第16話 始まりの温もり
「幼い頃から私はカグチさまにはお世話になっていました。それは、あの人がカグチさまと呼ばれるようになる前からです」
「なる前から?」
「初めて会ったのは児童館でした。子どもたちの遊び相手として、ボランティアでやってきたんです」
話していくうちに、そのときのことを思い出したのか、花柳は名前が示すとおり咲くように顔をほころばせた。青白かった頬が桃色に色づいている。
「病弱だった私は、みんなから離れた場所に一人でいました。そこに声をかけてくれたのが、カグチさんです。一緒に絵本を読んでくれました。……そのとき言ったんです。カグチさんと一緒にいると苦しいのが楽になると」
「そんな子ども相手に、あいつは力がどうのとか言ってたのかよ」
「それは違います。最初に言い始めたのは私なんです」
吐き捨てた尊斗に対して、花柳は激しく否定して、それから細い首をうなだれさせた。
「職員の方が、あまり一人の子につきっきりは駄目よとカグチさんに注意をしました。同性同士ならそうでもなかったんでしょうけど、男性であるカグチさんに女の子がべったりというのも問題があったんでしょう。だけど、納得できなかった当時の私は、カグチさんと一緒にいると苦しくないんだと訴えたんです」
「それで納得されたのかよ?」
「納得はされませんでしたし、私はカグチさんに四六時中くっついてはいられなくなりました。ただ、私がそう言ったのが子どもたちみんなに広まったんです。それで、お腹が痛いとか、頭がずきずきするとか、成長痛だとか、そんな子たちまでカグチさんのところに行くようになりました。すると、みんな元気になったんです。……だんだん、カグチさんにそういう力があるということが周知の事実となりました。そこから少しずつ、カグチさんは変わっていきました」
子どもから親へ。親からその親類へ。親類からその知り合いへ。話はどんどん広がっていき、カグチのところを訪ねる人もだんだんと増えていった。カグチ自身も求められれば惜しみなくその手を貸した。そして、とうとう児童館に来られなくなったのだと花柳は語った。児童館に関係のない人間がひっきりなしに訪れるようになってしまい、迷惑がかかってしまうからと自らそう言ってボランティアを辞めてしまったらしい。
「会えなくなって、私の体調はまたひどくなりました。そんな私のために両親がカグチさんを探してくれて……そのときには、もう今のような状態になっていました」
「先輩がいまだにあいつを慕ってるように聞こえるんすけど」
「……あなたは嫌かもしれないけど、私にとってはカグチさんは小さい頃から大好きな人なんです」
「じゃ、その大好きな人がやってる笑顔あふれる交流会を壊したいのは何すか?」
「多くの信者に囲まれているカグチさまを見ていられなくなったんです。少しずつ昔と変わっていってしまうのを、遠くから見るしかなできない。……それを私の不用意な言葉が引き起こしたというのなら、元に戻すべきなのも私なんです」
あんなことをやっている奴を好きでいつづけるなんて馬鹿げている。そう言ってやろうとして、尊斗は大きくため息を吐いた。自分の幼い行動が、大切だった誰かを狂わせてしまった。困らせたいという悪意があった分、尊斗のほうがたちが悪いかもしれない。だから、目の前の花柳の言葉を切って捨てることができなかった。
黙ってしまった尊斗の代わりに、静かに話を聞いていた円野見が口を開いた。
「子どもの発言です。そして行動に移したのはあの男で、貴女の責任ではない。全て見ないふりして、あの団体と縁を切っても誰も先輩を責められない」
「誰が責めなくても、私が嫌です」
「先輩が好きだったのは、過去のやさしかったあの人では? 組織の中心人物の彼が何も知らないまま、婦人からお金を巻き上げたり、大浦の手を怪我させたとは考えられません。先輩が好きだったカグチはもういないと考えるべきでは」
「カグチさんには人を助けたい気持ちは変わらずあるんです。だから、今回の大浦くんのようにお金にもならない人をたまに連れてきてしまうんです」
「仮に人を助けたい気持ちがあっても、人を傷つけることは悪です。僕としてはますます直視に耐えない存在となる」
嵐の中でも咲こうとする花のような健気さで訴える花柳に対して、円野見はいつも以上に冷たく感情のみせない表情で言い切った。そしておもむろに腕時計を見たかと思うと、身体を駅のほうへと向けた。
「もう時間も遅いので、今日は解散しましょう。僕もバイトの時間に遅れたくはないので」
「あ? ……もうこんな時間かよ」
尊斗もスマホで確認すると、いつもならとっくに晩御飯食べている時間だった。連絡したとはいえ祖母を少し心配させているかもしれない。
尊斗と円野見がそれぞれ帰ろうとしている中で、慌てて立ち上がった花柳があのっと声を上げる。
「その、協力の話――」
「そういうことも含めて、全部明日にしましょう。実物を見て、話に乗る気にはなりました。……大浦はどうだ?」
「俺? 俺は喧嘩売られたんだから買ってやるよ。つうか、お前ころころ意見変えんじゃねえよ。ややこしいだろうが」
「そのあたりはお互い様だ」
相変わらず顔色一つ変えない円野見に対して、尊斗は何となく自分ばかり空まわっているような気がした。助けてもらう結果となったことが妙に悔しい。
協力の言葉が聞けて安心したらしい花柳は、口元に両手を押し当てて、くぐもった声でありがとうと繰り返した。
「えっと、それじゃあ明日」
「はい。先輩も気をつけて帰ってください」
電車通学らしい花柳は、スカートを翻して駅のほうへと駆けていった。その後ろ姿を見送った二人が残されて少し気まずい空気が漂う。いろいろあったが、初めて顔を合わせたのは昨日のことだ。催眠術を使うとかいう理解不能な奴とよく話せるもんだと尊斗は自分でも改めて驚いてしまう。
円野見がじゃあと級友にするように手を上げた。
「僕もバイトに行くから。……大浦、その手早めに治療したほうがいいと思う。かぶれ用の薬でも塗ったらいい」
「べつにもうそこまで痛くねぇよ。薬とか塗らなくても……ああ、薬か」
そこで尊斗は思い当たるものがあることに気づいて、自分のスラックスのポケットに手を入れた。指先にころんと当たるものがあり、引っ張り出すと思ったとおりのものが手の中にあった。昨日、老婦人から渡されたアロエ成分入りのチューブ型の軟膏だ。肌荒れに効くと印字されている。
それを、横から円野見も覗き込む。
「昨日のおばあさんから受け取っていたものだな。それを塗ったらいいんじゃないか」
「言われなくてもわかってんよ。おら、さっさとバイト行け」
「ああ。じゃ、また明日」
円野見は別れの言葉を言ったかと思えば、競歩のようなスピードですたすたと去っていってしまった。あっという間に見えなくなる。
残された尊斗はもう一度手の中のチューブを見て、外灯の下で赤くなった手に軟膏を塗った。よしと塗り終わってから、利き手が使いづらいことに気づいた。定期券を取り出すときについてしまう。
せっかくつけたが服で拭うかと手を持ち上げたところで、軟膏のつんとした匂いが尊斗の鼻をくすぐった。老婦人の穏やかな顔を思い出す。
「……まぁいいか」
帰宅した尊斗が玄関の引き戸を開けると、味噌の匂いが漂ってきた。焦げたような甘い匂いがするから、味噌焼きかもしれない。できるだけ靴箱の上の例の物を見ないよう靴を履き替えて、居間にいるだろう祖母に声をかけた。
「ただいま、ばあちゃん」
「おかえり。ずいぶんとお友達と楽しかったのね」
「まぁ……」
廊下に出てきた祖母のマリエを見て、尊斗はそっと腕を後ろに隠した。さっさと自室に行って袖の長い服にでも着替えてしまおうと尊斗を考えていると、玄関を覗き込んだマリエが少し怒った声を出した。
「靴を脱いだら、ちゃんと揃えなさいといつも言っているでしょう……あら?」
脱ぎ散らかした靴に手を伸ばそうと腰を屈めたマリエの視線が、ちょうど尊斗の背中に隠していた手を向いてしまった。あっと声を上げる前に、マリエが赤くなった手を掴んだ。
「これ、どうしたの?」
「あー……友だちと駅前のファーストフードでしゃべってて、そのときに手の上に熱いお茶をこぼしちまったんだよ。すぐ水で冷やしたし、薬も塗ったから大丈夫だって」
「そうなの? でも、まだ赤いわね。もう一度氷で冷やしなさいね」
乾いた祖母の手が労るようににすりすりと撫でた。それが少し懐かしく、尊斗はしばらくされるがままになっていた。
「……ばあちゃん、腹減った。晩飯食べようぜ」
「そうね。今日はね、豚肉の味噌焼きよ」
尊斗のぐうと鳴った腹の音にマリエが微笑んだ。
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