆然として立っていた。自分の心臓の音がうるさすぎて、周囲の声がほとんど耳に入らなかった。爪をきつく食い込ませたまま握っている拳を上から軽く叩かれた。横を見ると、円野見がいつもの変わらない表情で立っている。ふと力が抜けて、尊斗は手を開いた。


「よくやった。助かったよ、大浦」

「ああ……いや、別に」

「これで、もう終わりだ」


 動揺しているカグチに近づいていった。そして、その眼前に手を広げて、血色のよいその顔に陰をつくった。


「聞いて。貴方に力はありません」

「い、いいや、私は確かに、今までだって何人も……」

「全て錯覚です。貴方に力はない」


 尊斗の宣言に、グチはしりもちをついた。信者たちが悲鳴を上げる。目の前に立つ正体不明の高校生を怖れるように、腕でずりずりと後退している。カグチはただの平凡な人だった。これでもう教主として活動しようとは思わなくなるだろう。

 ほっと息を吐いた尊斗が円野見に声をかけようとして、雰囲気がおかしいことに気づいた。戻ってくる気配がない。カグチが逃げた分だけ歩を進めて、壁際にまで追い詰めていく。信者たちも息を殺して身動ぎすらしない。誰も止めなかった。人間離れした異様な空気の円野見を止められなかった。


「聞いて。思い出してください、貴方の思い上がりを。今まで何人救ってきた?」

「な、何人もだ! 私は救ったんだ! 何度も救ってきた!」

「救ったわけでない。救ったと思った数だけ、お前はその人たちをオモチャにしてもてあそんだ」

「違う! 確かに感謝されて、笑顔で、ありがとうと言われたんだ!」


 カグチの顔が真っ青になっていた。唇も血の気を失いぶるぶると震えて怯えている。怖くて真正面に立っている人物から目を離せないようだった。尊斗の位置からは、円野見がどんな顔をしているかわからなかった。


「聞いて。お前は人を操って好きに操るのが楽しんでいた。自分の都合のいいように動かすことを幸福だと嘯いていただけだ。だが、お前は天の上から地面に叩き落とされた。もう誰もお前を崇めない。それどころか、お前が救った多くの人がさらに地獄へ引きずり込んで――」

「円野見!」


 尊斗はぐいっと後ろから肩を掴んで引っ張った。振り返った円野見は、思いの外普通の顔をしていた。静かな目がじっとこちらを見ている。何かを言われる前に、尊斗が言った。


「もういいだろ。帰るぞ」


 円野見がぴくりとも動かないので、胸のあたりをどんと小突いた。これでも動かなかったら一発ぐらい殴ってもいいんじゃないかと尊斗は考えていたが、円野見はのろのろした動きで頷いた。


「帰るか……」

「おう、帰るぞ。こんな空気の悪いところにいつまでもいてられっか」


 信者たちはどうすればいいのかわからず、お互いに顔を見合わせて混乱していた。こちらの様子をうかがっている者もいたが近づいてはこない。逃げるなら今だった。いまだ腰が抜けた状態で座り込んでいるカグチは力をなくして床を見つめている。もう会うこともないだろうと尊斗は背中を向けた。

 艶やかな美しい黒髪が靡いて、横切った。

 花柳が座り込んだカグチの横に寄り添うように膝をつく。ふわりと広がるプリーツスカートが咲いた花弁のようだった。月のように輝く横顔がそっとカグチの耳元に寄せられる。


「あ、あ、うあああっ、あああああああぁぁぁっ!」


 何かを聞いたカグチは頭をかきむしって、ごつんごつんと額を床に押し付けて叫んだ。嫌がるように身をよじりながら、まともに息継ぎもできず苦しそうに叫び続けている。それをあやすようにカグチの頭を花柳は抱きかかえる。花のように美しい人は、まるで泣き叫ぶカグチの背中に根を張ったかのようにぴったりとくっついた。さらさらと額の上を流れる前髪の隙間から、艶やかな実のように光る瞳が尊斗と円野見を捉えてにいっと弧を描いた。淡く色づいた唇がそっと囁く。


「ありがとう。私、初恋を叶えたわ」


 カグチの叫び声に触発されて、信者たちもパニックに陥ったようだった。同じようにすすり泣くもの、頭を抱えてうずくなるもの、怯えて逃げ出すもの、叫び出すもの、収集がつかなかった。騒ぐ周りの様子なんてこの幸せの前では些事だというように、花柳灯は夢を叶えて微笑んだ。これからずっと大好きな人と二人きりで一緒にいられるのだからある。

 その蠱惑的な笑みを見てしまった尊斗は、じりっと痛む手で現実に戻された視線。右手に貼ってあったガーゼは、まるで焦がされたように黒ずんでいた。

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