第21話 守られた思い出
やっと授業が終わり、清掃も終えてあとは帰りのホームルームという時間になった。担任を待つ間に尊斗は鞄から水筒を取り出して、まだ火傷でしびれる舌を冷やすためにお茶を飲む。ぐいっと顎を上げたところで、横からこちらを見ている実羽とばっちり見つめ合うことになる。昼休み終わりからずっと見てくる。実羽が言いたいことも何となく尊斗は察していた。
「円野見のことか?」
「そうなの。よくわかったね、大浦くん」
「さすがに俺でもわかる。……あいつとは、前にあった詐欺に遭ったばあちゃんのことで昼飯がてら話しただけだぞ」
実際にはその詐欺をきっかけとした宗教団体を解体する話だが、そんなものをぺらぺらと話すわけにもいかなかった。しかし、それでそれでと実羽は期待に瞳をきらめかせている。しようがなく、尊斗は詐欺を防いだときのことを少し詳しく話した。
「そうだったんだね。すごいね」
にこにこうれしそうに、まるで自分が褒められたように実羽は喜んでいた。何がそんなにと考えて、尊斗は気になっていたことを尋ねた。
「来栖は、円野見と小学校が同じだったんだよな?」
「うん。そうだよ」
「そんときに助けてもらったって言ってたけど、結局何をしてもらったんだ?」
催眠術で助けたと言っていた。そして、なぜか円野見は後悔しているようだった。それがどんなものなのかと考えていると、実羽が椅子を引きずってきて、尊斗の膝同士がくっつきそうなほどに近づいた。内緒話のようだった。
「あのね、校庭での体育の授業中だったの。校門が騒がしいなと思ったら、びっくりするぐらい大きな犬がぐわって牙を剥き出しにして吠えながら走ってきたの。後から聞いたんだけど、近くのおうちの猛犬が鎖を引き抜いて逃げ出したみたい」
「げっ、あいつの催眠術って犬にも効くのかよ」
「え、違うよ。犬は警備員さんと先生たちで捕まえられたの」
さすがに犬にまで効いていたらやばいと思っていたところに否定されて、尊斗は少し安心しつつも何だと思ってしまった。
実羽はさらに話を続ける。
「あのとき、犬が来た瞬間にみんな怖くなって散り散りに逃げたの。冷静になって考えて見れば、校舎の中に逃げればよかったんだよね。でも、私は必死で、犬が届かない高いところに登ろうって、校庭にある大きな
「逃げられるだけ立派なもんだろ。突発的にやべぇことが起こったとき、固まって動けなくなる奴だっているしな」
「うん、ありがとう。実際固まっちゃった子もいたけど、そういう子は先生に抱えられて逃げたみたい。とりあえず犬は無事に捕まえられて、誰も怪我はしなかったの」
「それじゃ、一件落着だな」
しかしこれで終わりだと円野見の出番がやってこない。問いかけるように実羽を見ると、少し顔を赤くしてはにかんだ。
「それで、犬が捕まったから戻っておいでって言われたの。でも、私戻れなかったの」
「なんで?」
「必死だったから上がれたけど、私高いところ駄目なの。下りられなくなっちゃったの。正気に戻ったときにどうしようって泣いちゃって」
心配したクラスメイトや教師が
恥ずかしそうに説明する実羽は、そこでふわりと微笑んだ。
「そのときに、巡くんが
その話を聞いて、尊斗は初めて会った日に老婦人の手を茶封筒から外させるために円野見がやった催眠術のことを思い出した。同じようなことを実羽にもやっていたのだ。
だが、隠したがる理由がわからない。別によくやったとは尊斗も言わないが、後悔するようなことは何もないと思う。
「来栖は、何であいつが今は催眠術のことを隠してるたがってる理由は知ってるか?」
「ううん。小学校のときはみんなに催眠術をかけてあげるって言ってたけど、あるときから急に口にしなくなって、話をするのも嫌がるようになったの。……ただ、えっと、どういうタイミングかはわかるかな」
「それは?」
「それは……」
言いにくいことなのか、実羽は一瞬口ごもった。しかし、声を小さくしてそっと尊斗に教える。
「巡くんのお母さんが、精神を病んで入院しちゃってから。近くに住んでた親戚の家に預けられるようになってから、巡くんは催眠術って言わなくなったよ」
「今もか?」
「最近はあんまり話してないからわからないけど、多分今もそうだと思う……」
円野見の母親と倒れたことと催眠術は何かが関係あるのか。何かあったから、今も円野見は催眠術を使うことに対して少し躊躇いがあるのか……そこまで考えて、これ以上勝手に探るのはフェアじゃないと尊斗は止めた。
「わかった。いろいろ話してもらって助かった」
「ううん。私も大浦君とたくさん話せて楽しかったよ」
「まぁ、来栖がいいならよかったな……」
まさか楽しかったと言われるとは思わなかった。真っ直ぐ実羽こちらを見上げてくるのを気恥ずしく思っていると、ひゅっと何かが尊斗の顔に飛んできた。勢いはそれほどなかったので難なくキャッチすると、それはフルーツのイラストがプリントされているナイロン製のペンケースだった。何度か見た記憶がある。
まじまじと見ていると、にゅっと手が目の前に出された。
「ちょっと、返してよ」
そういえばこんなペンケースを使ってたなと美和子の顔を見て思い出した。尊斗が素直にペンケースを返すと、美和子は実羽を椅子ごとずりずりと引っ張って尊斗から距離を取らせた。
「あのね、不用意に男に接近しちゃ駄目! 勘違いされても、走って逃げられる距離を保ってないと」
「勘違いしてんのはそっちだろ。ふつーに話してただけだっての」
「普通に?」
実羽の両肩をつかんで言い聞かせる美和子に尊斗はぼそっと呟く。当然聞き逃さなかった美和子がゆらりと振り返った。
「普通ってなんだか知ってる? あんたが誰にでもさっきの実羽みたいな距離感だなんて知らなかった!」
「知ってるだの知らないだのややこしいな。文句があるならわかりやすく言えよ」
「じゃ言うけど、あんたは先生とか、鶴来とか、あとほかのクラスメイトとかとさっきの実羽と同じ距離感で話せるの? できるっていうならあんたの距離感が狂ってるってことを認めてあげてもいいけど。できないなら、あんたは下心のあるスケベ野郎よ」
「なんでそんなに上から目線なんだよ」
膝を突き合わせて誰かと話す自分の姿を思い浮かべて、うえっと尊斗は顔をしかめた。教師は当然無理だし、洋司はとにかく騒がしくて近づきたくない。ほかのクラスメイトなんて尊斗に怯えるだけだろう。実羽以外となると、ほかには一人ぐらいしかいないだろう。
尊斗は少しだけ体を前に倒して、仁王立ちしている美和子の足先を自分の足で少しだけつついた。
「まぁ、あとはお前ともこのぐらいでしゃべれるけど?」
「ばっ、私のほうから、お断りよ!」
尊斗が近づいた分の距離を取ろうとした美和子よほど慌てていたのか、自分の足に足を引っかけてバランスを崩して座っている実羽の膝の上にどすんと座る形になってしまった。わあと緊張感のない実羽の声が上がり、恥ずかしさを隠すためにきっと美和子は尊斗を睨んだ。
「何するのよ、もう!」
「何もしてねぇけど」
「は、はあ? 何も、何もしてないことないでしょ。だって急に近づいてきて……」
「お前が言うには、俺は距離感が狂ってるらしいからな」
「ばっ、本当にもう、鶴来から女子との距離感ってものを教わりなさいよ!」
「俺、あいつ以下かよ?」
一瞬洋司以下かよと落ち込みかけたが、あの軟派な洋司以下というのはある意味で良いことかもしれないと尊斗は考え直した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます