第14話 罪悪感の火

 あと少しで触れるというところで、ふっとカグチの手が下ろされた。


「ううん、少し君には私の気は強すぎるかな。たまにそういう人がいるんだ。そんなに怯えさせるつもりはなかったんだよ」

「誰が、怯えてるってんだよ!」

「ああ、言葉が悪かったかな。ただ、私の見立てよりも、君の心はひどく凍りついているようだからね」


 カグチの手が離れた瞬間に思わずほっと力が抜けたことを見透かされて、尊斗は誤魔化そうと怒鳴りつけた。それでも、相手の口元に浮かんだ笑みを消えない。

 雑用をこなす信者が横から白い手袋を出してきた。それを受け取ったカグチが手袋をはめたかと思うと、種も仕掛けもないことを確認させるマジシャンのように手の裏表を尊斗に見せつけた。


「これなら、どうだろうか? 布を一枚挟んでいるから、少しは怖くなくなったと思うんだけども」

「だから、馬鹿にするんじゃねえって言ってんだろ!」

「そうか、それならよかった。それじゃあ試してみよう。私の力が、嘘か本当か」


 再び目の前にかざされたカグチの手から逃げ出す方法が、尊斗には見つけられなかった。背筋をぐっと引き伸ばして顎を引き、挑むように前を見据える。がちがちに固まった尊斗の拳を、カグチの手袋をはめた手が掴んだ。

 尊斗の冷たい手は、布越しでも相手の熱がはっきりとわかった。


「では、自分の中の嫌だったことを、思い出してご覧」

「んなものっ、思い出すまでもなく目の前にあんだよ」


 尊斗の目に嫌でも入ってくるのは、この世で一番嫌いなものを体現した男の笑った顔だった。カグチはなるほどと知ったような顔で相槌を打つ。


「君が一番嫌いなものは、君自身なのか」

「はあ? 俺が嫌いなものは――……!」


 間違いなく言葉は頭に浮かんでいるのに、尊斗の口からうまく声が出てこない。目の前の男が嫌いだ。不思議な力とやらが嫌いだ。救いという都合のいい言葉も嫌いだ。何もかも嫌いだ。いつのまにか消えた母親も、仕事でばかりで帰らない父親も、馴染めない学校も、知らん顔して通りすぎる赤の他人も。……祖母だって。

 何もかも嫌いだったから、何だって傷つけた。祖母が背中を丸めてあの水盤を抱え込んだ姿を見たときに、今までの全部が間違っていたと尊斗は気づいた。本当は、ずっと、どうしようもない自分が一番――


「……あち!」


 手の中で火花が弾けたような痛みと熱さが走って、尊斗はカグチの手を振り払った。かっとと広がっていく熱に我慢できなくなり床に膝をついて、恐る恐る握っていた自分の手を広げた。じんじんと鈍痛がする手には火傷したような赤い痕が広がっている。


「くっそ、あちぃんだよ!」


 何もないはずなのに、火を押し付けられたように痛む。時間がたてばたつほど火の勢いが増すように痛みも激しくなる。見えない炎を消すように手を床に擦り付けながら、こちらを見下ろしているカグチへ叫んだ。


「おい、どうにかしろよ! てめぇがやったんだろ! 消せ!」

「ごめんよ、そんなに君が気に当てられやすいとは。気を抜かないといけないね。ええっと……」

「ああああ、くそが!」


 何かないかと周りを見渡して、尊斗は自分が信者たちに囲まれていることに気づいた。周りの信者たちがにこにこ笑って、カグチに向かって手を合わせいる。尊斗が苦しむことで自分たちの教主の力の強さを実感したのか、誰もが満足そうな顔をしていた。

 ぼっと手の中にある見えない火が大きくなった気がした。


「あっちい、熱い、熱いあついいたいいたいいたいんだよ!」


 ありえないはずの燃える痛みだけが増していく。熱くて痛い拳で床を何度も殴り付けるが、ない火はもちろん消えはしない。消えないから、もっと力を込めて床を殴りつづける。狂ったように見えない火を消そうと躍起になっていた尊斗の腕が誰かに掴まれた。

 ばしゃん。


「……あ?」


 かけられたのは水だった。ペットボトルの中身が引っくり返されて、跳ね返った水が尊斗の頬も濡らした。突然のことに尊斗が驚いて固まっていると、掴まれていた手が曲げられて、何かを示すように尊斗の目の前に持ってこられる。塗れた手首から幾つもの水の筋がひじへと流れていく。


「聞いて。火は水で消える。ぽたぽたと水が落ちるのと同じ早さで、熱は引いていく。水が火を消した」


 尊斗の手を掴んでいたのは円野見だった。その淡々とした通る声を聞いていくうちに、熱は緩やかに収まっていく。いまだにじわりと燻るような痛みはあるが、無視できる程度の熱だった。


「君は、どなたかな? 灯ちゃんのお友達?」


 後ろに立っていたカグチが首をかしげて、部屋の出入り口へと目をやった。そこには、祈るように両手を組んでいる花柳灯が心細さそうに立っていた。


「あの、カグチさま、そちらの彼は私の後輩なんです」

「ああ。同じ学校の制服だとは思っていたけど、面識があったんだね」


 カグチの意識がこちらから反れた途端に、円野見に腕を引っ張られて尊斗は立ち上がらされた。うまく足に力が入らなかったが、円野見に支えられるなんてプライドが許せず、意地で真っ直ぐ立った。それを確認した円野見が、無言でそのまま出入口へ向かおうとする。

 しかし、カグチの横でおとなしく立っていたはずの雑用係の信者が二人を止めようと腕を伸ばしてくる。


「カグチさまのお話は終わっていない。じっとしていろ!」


 伸びてきた腕を身を躱すが、それを皮切りにほかの信者たちも尊斗と円野見の行く手を阻もうと立ち塞がってくる。扉までの間にいる危うい目をした大勢の信者たちをどうにかしなければ逃げられない。

 無理矢理力ずくで行くかと尊斗が覚悟を決めたとき、きいいいぃっと思わず身震いするほど嫌な音が響いた。音を出したのは円野見だった。鞄の中から取り出したアルミ製の弁当箱を鍵の先で引っかいた音のようだった。本人も自分で出した音に顔をしかめた。

 そして、あの落ち着いた声が響いた。


「聞いて。身体が震えるほど背筋がぞっと冷たくなり、寒くなり、熱が奪われる。火が弱まるように君は冷たくなっていく」


 その言葉を聞いて、尊斗は指が慣れ親しんだ冷たさを取り戻していくのに気づいた同じくらいに冷えていくのがわかった。痛いほどの熱が引いてほっと一方で、嫌な音に同じように身体をすくませていた信者たちの様子がおかしくなっていった。おかしな熱気を発していた信者たちは冷水を浴びせられたように身体をぶるぶる震わせはじめた。腕を組み、身体を擦り、その場にしゃがみこんで丸くなる者まで現れる。


「さ、寒い……!」

「火が、火が消えてしまう!」

「助けてください、カグチさま!」


 顔色を悪くして震える信者たちが、救いを求めて戸惑った様子のカグチへにじり寄り集っていく。その横をすり抜けて、尊斗と円野見は出入口の扉を開けて待っている花柳の元へと向かった。


「待ちなさいっ!」


 追いかけてくる声も振り切って三人は部屋を飛び出した。狭くて埃っぽい階段を滑るように駆け降りて、ビルを出たときに尊斗は日常の空気の匂いを感じた。世界が切り替わったようだった。いつのまにか日はすっかり落ちて暗くなり、通りの街灯にも明かりが点いていた。1階の飲食店の電光看板がちかちか光り、接客をしている店員の明るい声が聞こえ、歩道では多くの人がお互い無関心に擦れ違う。振り返った先にある薄暗い階段が、不気味な薄暗い口を開けて向こう側の世界を覗かせていた。

 気を抜くとどこかへ行ってしまいそうな尊斗の意識を円野見の声が引き戻した。


「すぐに追いかけてはこないと思うが、一応ここからは離れよう。とりあえず、駅のほうまで行こう」

「あ? ……ああ」


 円野見が足を止めたのは、駅前広場から一本道を外れたところの小さな駐輪場が通りだった。いつもなら何てことない距離だが、震える足を無理に動かした尊斗は息が切れていた。しかし、それよりも疲弊している人物がいる。


「大丈夫ですか、花柳先輩?」

「だ、だいじょうぶ。ちょっと深呼吸、すれば」


 肩で息をしながらついてきていた花柳は、胸に手を当てて呼吸をする。か細い彼女の喉からは、ひゅうひゅうと不穏な音が鳴っていた。

 今の時間帯だと駅前広場は人がごった返しており、ベンチを探しても座れない。周りをぐるっと見渡した尊斗は駐輪場横にある花壇を指差した。


「あそこ腰を下ろしたらどうだ? 座れるだけましだろ」

「そうだな。……花柳先輩、座れますか?」


 尊斗の言葉に頷いた円野見が、取り出したハンカチを花壇の上に広げて花柳の背中を押した。ふらふらとした足どりの彼女は、限界だったのか崩れるように花壇の縁に座った。

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