第5話 現実的な催眠術
円野見の話によると、老婦人の娘はすぐ近くに住んでいるらしく、すぐ迎えに行くと言ったらしい。だから、娘がここに来るのにそう時間はかからないだろうということだった。
なら、尊斗はもうここにいる意味がない。帰ろうとしたところで、女性の甲高い声が響いた。何事だと多くの通行人も注目する中、妙齢の女性が髪をふり乱しながらこちらへ必死の形相で走ってくる。それを見た老婦人が、あらまあと言いながらベンチから立ち上がった。
「どうしたの、あなたってばそんなに急いで」
「どうしたのはこっちの台詞よ、母さん! 電話で話を聞いてびっくりしたんだから! どうして私に一声かけてくれなかったの? わた、私、そんなに悩んでるなんて全然――」
娘であろう人物は一直線に老婦人に駆け寄ると、走ってきた勢いでそのままつらつらと言葉を並べ立てた。真正面からそれを受け止めた老婦人はついていけないといった感じでまばたきを繰り返し、それを見た娘がさらに顔を真っ赤にしてヒートアップしていく。最終的には全力疾走してきた娘の体力が限界を迎えて咳き込みだした。息しづらそうに何度も咳をする娘に、老婦人はあらあらとその背中を撫でている。しかし、女性の息はなかなか整わないようだった。
円野見が不意に腕を持ち上げて、老婦人の娘の前に手をかざした。
「聞いて。そして、見てください。僕の手の動きに合わせて、息をしてください。吐いて、吸って、吐いて、吸って……」
手を開いて握りしめるという動作を円野見は繰り返す。それに合わせて女性が呼吸を繰り返して、乱れて浅くなっていた息が正常に戻っていく。最後にぱっと手を開いて、もう大丈夫ですと円野見が告げた。
「ここは人通りも、日差しもありますし、それにお二人とも疲れているでしょう。お話は、帰ってからゆっくりしてもいいと思います」
「ええ、落ち着いたわ。ありがとう」
すっかり落ち着いた娘は、自分の背中を支えてくれている老婦人を見て、仕方なさそうに苦笑いした。無理に問い詰めたり、責めたり、嘆いたりすることは止めたらしい。部外者である尊斗もそれを見てほっとする。老婦人は、これ以上つらい目に遭うことはないようだ。
冷静になったところで、娘はいそいそと乱れた髪を手で整え始めた。よく見れば、野暮ったい黒縁眼鏡もずれているし、服装は襟の伸びたシャツにジャージ、足元はつっかけサンダルに裸足だ。円野見から連絡を受けて、本当にすぐに家から飛び出してきたらしい。
どう頑張っても見た目を整えるのは不可能だと諦めた娘は、円野見に向かって頭を下げた。
「君が連絡をくれた子ですよね。本当にありがとう、助かりました。それから、ええっと――……」
尊斗を見て、女性は少し警戒したような表情をする。やはり、でかい図体と人相の悪さが良くないらしい。さっさと帰ればよかったと後悔する。
気まずくなって視線を反らしていると、爪を食い込ませた尊斗の手に皺のあるやさしい老婦人の手が触れた。
「ありがとうね。気が楽になったわ、あなたが心配してくれたおかげでね……なんて言ったらちょっと不謹慎かしら。でも、本当にあなたとおしゃべりして元気になったのよ」
「別に、俺は何も」
「あら。そんなことないわ」
本当に何もしていない。勝手に勘違いして首を突っ込んで、感情任せに暴力を奮おうとしたかと思えば、好奇心で老婦人の話を聞きたがり、最終的には泣かせてしまったぐらいだ。老婦人がどこで何かを勘違いしたのか尊斗にはわからない。
しかし、微笑む母親の様子を見て納得したのか、娘もそうだったのねと頷いた。
「君もありがとう、うちの母を助けてくれて」
「だから、俺は何も……」
尊斗に対しても深く頭が下げられる。嘘は言っていないが、騙しているような気分だった。それに、他人からこんなふうに感謝されたことなんて一度もない。いろんな感情が複雑に絡み合いすぎて、尊斗はうんともすんとも返事ができなかった。むっつり黙ってしまった尊斗の代わりに円野見が、気にしないでくださいと軽く返事をする。
「本当はお礼をしたいんですけど、慌てて出てきちゃったせいで手持ちがなくて……ごめんなさい」
「本当に気にしないでください。僕は声をかけただけですから。そっちも、気にしてないだろ?」
「おう……」
「本当に、本当にありがとうね」
何度も何度も頭を下げた女性は、老婦人と寄り添いながら帰っていった。二人の背中を見送った尊斗は、指先から力を抜いて、そこで手の中に転がる違和感に気づく。その正体を確かめて、尊斗はしまったと声を上げた。老婦人から渡された軟膏のチューブを握ったままだった。顔を上げて去っていった二人の姿を探すが、どこかの角で曲がってしまったのかもう姿は見えない。
自分の鈍くささに舌打ちして、尊斗は仕方なくポケットに薬を入れた。
「なあ、大浦」
「あ? ……いや、は? 何でお前、俺の名前知ってんだよ」
名前を呼ばれて反射的に反応してしまったが、隣の人物は一方的に尊斗が知っていただけで初対面のはずだ。まさか、また何か不思議な力でも使ったのか。
不審そうな顔で睨んでくる厳つい顔の尊斗にも怯えまず、円野見は涼しげな顔で立っている。
「やっぱり、君が大浦だよな。校内で有名だから、名前は僕も知っていた」
「……有名人で悪かったな。つうかお前もそこそこ有名らしいぞ、円野見」
「昔してしまったことのツケというやつだな。今は、おとなしく学生してるんだが」
「俺だって、今は大人しく学生してんだよ」
「なるほど。お互い様というやつだ」
そっちから話しかけてきた癖に、円野見は興味があるような、ないような、感情の読めない返事をする。顔も無表情ではないが、穏やかで何を考えているかわからない微妙な顔つきをしている。すれ違っても印象を持たない平凡な顔だが、尊斗に睨まれて平然としている奴は平凡ではない。
正体が掴めなさすぎて居心地が悪いが、尊斗には帰る前に一つ確認しなければいけないことがあった。
「結局、お前がやってたあれって何だったんだよ、何をした? まさか、超能力なんて言わないよな?」
「あれ、というと?」
「あれだよ、あれ! お前がやってた不思議なあれ……くそっ、どう言えばいいかわかんねえ」
「君が聞きたいことはわかっている。……そうだな、大浦は手品は嫌いか?」
手品はテレビで見たこともあるし、やっているクラスメイトを見かけたこともある。今朝、洋司がやっていたのもその類いのものだろう。しかし、今はそんな話をしていない。回りくどい円野見の言い回しに、思わず尊斗は舌打ちしてしまい。
「手品なんてどうでもいいんだよ、別に興味ねえ。そんなことより質問に答えろよ。それとも、さっきのは手品ってことか?」
「種も仕掛けもあるという意味では、僕がやったことも手品と一緒だ」
「……だから、何をしたんだって聞いてんだよ! 言い回しがめんどくせえんだよ! 詐欺師かよ、お前はよ!」
「詐欺やペテンと勘違いされることもあるが、これはれっきとした技術――催眠術だ」
不意にできた雲の切れ間から太陽の光が差し込む。幻想的な黄金色の光は真っ直ぐに伸びていき、円野見が掲げた手を神々しく照らして輝かせた。そこには不思議な力が宿っているのだと、不思議なものが大嫌いな尊斗さえ一瞬信じそうになってしまった。
しかし、瞬きの間に雲の切れ間は閉じてしまい、魔法の解けた尊斗は首を横に振った。
「催眠術って、やっぱ怪しいもんじゃねえか!」
「それは世の中に広まる誤解だ。いつを起源とするかは諸説あるらしいが、元は医療目的の技術だ。催眠術にはちゃんとやり方があるし、不思議な力は必要ない。信じられないならネットで調べたらいい。もちろん怪しいネット記事もあるだろうが」
「お前は、その催眠術を使ってさっきのばあちゃんを助けたのかよ?」
「そのとおり。僕が使ったのは催眠術だ。……ただ、誤解があるようだから言っておこう。僕一人でご婦人を助けたわけではない」
「は? さっきから意味わかんねえ言い方すんなよな……」
物静かそうな見た目の割に円野見は話し出すと長い上に回りくどくて面倒くさい。尊斗はだんだん疲弊してきて、素直に話を聞いているのが馬鹿らしくなってきた。聞きたかった不思議な力の正体もわかったし、もう無視して帰ってしまおうか。帰宅時間も大分過ぎてるし、祖母も心配してしまう。
疲れた雰囲気を察知したのか、ずっと涼しい顔をしていた円野見がすまないと言って、軽く眉間にしわを寄せた。初めて表情が変わったなと尊斗が思っていると、自然と意識を手繰り寄せるような落ち着いた声で名前を呼ばれる。
「なぁ、大浦」
「んだよ」
「催眠術は、催眠をかける対象からある程度の信頼をこちらに向けてもらうことが前提となる。僕一人では無理だったんだ。君があの人に話しかけたから、あの人は安心した。だから、催眠をかけられた」
「……つまり、俺はまんまとお前に操られて、催眠術の手助けをしちまったってことか?」
「君がいなければあの人を助けられなかったと、そう言いたかったんだ。……僕の言いたかったことは以上だよ。長話を聞かせて悪かった」
「何だそれ……あ、おい!」
散々長ったらしく話をしていた円野見は、突然ぶつんと糸を切るように話は終わらせてしまった。そして、そのまま尊斗に背を向けてとっとと帰ろうとしている。
あまりの唐突さにおいと引き留めようとしてしまったが、途中ではたと尊斗は気づいた。自分だって帰りたかったんだから、ここで引き留める理由はない。しかし、向かう方向が一緒だからこのままだと並んで帰ることになってしまう。
じゃあ円野見が背中が遠くなるまで待っていようと決めた尊斗の前で、帰りかけていた円野見がぴたりと足を止めた。何だと訝しく思っていると、振り返って言った。
「……何もできなかったなんていう君の負い目は、自己中心的な見方による錯覚だ」
円野見の聞き取りやすいよく通る声は、ある程度距離が離れていてもはっきりと尊斗に届いた。それだけ言って、今度こそ振り返りもせず円野見は行ってしまう。地味な生徒の後ろ姿は、他の下校中の生徒たちの中にまぎれてすぐわからなくなった。
「あいつ、人の心でも読めるのかよ……」
思わず呟いた自分の言葉は、即座にそんなわけねえだろと自分で否定した。だって、そんなものを尊斗は認めるわけにはいかない。
「不思議なことなんて、この世にねえんだよ」
変なことを口走ってしまった自分自身に尊斗は舌打ちをした。
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