第9話 花のような先輩
行きと同じく戻る場所もそう変わらないので、円野見と尊斗は一緒に廊下を歩くことになる。千別教師にはもう聞こえないだろうという距離になって、尊斗は話しかけた。
「腹の音が鳴ったってやつ、あれ何だよ」
「実際にお腹が空いていたんだ。君がちょうどよく唸っていたから、それを理由にさっさと切り上げて帰りたかったというのが理由の一つだ」
「……そうかよ。それなら、それでいいけどよ」
面と向かって助けるためにああしたのだと言われたら、尊斗は耐え切れずに壁を蹴るか殴るかしていただろう。普通の生徒でいようと自分で決めておいて、時々耐えきれずに踏み越えたくなる。その一線を越えたら、楽になれる気がする。
「……けど、一応助かった」
ただ、祖母の丸くなった小さな背中が
今まであまり大きく表情を変化させなかった円野見大きく目を見張った。何だよと尊斗も目付きを悪くする。
「んだよ。変なこと言ったかよ?」
「変ではないが、驚いた。君、よくわからないな」
「は? 俺の中ではお前が一番よくわからねえよ」
「別に喧嘩を売ったわけじゃない。ただ、僕に礼を言うのかと思ったんだ」
「礼なんて言った覚えねえぞ。助かったってのは、ただの事実確認で、確認作業みたいなもんだろうが」
「そうか。まあ身内のことでさえわからなくなるんだから、昨日会ったばかりの君のことがわかるはずがないか」
わかったような口調で、わからないなんて円野見は言う。円野見がどこまで本気で言ってるのか、尊斗こそわからない。落ち着いた表情に戻った円野見は、それにしてもお腹が空いたなどと呟いている。
廊下の曲がり角に差し掛かったところだった。急に人影が飛び出してきた。咄嗟に一歩飛び退いた尊斗に対して、壁側を歩いていた円野見は避けられずに人影とぶつまり、勢い余ってそのまま一緒に床に転がった。ぱちぱちと何かが弾けるような音がした。
「ご、ごめんなさい。急いでいたものですから」
触れればふわりと消える淡雪のような儚い声だった。勢いよく飛び出してきたのは、淡雪のように青白い肌をした繊細そうな女子生徒だった。寒さに震える花のように頼りなく、そして美しい顔でこちらを見上げてくる。
「こちらこそ、受け止めきれずにすみませんでした。……先輩、大丈夫ですか?」
床に引き倒された円野見は何事もなかったかのように立ち上がると、礼儀正しく自分にぶつかった女子生徒に手を差し出した。彼女はほっそりとした手を持ち上げて、円野見の手を借りた。折れたスカートの裾を直す動きも
顔を見せたら怖がられるだろうという配慮の下、尊斗は顔が見えないように伏せていた。男子生徒をビビらせるのと女子生徒を怖がらせて泣かせるのでは、面倒の度合いが段違いになる。先ほど別れたばかりの千別教師がすっ飛んできかねない。
そうやって王子様とお姫様の如きやり取りをする二人をよそにじっと床を見つめる尊斗の目に、床の上できらきらと光を反射する幾つもの小さな粒を発見した。腰を屈めてよくよく確認してみると、それは見慣れたものだった。
「米粒?」
指先で慎重につまみ上げたそれは炊かれる前の生の米粒だった。一粒だけでなく、床のあちらこちらに光っている。あっと女子生徒が声を上げた。
「そ、それ、わたしのです。ちゃんと、拾っておかないと」
慌てて拾おうとしたところで、女子生徒は額に手を当ててくらりと身体を傾かせた。すぐ横にいた円野見がすぐに支えたが、目眩が治まらないのかじっと目をつぶって動かない。弱々しくうなだれる女子生徒を見て、尊斗は仕方なくしゃがみこんで米粒を拾うことにした。祖母に米粒一つでも大事にしなさいと口酸っぱく言われているからであり、断じてこれは優しさではない。
ちらほら床の上で光っているが、探すとなると米粒は見えづらい。手のひらで撫でるように床の上を探りながら、拾っていく。いくつか埃も混じってしまったが仕方ないものとした。
「どんだけ落ちたかわからねえけど、とりあえず拾えるもの拾っといたぞ。……これでいいっすか、先輩?」
円野見の肩に寄りかかるようにしていた女子生徒は、薄く目を開けて米粒を差し出す尊斗を見た。やべと尊斗が顔を隠そうとする前に、おずおずと透き通る手が差し出された。そこへぱらぱらと米粒を落として渡す。
指を曲げてぎゅっと大事そうに米粒を握った女子生徒は安心したように息をついた。そして、気分が落ち着いて楽になったのか円野見の支える手から離れて、水晶のように潤んで輝く瞳を尊斗の向けた。
「ありがとう。とても、助かりました」
真っ直ぐ向けられたお礼に、尊斗は誤魔化すように首の後ろをかいた。昨日から他人にお礼ばかり言われて落ち着かない。つい、言い訳が口から出てきてしまう。
「別に。米には百人の神様がいるってばあちゃんから言われてっし、罰が当たらねえようにしただけなんで」
「百人? 僕の記憶だと、七人の神様だ」
「うるせぇな、ばあちゃんは百人って言ってたんだよ。多いほうがいいだろうが」
横から訂正してきた円野見に尊斗は声を荒げてしまった。言ってからやべと女子生徒のほうを見ると、口元を手で押さえてくすくす笑っていた。
「とても仲がいいんですね」
「は……いや、昨日今日の仲なんで」
「そうなんですか。……お二人を見ていると和んで、大分気分が良くなりました。これを飲まなくても大丈夫かも」
「飲むって、その米粒かよ?」
ついつい乱暴な口調で尊斗は話しかけてしまうが、女子生徒はそうですよと気にしないで返事をした。手のひらの米粒を大切そうに見つめて、埃を払うようにふっと息を吹き掛ける。米は尊斗にとっても大事なものだが、何となく彼女の大事は種類が違うような気がする。
「米炊かないんすか? 先輩、生米派っすか?」
「薬みたいなものだから。このまま飲み込まないといけないんです」
「その米粒が?」
「ええ。このお米は、カグチさまの力によって清められた特別なものなんです」
尊斗の胃に氷の塊が不意に落とされた気がした。吐きそうなのをぐっ歯を食いしばって堪えて凶悪な顔になったが、幸運なことに女子生徒は手の中の米粒に夢中で見ていなかった。
円野見がぽんと尊斗の肩を叩いた。何だよと手を振り払うと、優等生ぶった薄笑いが返される。うぜえと思ったが、少しだけ気分がましになった。
円野見が、あっと声を上げて自分の腕時計をわざとらしく覗き込んだ。
「もうこんな時間だ。僕たち、まだお昼を食べていないんです。先輩の体調が回復して良かったです。それではご自愛ください」
円野見は早口に話を終わらせようとしていた。実際、昼休みも半分を過ぎているようだった。急いで昼御飯を食べなければ、次の授業を空きっ腹で受けなければいけない。
後腐れなく爽やかに別れようとする円野見に尊斗も黙って続く。
「あ、ま、待って……!」
しかし、女子生徒は二人の腕に触れて引き留めた。既に戻ろうと動き出していた彼らに、彼女の花弁のように薄くて軽い身体は引きずられる。倒れこんでくる彼女を無視して振り払うほど、二人は非情なわけではなかった。華奢な手は血が通っていないのかと思うほど冷たい。
二人の腕から手を離さない女子生徒はお願いと震える声で懇願している。端から見れば、男子生徒二人で囲んで泣かせている図だった。
「先輩は偶然ここに来たわけではなく、僕たちにわざわざ会いに来たんですね」
円野見は、疑問ではなくほとんど断定するような形で確認した。尊斗は驚いて間抜けな声を漏らしたが、女子生徒は図星だったようで薄い肩を震わせた。
つまり、彼女はたまたま二人とぶつかったわけではなく、二人に会うためにわざとぶつかって来たわけだった。考えてみれば、ほとんど誰ともすれ違わない校長室の近くの廊下をか弱い女子生徒が走る理由はない。
怪しい人物だと認識して、尊斗はうつむいている女子生徒を睨んだ。
「初めて見る顔っすけど、俺の昔の喧嘩関連の恨みっすか?」
わざわざ自分に会いに来る理由を考えて、それぐらいしか尊斗は思い浮かばなかった。そう思っての発言だったが、ずっと黙っていた女子生徒がふるふると首を横に振った。
「違います。ちゃんと理由をお話ししますね……」
やっと女子生徒が顔を上げた。涙の膜が張った彼女の瞳は一層眩しく光っていて、思わず尊斗は一歩引いてしまった。しかし、それほど強く握られているわけでもないのに、なぜかこちらの腕を握る彼女の手から逃げられなかった。
「そういえば、まだ自己紹介していませんでしたね。私は、3年の
花柳と名乗った先輩は、二人の顔をじっと覗き込むようにして見上げた。言い返す言葉すら見失うほど、その容貌は眩しかった。
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