第8話 校長室のチンパンジー
昼になり、勉学から解放された生徒たちは思い思いに休息する。しかし、尊斗は校長室に行かなければならなかった。まだ書き途中のノートを昨日より早めに見切りをつけて、席を立った。巡くんによろしくと手を振る実羽と睨んでくる美和子に見送られて、尊斗は教室を出た。洋司は、新しい彼女とのSNSのやりとりに夢中だった。
廊下を出ると、生徒がごったがえしている。しかし、すれ違う相手はみんな、尊斗を避けるように通りすぎていく。凶悪な顔とガタイのでかさ、そして中学の頃の悪い噂によって人から距離を取られている。といっても1年大人しくしていたこともあって、ちょっと警戒も緩められている。それを裏切って暴れてやろうかという気持ちになることがないでもない。
友人と話しながら後ろ向きに歩いている男子生徒が尊斗の肩にぶつかった。
「あ、ごめー、ん……」
軽い調子で謝ろうとした男子生徒は、振り返って直面した仏頂面の尊斗に顔色を悪くした。ぺこぺこと頭を下げて、友人たちと逃げるように去っていく。正直、ああいう反応が見たくてしかめっ面をしているところがある。
「わざと怖がらせるのは、あまり良くないんじゃないか」
だから、後ろから何の気負いもない声をかけられて、尊斗は少しがっかりした。振り返ると、クラスに二三人はいる地味な風貌なくせして、堂々とこちらを見る円野見巡がいた。
「何だよ。俺の顔が怖いのは元からだ。脅しもしてない、殴ろうって気にもなってない、ちょっと顔が怖かっただけだろ。それとも、生まれつきの顔に文句でもあんのかよ?」
「怖がらせてやろうという考えが良くないと思うが……そんな目に見えないものは証明しようがないか。口を出して悪かった。さっさと行くか」
腹いせに少しばかり絡むような言い方をしたら、円野見はあっさりと円野見は引き下がってしまった。なんだよと拍子抜けする尊斗に、さっさと話を終らせた円野見はすたすた行ってしまう。かと思えば足を止めて、尊斗に対して遅れるぞと声をかけてくる。呼び出されている2人は、もちろん同じ場所へ向かう。
仲良しのお友達のように並んで歩く気がしなかった尊斗は淡々と歩く円野見の半歩後ろを歩く。
「お前、優等生のくせに俺に物怖じしねぇよな」
「優等生と物怖じは関係ないだろ」
「じゃあお得意の催眠術ってやつのおかげで、俺は怖くねえって?」
「昨日も言ったが、催眠術には種も仕掛けもある。万能じゃないし、君と喧嘩しても勝てない。どういう態度をとっても君は気に入らないだろうから、僕が一番楽な話し方をしていいる」
「昨日今日で何わかったみたいな口きいてんだ」
「じゃあ、僕に怖がったり、敬ったりしてほしいのか?」
「そりゃあ……」
頭の中で、パシリみたいに自分に頭を下げたりもしくは震えて怖がる円野見の姿を思い浮かべようとして、無理だった。昨日と今日のほんのちょっとの付き合いの中で、尊斗の頭で円野見巡という人物の像が決まってしまったらしい。こいつはそんな態度をとるような奴じゃない。むしろ、そんな真似をされたらが腹が立つ。
「……ま、我慢してやるよ。お前と四六時中つるむわけでもねえしな」
「それはどうも」
言い争っているようで、何の熱も帯びていないくだらない応酬を続けているうちに、どんどん昼休みの喧騒が遠くなる。校長室は1階職員室を通りすぎたさらに奥で、人通りが少ない。ちょうど校長室の前あたりに誰かが立っていた。
近づいていくにつれて見えてきたその顔に、げっと尊斗は漏らした。そこにいたのは、風紀指導を担当している千別という教師だったからだ。こちらに気づいた千別教師が顔を上げて、せかせかと大股で近づいてきた。
「遅かったな。校長先生が既にお待ちだ。その前に確認をする」
千別教師は早口にそう告げると、神経質そうな目を細めた。円野見のほうはちらっと一瞥するだけで終わったが、尊斗のほうは爪先から頭までじろじろと針で刺すように見られていく。
「靴はかかとを踏まずにちゃんと履け。ズボンは腰の上まで引き上げろ。シャツの裾も入れて、ボタンは第二までしっかりとめろ。ネクタイは、今日は着用日ではないから仕方ないか。しかし、君は他の生徒より注意されているのだから、身だしなみぐらいきちんとしていなさい」
「うっす……」
「返事ははいだ」
「へぇい」
尊斗の返事に、千別教師のかっちり撫でつけられた前髪から見える白い額に深い皺が刻まれた。しかし、その場で咎めるようなことはせず、早くしろと腕を組んで尊斗に服装を整えるよう指示をする。
一通り身なりがましになったことを確認した千別教師は校長室をノックした。中に入ることを許可する声が聞こえて、失礼いたしますと校長室の扉が開かれる。さっさと中に入ろうとした尊斗は隣の円野見がお辞儀していることに気づき、やや遅れて頭を下げた。校長室には向かい合わせに置かれた二つの革張りソファがあり、式典や全校集会で見かけるのと同じ顔の校長がそこにどっかりと座っていた。
「やぁ、貴重な学生の昼休みにわざわざ呼び立ててすまなかったね。さ、そこに座りなさい」
「ありがとうございます。失礼します」
「……ざいます。シツレイしゃっす」
優等生らしいそつのない動きをする円野見の見よう見まねで、尊斗は動きはロボットのようにぎこちなく後に続く。うんうんと校長は満足そうに頷くと、自らの正面にあるソファへ座るよう手で示した。
ソファの奥に座った円野見を見て、思わず尊斗の顔はうげっと渋くなる。これでは自分が校長の正面に座ることになる。だからといって、円野見が手前に座ると尊斗が座るのに邪魔になるのでしようがない。
「どうした、大浦?」
「いや、なんでもないっす」
なかなか座ろうとしない尊斗に千別教師の厳しい声が飛んでくる。でかい図体をできるだけ縮めて、正面と目が合わないように端に寄ってソファに座った。千別教師は、見張るように斜め後ろに待機している。
校長は目の前の生徒二人を交互に見て、機嫌よさそうに自分の膝を数回ぽんぽんと叩いた。
「実は学校にわざわざ連絡がありましてね。うちの制服を着た二人の男の子が、詐欺被害に遭いかけていた母親を救ってくれたのだという感謝の言葉をいただきまして。いやはや、素晴らしいことです」
どうやら、昨日老婦人を迎えにきた女性がわざわざ学校に連絡をしたらしい。これはうれしいことだと誇らしくなりましたよと校長が言う。
「こんなにも優しい生徒がいるなんてと。だから、どうしても一言声をかけたくなったんですよ」
「いや、俺はそういうんじゃないんすけど」
自分の祖母のことを思い出して無視ができなかっただけだった。どいつもこいつも寄ってたかって尊斗を良い奴にしようとする。あの玄関の水盤の言いなりになんて絶対にならない。さすがに尊斗もそこまでは言わなかったが、後ろで千別教師が空咳をしている。校長が話を
良い姿勢で礼儀正しく話を聞いていた円野見が、愛想よくフォローする。
「大浦くんは自分に厳しい人なんです。そういうところが、周りから勘違いされてしまいがちなんですけど」
目上を相手にしているからか、くん付けで名前を呼ぶ円野見に対して何だお前と言いたくなる。さすがにそこまで馬鹿ではないのでは、尊斗は動きそうになる自分の舌を奥歯で押さえつけた。ここでの最善は、黙って、何もしないことだ。
そうなんだねぇと、校長はわかっているのかいないのかわからない相槌を打った。それから、長ったらしいお褒めの言葉を無理やり聞かされることになる。
「いやぁ、本当に私も胸がじぃんとしましたよ。そうそう、君たちが助けたというご婦人の娘さんが駅近くでカフェを経営しているそうです。来店してもらえるならぜひ御礼をしたいとおっしゃっていたようですから、今度二人で顔を出しておあげなさい」
「わかりました」
「……っかりました」
長い話に飽きてきてぼうっとしていた尊斗は少しばかり返事をするのが遅れた。後ろから突き刺さる視線を誤魔化すように首の後ろをかいていると、校長が尊斗のほうに体を向けた。何だと身構えていると、にっこりと笑われる。
「大浦くんの話は私も聞いていました。どうなることかと思っていたところですが、頑張って学校生活を送っているようですね」
「はぁ、そうなんっすか」
「荒れていた少年が更生して人助けするほど成長するなんて感動します。ちょっとした見出しにもなりますよ。そういう記事でも出れば周りの評判も上がるでしょうし、ご家族も安心するでしょう」
校長は自分の言ったことを素晴らしい案だと思っているようで、歯をむき出しにして楽しそうに笑い、膝を打っている。それを見て、人間はチンパンジーに近いんだということを尊斗は思い出していた。動物園の檻に入れられている気分だった。大きな氷の塊を飲み込んだみたいに、腹の底が冷たい。
そんな記事が出たとして、誰が読むのか。母さんはとっくの昔に出ていった。糞親父は尊斗に失望してるから帰ってこない。ばあちゃんは、きっと喜んで水盤に感謝を捧げるだろう。
校長に何か返事をしようとして、尊斗の口から出てきたのが動物の威嚇のような声だった。奥歯で舌を強く噛みすぎて、うまく動かなかったのだ。
「すみません。お腹が鳴ってしまいました。お昼ご飯を食べてなかったものですから」
校長が反応する前に、わざとらしくお腹を手で擦った円野見が謝った。当然腹の音なんて鳴ってない。しかし、堂々と穏やかに言われるとそうだったかもしれないと思えてくる。黙って後ろで様子を見ていた千別教師も口を開いた。
「申し訳ありません、校長。生徒たちは昼食を食べる前にこちらに来たものですから。お話の途中で失礼ではありますが、そろそろ退室させてもよろしいでしょうか」
「ああ、そうだった。育ち盛りなのだから、ご飯はしっかりと食べないと。いやあ、長話に付き合わせて悪かったね」
退室を許された二人は、校長室を出る前にもう一度頭を下げた。ソファに座ったままの校長が、未来ある若者たちに親しみと期待を込めて手を振っていた。
「二人は我が校の見本になるような立派な行為をしました。これからもがんばってくださいね」
尊斗のしかめっ面が校長の目に入る前に、千別教師が素早く扉を閉めた。廊下はしんと静かで、汚い罵倒が飛び交う頭の中を少しだけ冷静にさせた。
「用件は以上だ。昼休みも大分過ぎたし、昼御飯を食べてきなさい。……それから、大浦」
もう帰ってもいいのかと帰りかけたところで、尊斗が名指しで止められる。引き止めた千別教師の額には、彫ったような深い皺がまた刻まれている。そろそろ消えなくなるかもしれない。
「暴力行為だけは誤魔化しがきかないからな。頭に血が上ろうが、それだけは覚えておきなさい」
「……俺、褒められるためにここに来たんじゃないんすか?」
「念押しだ。今回の君の行為は喜ばしいことだった。私も喜んでいる」
そう言った千別教師の顔は全く喜んでいない。結局褒められているかどうかわからなかった。尊斗はどうもと軽く頭を下げ、足早に校長室から離れた。息が詰まりそうだった。
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