第22話 玄関の水盤

 下唇を突き出してむっと不機嫌な顔をした美和子はふんとそっぽを向いた。


「そうよ。ちゃんと集団生活というものを学ぶべきね、実羽のためにも、私のためにも。どうやら正しい距離感というのをちゃんと習わなかったみたいだし」

「習ってやってもいいけど、お前も人に物を投げたらいけないっていうことを学んだらいいんじゃねえか」

「な、なによ!」


 さすがにペンケースを投げつけたことは悪いことだったと感じているのか、美和子はぐぬぬと悔しそうに両手でペンケースを握りしめた。別にそのぐらい開き直ればいいのにと尊斗は思っているが、真面目な美和子にはできないらしい。

大変だなと尊斗が思っていると、目の前に指を突きつけられた。


「最近、ちょーっと真面目に頑張って授業を受けてるからって、そんなことで調子乗ってもらったら困るんだけど。あんたは人にどうこう言える立場にまだいないんだから」

「は、別に頑張ってねぇし」


 反射的に否定してしまって、尊斗は内心やっちまったと舌打ちした。こんな言葉に自分が引っかかりやすいなんて知らなかったからだ。美和子はさっきの不機嫌顔とは違う、怪訝そうな表情をしている。


「何? こじらせた高校生にたまに見る頑張るのは格好悪いとかいう態度? 頑張るのを格好悪いとか言ってぐうたらするのは、私、本当に馬鹿なことしてると思うわ」

「そりゃ何でだよ?」

「一生懸命が格好悪いって言ってる人って、涼しい顔で完璧にできる人に憧れてるのよ。それと比較して必死にならないとできない自分が格好悪いって言ってるだけ。でも、それって結局言い訳して現実逃避してるだけじゃない。できないから頑張りますって言ってくれたほうが正直だし、そっちのほうが好きよ」

「ふうん」


 気のない返事をする尊斗に、何よと美和子がまた顔を赤くしてしかめ面をする。ただ、今回はからかうためというよりも、尊斗の中でうまく理解できなくてふわっとした返事になっただけだった。

 騒ぐ二人の間に、じゃあさという軽い声が割り込んでくる。


「女の子によくフラれちゃうけど、めげずに俺頑張るよ。頑張ったら、美和子ちゃんが好きになってくれるんっしょ?」


 そう軽く入ってきたのは、さっきまでゴミ捨てに行っていた洋司だった。そうだよねと言いながらにじり寄ってくる相手に、美和子は口元を引きつらせて実羽の後ろに隠れた。のんびりと会話を聞いていた実羽は、抱きついてきた美和子の腕をよしよしと撫でる。尊斗も大きなため息を吐く。


「俺、こいつ以下なのかよ? やっぱ、こいつの距離感のほうがおかしいだろ」

「え、いや、うん、そうかも……」


 さすがの美和子も、尊斗の言葉を否定できなかったようだった。そんな2人の反応に洋司は大袈裟に肩をすくませる。


「好きになってくれるっていうから言ったのに……。そんな反応しなくてもいいじゃんね。ねぇ、実羽ちゃんもそう思うよね? 慰めてくれてもいいんだよ?」

「うーん。みんなで距離感を教え合うのが一番なんじゃないのかな」

「え、どういうこと? 自分から割り込んでおいてなんだけど、話の流れがまじで全然わからないわぁ。俺だけ置いてけぼりの仲間外れなんだけど」


 そこであっと洋司は大きな声を出した。そして、順番に尊斗、実羽、美和子をゆっくりと指差していく。そして、またああっと声を漏らした。


「お、俺大変なことに気づいちゃったんだけど!」

「んだよ。うるさい上に邪魔だよ、突っ立ってねぇでさっさと座れ」


 尊斗が小突く前に、洋司は膝をがくんと折って自分の席に着席した。そして、尊斗と実羽と美和子の顔をそれぞれ見て、おそるおそるというふうに伝える。


「みこと、みう、みわこ……俺以外、全員名前がみから始まってるっ。一体いつから俺は仲間外れにされていたっていうんだっ!」


 ちゃんと聞いてしまったことに尊斗は舌打ちをし、美和子は馬鹿らしいと聞かなかったことにした。実羽だけ真面目に聞き入れて、率直に言葉を返す。


「えっと、正確に言えば生まれたときから仲間外れっていうことになるんじゃないかな」

「わぁ。冗談だったのに、言葉にされるとひどくて何か傷つく! 仲間に入れてよ! 俺も洋司の前にみをつける!」

「みようじ……みょうじくん? 名前なのに名字っていうのはおもしろいね」

「笑ってくれるのは実羽ちゃんだけだよ。その笑顔を俺に独り占めさせてくれてもいいんだぜ?」


 どさくさにまぎれて実羽に抱きつこうとした洋司の腕は美和子によってはたきおとされた。そうこうしているうちに教室の扉が開いて担任教師が入ってきた。


「全員席につけ。連絡事項を伝えて、とっとと解散するぞ」


 担任から簡潔に明日以降の予定が確認され、帰りのホームルームが終わる。一日の学校のカリキュラムが終わって、部活のあるものは足早に、塾などの習い事があるものは重たそうな鞄を抱えて、遊ぶ予定のある者は軽い足取りで教室を出ていく。

 尊斗の前の席の洋司もぐっと伸びをして立ち上がった。


「今日は予定ないし、たまには軽音部にも顔出すかぁ」

「幽霊部員だから顔忘れられてんじゃねえの?」

「ギターを肩からかけてポーズ決めるのは好きだけど、鳴らすのは苦手なんだよね。ま、ゆるい部活だからそんなんでも許してくれんだけど」


 じゃあねとひらりと手を振って洋司も教室を出ていった。俺も帰るかと尊斗が立ち上がると、同じく帰ろうとしていた実羽がにこりと目を合わせて手を振った。


「またしゃべろうね。ばいばい」


 スカートをふわりと翻らせて、実羽は行ってしまった。一緒に連れ立っていった美和子は、こっちを見るなというふうにしっしっと手を払う仕草をした。


「あーあ、だりぃな」


 尊斗も鞄を背負ってだらだらと教室を出た。今日は大した事件もなかったはずなのに、連日事件があったせいか肩が重たいように感じた。ぐるりと肩を回したところで、同じように下校中の生徒にびくっとされたので腕を下ろした。

 今日は寄り道をせずにまっすぐに家へと帰る。いつものことだが、いろいろあったせいか尊斗は違和感を覚えた。とりあえず帰ってすぐに寝てしまおうと決める。

 バスに乗って、途中でうつらうつらとしながらも最寄りのバス停で下車する。家に近づくにつれて足が重くなっていくが、それは疲れと関係なくいつものことだ。

 慣れた道を歩くのには脳みそを動かす必要がなく、空っぽの頭の中にはとりとめもないことが浮かんでは消えていく。例えば自分と縁のなかった頑張るという言葉とか。新しい言葉を教わったばかりの幼い子どものように繰り返し頭の中に出てくる。

 ずりずりと靴の踵部分を地面に擦るようにして、尊斗は家の門扉をくぐった。磨りガラスの玄関扉に人影が見える。はっと息をのんだ尊斗は、来た道を戻りたくなるのを抑えて玄関を開けた。


「ただいま、ばあちゃん……」


 祖母は、靴箱の上の水盤に手を合わせ、目を閉じて祈っていた。孫が帰ったことには気づいていないようだった。


「ばあちゃん」


 祖母を呼ぶが反応がない。はっと息が浅くなる呼吸を繰り返して、尊斗はもう一度呼びかける。


「なぁ、ばあちゃん!」


 そこで、祖母のマリエはやっと顔を上げて尊斗を見た。穏やかな表情だった。


「どうしたの、そんなに大きな声を出して」

「……全然動かねぇから。立ったまま眠ってんのかと思ったんだよ」

「あらやだ。そんなに耄碌もうろくしてないんだからね」


 ころころと笑う。しかし、その両手は拝むようにぴったりと合わさったままだった。無理やりその手を引き剥がしてやりたかったが、尊斗にはできなかった。耳の下あたりがなぜかつんと痛くて、震えるほど指先が冷たい。


「最近良いことばかりでしょう。尊斗は毎日元気に学校に行ってるし、昨日は友達と遊びにも行ってきて。だから、きちんとお祈りをしないとと思ったのよ。こういうときはちゃんとお礼をしないと、ばちが当たっちゃうものね」

「罰とかそんなの……」

「尊斗もお祈りをしなさい」


 そんなことできるわけがない。やりたくない。今すぐに靴箱の上からアレを叩き落として、粉々になるまで踏みつけてやりたい。でも、できない。祖母は血色よく微笑んでいる。

 水分のなくなった口を開いて、尊斗は少しだけ期待を込めて言った。


「ばあちゃん、俺がんばってるよ」


 マリエはうんと頷いた。


「この水盤のおかげね。ちゃんとお礼をしないとね」


 バケツいっぱいの氷を流し込んだように胃の底が冷たくて痙攣する。吐き出す息まで震えている気がした。

 こんなものに何の意味があるのか。自分のしていることが無意味だと思いかけて、祖母の顔を見て、そうではないと尊斗は自分で否定した。自分のやったことが返ってきているだけだ。祖母が笑っている。だから、こうしている。これが罪滅ぼしであり、罰であり、唯一の孝行だった。

 いつまでこんなことをしなきゃいけないんだなんて考えてはならない。


「先に着替える。やるのは、後でもいいだろ」


 形だけでも祈ればいいかもしれないが、それだけはできなかった。そうしてしまえば、ぱきんと割れて、自分の中の何かが出てきて全部無茶苦茶にするというのが尊斗にはわかっていた。

 靴を揃えて脱いで、呼び止められないように自分の部屋へ行く。力任せに戸を閉めそうになって、直前でぐっと我慢した。


「……くそったれ」


 肩にかけていた鞄を投げ捨てて、床に座り込んだ。氷河期というのがもう一度やってきて、世界が凍って滅亡したらどんなにいいだろう。そんなことを想像して、思わず喉の奥でくっと笑ってしまった。


「ああ、くそだせぇな。馬鹿みてぇ」


 想像力がない自分は、幼稚園児が思うようなことしか頭に浮かばない。いっそのこと何もかも催眠術で操ってもらいたいと思いかけたが、円野見の顔を思い出してやっぱり駄目だなと尊斗は考え直した。


「いただきますも言えないやつじゃ、ばあちゃんも困るだろ」


 それだけが救いのような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る