2 花の少女

第6話 朝の嫌いな音

 催眠術とは、言葉や身振りを使って対象の感覚や動きを思いのまま動かすように暗示をかける術である。心理療法として用いられることもある。

 尊斗がネットで調べたところ、つらつらと小難しい用語が並べ立てられわかりづらかったが、簡単にそうまとめられていた。解説動画や誰でもできる催眠術という動画も見つけることができた。不思議な力ではなく技術というのは本当のようだった。ただ、動画で見たものより実際に見た円野見の催眠術のほうが不思議に思えた。それは、あのときの尊斗が冷静じゃなかったからだろうか。


「……やっぱり特別な力なんて、どこにもねえんだ」


 譫言うわごとのように呟いた自分の声で尊斗は目を覚ました。覚醒と同時に伸ばされた尊斗の手が寝る直前まで触れていたスマホとぶつかる。電源ボタンを押して時間を確認すると、目覚ましのアラームが鳴る三十分前だった。ということは、あれが聞こえる時間に目覚めてしまったということだ。

 尊斗が憂鬱になってそう考えていると、部屋の外からざあざあと水の流れる音が聞こえてきた。今、水を捨てたのだろう。そして、勢いよくじゃ具区から水が出る音。ぺたぺたと廊下を移動して、三度柏手が打たれる。朝の祈りの儀式だ。これが聞きたくないから、この時間は眠っていたかったのに。

 ぺたぺたと足音が遠ざかっていく。それから、包丁がまな板を叩く音、換気扇が回る音、熱したフライパンがじゅうじゅう鳴る音が聞こえ始めた。尊斗の祖母が朝食を作っているのだろう。

 尊斗は一度布団の下で膝を抱えて丸くなり、ぎゅっと腹筋に力を入れてから勢いをつけて立ち上がった。カーテンの端をめくると、窓の外はよく晴れていて平和そうだ。世界滅亡なんてしそうにない。

 自分の部屋のふすまを開けて、廊下を通り洗面台へと向かう。ぺたぺたと廊下を歩く尊斗の足音に気づいた祖母のマリエが、台所から張りのある声で挨拶をしてくる。


「おはよう、尊斗」

「おはよう、ばあちゃん」


 朝の挨拶を返して、尊斗は台所横にある洗面所の前に立つ。鏡に映る自分の顔は相変わらず人相が悪いく、鏡越しに自身を睨んでいた。昔は肩ぐらいまで伸ばして脱色していた髪も、今は真っ黒い地毛を短く刈り込んでいる。耳にあったピアスホールはとっくの昔に塞がった。喧嘩で有利になるからと装備していたシルバーリングも全部ゴミ箱に入れた。そうなると、鏡の前ですることはほとんどない。顔を洗って、歯を磨いて、短い髪を濡らすだけで終わる。

 身支度を整えた尊斗は、祖母がいる台所に行った。マリエはほとんど朝食の支度を終えているようだった。学校に持っていく大きな二段弁当にもみっちりとご飯を詰め、おかずを山盛り入れている。いつもどおり無理やり弁当の蓋を上から無理矢理押しつけることになるだろう。

 尊斗はコンロの上に置きっぱなしのやかんを持ち上げた。朝一番につくられた麦茶を急須に入れて、それから二人の湯呑みにもそれぞれ注ぐ。それから、尊斗は祖母に尋ねた。


「ばあちゃん、氷入れる?」

「ばあちゃんはいらないわ。自分の分だけにしなさい」


 尊斗は自分の分にだけ氷を入れて、二人分のお茶を居間のちゃぶ台まで運んだ。湯呑み二つを置いたところで、マリエがこれも持っていってと台所から声をかける。手渡されたお盆には尊斗の分の朝食が載っている。尊斗は、もう一つあるマリエの分にも手を伸ばした。


「ばあちゃん、そっちも俺が運ぶよ」

「あら。でも、両手でお盆を持って転んだら大変でしょう。また畳の縁に足を引っかけたら……」

「いつの話だよ。俺、もう高校生なんだけど」

「成長って早いわねえ。育ち盛りなんだから、いっぱいご飯食べましょ」

「あ、ばあちゃんってば!」


 マリエはするりと尊斗の手から逃れて、自分の分のお盆を持って行ってしまう。尊斗は祖母には敵わない。しょうがないと諦めて、自分のお盆だけを持っていく。

 座布団の上に座って、祖母と孫は自然と息を揃えて両手を合わせた。


「いただきます」「いただきます」


 マリエのつくった本日の朝食は、炊きたてのつやつやご飯と定番の卵焼き、玉ねぎと芋の味噌汁、きゅうりとキャベツの酢漬けに加えて、昨日の晩御飯の余りの筑前煮、尊斗のお盆の上には焼いた塩鯖も載っている。

 成長期の食欲を落ち着けるために無言でばくばく食べる尊斗をマリエはお茶を呑みながら眺める。大浦家の庭に植わった木から、羽休め中の雀の喧しい鳴き声が聞こえてきた。


「最近の学校はどうなの?」


 唐突にマリエが尋ねてきた。尊斗は米を口の中にかっ込んで、今はしゃべれないとアピールする。しかし、当然噛んでいれば口の中のものは減っていく。尊斗が米を嚥下えんげした瞬間に、様子を見守っていたマリエが再び尋ねてくる。


「それで、学校はどう?」

「別に、普通だって。いつも言ってんだろ」

「でも、いつも真っ直ぐに家に帰ってくるから。たまにはお友達と遊んでもいいのよ。遅くなるようなら、連絡だけはちょうだいね」

「だって、ばあちゃん……」


 そんなことしたら心配するんじゃないのかよという言葉は呑み込んだ。質問して満足した祖母は、きゅうりをぽりぽりかじりながら新聞をめくっている。前は朝御飯の時間もずっと不安そうだったから、大分様子が落ち着いている。

 空になった湯呑みをつかんだ尊斗は、急須にお茶があることを無視して、お茶のおかわりと立ち上がった。台所のやかんの中身はまだ熱く、注ぐと湯気が立つ。氷を入れれば、ぱきぱきと世界が割れるような音がした。

 熱いのが嫌いな尊斗のために、マリエは氷をたくさん用意するようになった。小学生の頃の一番言いたい放題だったときなんて、俺が嫌いだからこんなお茶出すんだと癇癪を起こしていた。祖母はそれでも一生懸命に一人で尊斗の世話をしてくれた。……だから、尊斗の内側がどんなに氷のように冷たく凍っていても、それはどうでもいいことだ。尊斗は、お茶と一緒に何もかも全部胃の中へ流し込んだ。

 朝食を終えて、制服に着替えた尊斗は祖母へ行ってくると声をかけた。


「もうそんな時間だった?」


 のんびりテレビを見ていたマリエは、孫を見送るために腰を上げる。ついてきてほしくないから、出る直前に素っ気なく声をかけたのに。この時間が、尊斗はこの世で一番嫌いだった。

 できるだけ目を合わせないように下を向いて靴を履く。ずれた靴下を引っ張るふりをして、背中を丸めたまま玄関扉に手を伸ばした。そんな尊斗の背後で、ぱんと一つ柏手を打たれる。


「今日も一日、尊斗が元気に過ごせますように」


 つい視線を向けてしまった。玄関の靴箱の上、つばの広い帽子をひっくり返したみたいな陶器の水盤。ありがたい力を持った霊能者の力が宿っているらしい。そいつは、とっくの昔に警察に追われて町から出ていったのに。毎朝飽きもせず祖母はそれを磨いて水を張る。そうすることによって邪気を跳ね返すのだと言って、ずっとその習慣を守っている。まだ信じている。


「ちゃんとお願いしておいたからね」

「……いってきます」

「いってらっしゃい」


 玄関の引き戸を乱暴に閉めそうになり、直前に働いた理性によって尊斗は力を緩めた。

 マリエがまだあの怪しい代物を信じているのは、尊斗という実際の成功があるからだ。アレのおかげで尊斗が不良から落ち着いたと思っている。そんなわけがない。尊斗はそんなこと認めてはいない。アレを買ってきて憔悴した祖母を守るために、世間から外れる行為の一切をやめた。そうしてマリエの願いは叶い、いまだに一生懸命祈っている。今でも思う、あの行為は正しかったのだろうか。

 バス停へ向かっていた尊斗は、何かが自分の足にぶつかったことに気がついた。がま口の財布だ。前方には杖を突いてゆっくり歩いている老人しかいないということは、あの人のものかもしれない。落とし物を拾った尊斗は、老人に近づいた。


「なぁ、これを落とさなかったか」

「……何です?」


 振り返った老人は尊斗の顔と手にある落とし物を見比べると、さっと険しい顔になって落とし物を引ったくった。そして、声をかける隙もなくばたばたと去っていく。尊斗の足なら普通に歩いても追いつけそうだが、意味もないし騒がれたら面倒だ。

 その背中が角を曲がるまでぼうっと待っていると、ちりりんと自転車のベルの音が鳴った。尊斗が道の端に寄ると、さっと自転車が追い抜いていく。すれ違い様に目の合った美和子の顔は露骨に不機嫌そうな顔をしていた。


「……まさか同じ高校の同じクラスになるなんてな」


 橋場家は大浦家の玄関を開けた斜向かいだ。近いだけで大した付き合いはなく、小学校と中学校も同じだったが、話したことは一度もない。ただ、昔から嫌われていただろうなと尊斗は思っている。小学生の頃、家を出て目が合えばすぐさま背を向けられたし、逃げるように距離を取られていた。初めて話したのは、今年同じクラスになって、来栖実羽が尊斗と隣の席になってからだ。親友を守るために威嚇しているらしい。

 美和子は高校に入る前の一番荒れていた頃の尊斗を知っている。知っていて、警戒はするくせに怯えた様子がないのは不思議だと思っている。でも、気を遣わなくていいから気楽だ。

 一人で笑いそうになった尊斗は、誤魔化すために大口を開けて欠伸をした。

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