4 埋まらない空白

第17話 空白のプリント

 国語の授業の終わりに差し掛かった頃、担当教師から以前に出された宿題プリントを回収する旨が告げられた。尊斗はプリントを鞄から引っ張り出してからしまったと顔を歪めた。昨晩、寝る前に空欄を全部埋めたと思っていたが、裏面にも問題があることに気づいていなかった。驚くほどに真っ白だ。事前に気づけば授業中に何とかしたのに、今のタイミングではどうにもできない。

 ここで知らん顔して提出したいところだったが、尊斗は決して成績が良いわけではない。さらに教師陣からの心証も悪い。となれば面倒だが仕方ないと、尊斗はプリントを持って前に行く。

 黒板前の教壇の上に立っている教師は、しかしガタイの大きい尊斗よりも少し目線が低かった。ぬっと現れた尊斗に教師は一瞬怯んだように見せたが、すぐに何かと顎を引き上げた。


「あの、裏面があるのを忘れてたんすけど」

「ああ、まったく……。大浦君、試験の時にそんなミスをしてごらんなさい。どれほどの点数を無駄にすることになるか。来年から本格的な受験生になるというのに、緊張感が足りないんじゃないのかな」

「すんませんっす」

「それに、よく見れば字も汚いじゃないですか。いいですか、読めない字は減点、最悪ゼロ点です。今からでも丁寧に書く癖をつけなさい。せめて、自分の名前ぐらいは書けるようになってもらわないと」

「すんませんっす」

「いいですか。試験というのは、全て自分の努力した分の結果しか出ないんです。君の怠惰の結果は、君が責任を取らなければいけないんです。ここで先生が甘くしたところで、受験本番にはツケが返ってくるんですよ」

「うっ……す」


 うるせぇなという言葉はとりあえず飲み込んで、無意識に険しくなっている目を隠すために尊斗はただじっと下を見た。教師のマイ指示棒が教卓の上に転がっている。いつも黒板に叩きつけるせいか、先端が少し欠けていた。

 教師の早口の言葉を聞き流して、一瞬呼吸の間ができたところで、尊斗は再度問いかけた。


「それで、どうしたらいいっすか?」

「先生に聞かないでください。どうしたいんですか、君は? どうするのがいいと考えていますか?」

「……裏面埋めてから提出したいんで、後で職員室に持って行かせてクダサイ」

「仕方ないですね。それでは、昼休みが終わるまでに持っていらっしゃい。それ以降は受け取らないので、そのつもりで」

「うっす。ありがとうございます」


 首をちょっと曲げて礼をして、プリントを持ってさっさと尊斗は自席に戻った。その瞬間にチャイムが鳴る。無事に宿題を提出した生徒は昼休みになる。洋司もまた購買に行くために飛び出したようだった。一気に騒がしくなる周囲の音から逃げるように、尊斗は現代文のプリントに取りかかった。といっても、3問だけだ。

 問1「花蘇芳の下で私をコワクする眼差しを向けた女性……」のカタカナ部分を漢字にしなさい。


「コワク……怖く、するだと簡単すぎるよな」


 漢字の書き取り問題で、そんなに簡単な問題は出ないだろうと尊斗は予想していた。しかし、それ以外に思いつかない。空欄があるよりはマシだろうと、とりあえず「怖く」と記入する。

 問2「花蘇芳はユダの木なんですと言った彼女は、愛おしげに桃色の花をつけた枝をぽきんと折った。」花蘇芳は何を示していますか、文章中から4文字で探しなさい。

 文章中から探すという作業は、尊斗は得意ではなかった。文字がつるつると滑って逃げていくように思うからだ。指でなぞりながら、やっとそれらしい文を見つけ出す。「イエスを売った裏切り者のユダは今も地獄にいるのだろう」の中から、裏切り者という言葉を抜き出す。

 続く3問目は、なぜ女性が花蘇芳の枝を折ったのか、その理由を35文字以内で示しなさい。

 こういう問題が一番尊斗は苦手だった。そのまま抜き出すのではなく、文脈から読み取って考えなければいけない。正直、文中の女性が枝を折った理由なんて、折りたかった以外に何があるんだよと尊斗は心の中で文句をつけた。後半の部分に、女性の夫が愛らしい金糸雀に夢中になっていると説明があり、「私」はこれほどおそろしくも美しい乙女から目を離す者がいるのかと驚いている。そして、結末では麗しき若夫婦の住む洋館が火事騒ぎを起こる。夫婦はお互い着の身だけで逃げ、お互い以外の全てが焼失したと新聞の記事で知るのだ。

 何もわからない。だけど、書かなければ終わらない。「自分を無視する夫への不満をごまかすために枝を折りたかったから」と空白を埋めた。

 シャーペンを置いたところで、あっと隣から思わず上がった声が聞こえた。それと同時にこの2日間で聞きなれてきた淡々とした声がかけられる。


「よう、大浦」

「……何友達みたいに話しかけてんだよ」

「君、友達のハードル低いな。これは僕の標準的な接し方だが」


 現れた円野見の手には、紺色のランチバッグが握られている。


「昼御飯をあるか? あるなら、そのまま集合場所に行こう」

「は? なんで……ああ、そういえばそうだった」


 咄嗟に拒否してしまいそうになったが、昼休みに花柳と円野見と集まるという話をしていたことを思い出した。今になって面倒になってきたが、約束を破るのも落ち着かないのでしぶしぶ頷いて、鞄から祖母の弁当を引っ張り出した。

 その間黙って待っていた円野見は、ちらりと尊斗の机の上に置かれたままのプリントを見た。


「問1の漢字のコワクは、虫を3つ書いて、下に皿を書いた字だ。それと困惑の惑で、蠱惑になる」

「勝手に見てんじゃねぇよ。……もう一回言え」

「コワクのコは……」


 空中で文字を書く円野見の指先を真似て、少し歪な「蠱惑」を書いた。蠱なんて、画数が多すぎて線同士がぶつかってつぶれているが、尊斗は諦めた。


「つうか場所だけ教えて先に行けよ。俺、このプリントを職員室に出しに行かねぇと」

「いや。それなら、僕も職員室まで一緒に行く」

「んだよ。ちゃんと行ってやるよ」

「そういう問題ではなく、言葉で説明しづらい場所なんだ。口で説明するより一緒のほうが確実だ。君が来ないとそもそも話が進まないからな」

「わぁーったよ」


 尊斗が弁当箱とプリントを持って席を立ったところで、横からを見ている2人の視線に気づいた。実羽は箸を中途半端なところで止めたままじっと円野見の後頭部を見つめており、向かいの美和子は尊斗のほうを半目でじっとりと見ていた。


「あんたが教室以外で、しかも誰かとご飯食べるなんて、随分珍しいじゃない。今日は雪でも降るの?」

「今日はそんなに寒くねぇぞ。お前、そんなに寒がりだったか?」

「は? いちいち変な言いがかりつけないでくれるっ」


 尊斗が屁理屈を言うと、美和子はすぐに威嚇するようにぴいぴいと高い声を出した。はいはいといつものように流していると、一方で円野見と目が合った実羽が気まずそうにしていた。


「……実羽ちゃん、ひさしぶり」

「うん。巡くんも、元気そうでよかった」

「うん。それじゃあ、大浦そろそろ行こう」


 軽く挨拶を交わしたかと思うと、円野見は少し急いだ様子で教室を出ていこうとする。その後ろについていきながら、ちらっと横目で見るとまだ実羽の視線は円野見を追っていた。

 廊下を出たところで、円野見がせかせかと動かしていた足を緩めた。尊斗は、一見変わらないように見える円野見の表情を観察した。


「お前、来栖と何かあったのかよ?」

「いいや? 挨拶だって普通にしていただろう。君にとっての普通の挨拶が、ガンをつけて肩同士をぶつけることだったのなら、それはもちろん違うが」

「んなわけねぇだろ。つうかわざと話反らしてるところからして逃げてんだろ」

「君って意外とよく見てるんだな」

「馬鹿にしてんのか?」

「いや。……何かというほどのものでもないんだが」


 円野見は一度視線を天井に向けて、ふっと息を吐いて、やっと答えた。


「一度催眠術をかけてから、随分と好意的な視線を向けられて後悔してる。だから、申し訳ないけど避けている」

「好きでもない奴に好かれて困ってるって?」

「そう聞くと僕は随分と悪い奴だな。そうじゃなく、ああいう目で見られると自分が良いことしたんだと勘違いしそうで嫌なんだよ」

「あ? 思春期かよ?」

「思春期だよ、僕らは」


 並んで廊下を歩いていた二人は職員室につくと、さっさとプリントを提出した。説教される前に担当教師の机の上にプリントを置いてきたとも言い換えられる。

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