第4話 うららちゃん

 円野見が老婦人と話をしている間に、交番に走るか。不良をしていた尊斗にとって警察はお世話になりたくない相手だったが、こんなときにこだわるほどのものじゃない。

 交番に行ってくると尊斗が声をかける前に、円野見が茶封筒を握る老婦人の手の上に手を重ねた。驚いて肩を震わせる彼女を安心させるように、円野見がゆっくりとやさしく言い聞かせるように語りかける。


「聞いて。そう、安心してください。貴女の安寧をおびやかすものはない。穏やかで温かく歌いたくなるぐらい良い天気です。リラックスして。そして、歌うように教えてください。貴女の持っているお金は大事なものですね。なぜ必要なんですか?」

「……ええ、そうね。うちの子が泣いていると聞いたの。このお金があれば助かるんですって。だから早く行かないと」

「助けるためにお金が必要なんですか?」

「そうらしいわ。急がないとうちの子が大変なことになるんですって。でも、救いの力を求めている人がたくさん待っているんですって。だから、うちの子を本当に救いたいのなら、お金を払えば優先的に救ってもらえると言われて」


 。聞くだけで、尊斗は虫酸が走る。それで、実際に誰が救われているのか。祖母はお金を払って、取り乱して泣いて、怯えて、癇癪を起こした。目の前で青い顔をしている人は、金を払えば救われるのか。本当に? 老婦人の大切な子はちゃんと救ってもらえるのか?

 ぎりぎりと爪を立てる尊斗とは対照的、円野見は怪しげな言葉を聞かされても冷静だった。早すぎも遅すぎもしない穏やかで落ち着いた声でまた語りかける。


「……なるほど。大切な子を守るための、大切なお金なんですね。つまり、このお金には貴女の大切なものを守る力を持っている。貴女の手の中に守るための力がある」

「そうね、とっても大切なの」

「そんなに大切なものであるなら、きちんと持っていないといけません。さあ、持って。両手でしっかりと抱えて、身体を丸めて、全身で守ってあげてください。もっと強く、強く、強く、強く。貴女の手で守るんです。もっと強く抱き締めるんです」


 円野見は相手の話に頷きつつ、金の入った茶封筒を抱き締めるように誘導する。言われるがまま動く老婦人は、茶封筒を両手で握り、身体を丸めながら抱きかかえ、言葉に促されるままどんどん力を込めて身体を固くする。まるで見を守ろうとするダンゴムシのような奇妙な姿だった。強く力を入れすぎているのか、細い背中が震えている。


「おい……」


 見ていられない。尊斗が止めようとしたところで、ぱんっと円野見が両手を叩いた。拍手と同時に緊張感が弾けて、だらっと老婦人の肩から力が抜けた。彼女は、たった今夢から覚めたような不思議そうな顔をしている。

 円野見はにっこりと微笑んで、老婦人に向かって労いの言葉をかけた。


「がんばりましたね。もう大丈夫ですよ」

「え? あら?」

「貴女がちゃんと守ったので、救われたんです。怖いことはありません。不安なことはもうありません。大丈夫です」


 そう声をかけられて、老婦人の指から力が抜けた。絶対に手離すまいと握り締めていた茶封筒が膝の上に転がっていた。呆然としているようだったが、表情はさっきよりも明るい。憑き物が落ちたように尊斗には見えた。

 自分でも何が起こったのかわからないらしく、老婦人は何度も首をかしげていた。


「なぜかしら。あんなに不安だったのに、急にふわっと気が緩んできちゃったわ……。私、何をそんなに慌てていたのかしら」

「気が抜けたんですね。それは、貴女が全身全霊で大切なものを守った証です。だから、安心できたんでしょう。でも、頑張りすぎて疲れているかもしれません。ゆっくり深呼吸して、身体をリラックスさせてください」


 円野見に言われて、老婦人はゆっくりと深呼吸をする。息を吸って吐くたびに、身体の強張りがほどけていって、表情も穏やかになっていく。すっかり落ち着いて、今すぐお金を持っていこうという気持ちは消えたようだった。

 何が起こったのか尊斗には理解できなかったが、円野見の力で老婦人が助けられたことはかろうじてわかった。

 力が抜けて気が緩んだのか眠たそうに目を細める老婦人に、円野見がところでと声をかける。


「連絡がつく身内の方はいますか? その人に迎えに来てもらいましょう。全身を使う大仕事をして、疲れてしまったと思いますから」

「ええっと、近くに娘が住んでいるわ。今日は定休日だから、今からでも連絡は取れるとは思うけれど」


 老婦人から娘の電話番号を素直に教えてもらった円野見は、僕から連絡をしますねと自分のスマホを取り出した。あまりにも滑らかに連絡先を手に入れるところが詐欺師っぽいが、ここまで来てそんなことはしないだろうと尊斗は受け入れた。結局、自分は何もできなかったと失望する。

 そんな尊斗に近づいて、円野見が小さい声で囁いてくる。


「僕が電話をしている間、ご婦人についていてくれないか。大金も持ったままだし、気が抜けた今だと違う意味で危ないだろ?」

「……わかった」


 それぐらいなら自分でもできると尊斗は了承した。

 振り返ると、老婦人はぼんやりとした眠たげな表情で日向ぼっこをしている。本当にこのまま寝てしまいそうだが、大金を持っているのだから危ない。変な輩が近づいてこないように、しかめっ面で尊斗は老婦人の横にしゃがみ込んだ。


「ばあちゃん、眠いのか?」

「そうね。今日はとっても暖かいから……今日はこんなに天気が良かったのねえ」

「でも、こんなところで寝ると風邪を引いちまうだろ」

「あら、心配してくれてありがとう。とっても良い子ねえ」

「……俺は違えよ」


 老婦人に褒められるが、尊斗は否定する、自分が良い子でないことはよくわかっている。良い子は、校則を破らないし、人から怖がられない、人を殴らない、祖母も泣かせない。今だって、結局暴れるだけで何もできなかった。自分は何をしたって良くはならない。それが一番腹が立つ。

 がりがりと首の後ろをかく。赤い線のようなひっかき傷ができたが、無意識だった尊斗は痛くない。その手を止めたのは老婦人だった。皺の刻まれた指先が、やさしく尊斗の手を包む。


「そんなに強くかいたら、傷になっちゃう。虫に刺されたの? 何かお薬持っていたかしら」

「別に大丈夫だって。かゆくねえし、痛くもねえよ」

「でも、赤くなっているわ。そのままにしていたら駄目よ。よく見せてごらんなさい」


 首の後ろを真っ赤にした尊斗を心配して、老婦人が傷を見ようと前屈みになる。そうやって身体を前に倒すと、膝の上に乗せていた茶封筒が滑り落ちそうになった。地面に落ちそうになったぎりぎりで尊斗がキャッチする。


「本当に心配ねえから。俺よりも、ばあちゃんは自分の心配しろよ。お金は大事なんだから、ちゃんと鞄に入れたほうがいいぞ」

「あら、本当ね。どうしてこのまま持ち歩こうなんて思ったのかしら」


 老婦人は茶封筒を受け取ると、今気づいたというようにいそいそと両手で覆い隠し、ベンチにぽつんと置かれていたビーズバッグの中に丁寧に戻した。そして、そのままバッグの中を探り始める。


「ええっと、あったわ。手荒れしたときに持ち歩いていたのをそのままにしていたのね。さあ、どうぞ」


 老婦人はにこにこ笑って、バッグの中から取り出したチューブの軟膏を尊斗に渡した。アロエ成分配合と印字されている。思わず受け取ってしまったが、本当に痛くもかゆくもない。尊斗はすぐ返そうとして、こちらに注がれるやさしい眼差しに気が削がれてしまった。

 この人の大切な子はどんな子なんだろうか。尊斗は、思わず聞いてしまった。


「うちの子を助けるってばあちゃんは言ってたけど、一体何があったんだよ?」

「先月、ずっと大切に飼っていたうららちゃんが虹の橋を渡ってしまったの。もう二度と会えないなんてどうしても思えなくて、今も空っぽの水槽に挨拶してしまうの」

「それってペット?」

「そうよ、かわいい亀さんだったわ。……どんな生き物にも最期は来るわ。それはわかっていたの。でも、最期のその瞬間を見送ってあげられなかったことがずっと心残りだったの。私がご飯を食べているうちに……一日ぐらいご飯なんて食べなくても私は平気なのにねえ」


 老婦人の大切な子というのは、ペットの亀だったらしい。尊斗は動物を飼ったことがないからわからないが、本当に家族として大切にしていたんだろうということはわかった。ペットの話をしている老婦人の瞳は悲しそうだったが、それと同時にやさしかったからだ。尊斗の祖母と同じだ。

 でも、どうやって慰めたらいいかわからない。尊斗に言えたのは、毎日祖母から言われている言葉ぐらいだった。


「ご飯は、ちゃんと毎日食べたほうがいいだろ……」

「そうかもねえ。でも、見送れなかったのが悔しくて、悲しくて、涙が止まらなくて、何にも手がつかなかったの。身体も何だか重くって、見送ってもらえなかったうららちゃんが悲しんでいるんだと思ったわ。私の後ろに悲しんでいる顔が見えるって言われたもの」


 亡くなった亀の悲しい顔を詐欺師が見たらしい。見えてたまるか糞野郎と尊斗は心の中で毒づく。さすがに口に出しては言えなかった。

 苛立ちを押さえつけるため、自然と尊斗は低い声になってしまった。


「……それで、金を持ってこいって?」

「ええ、そうなの。悲しむうららちゃんをカグチ様の火が天国へ導いてくださるのですって」


 つまり、勝手に大切なペットの名前や悲しみを騙り、それを金に変えようとした奴がいるということだ。糞野郎、ぶん殴ってやる。

 尊斗はがりがりとまた首の後ろをかいてしまったが、さっき老婦人に注意されたことを思い出して手を下ろした。代わりに爪を手のひらに食い込ませる。


「ばあちゃん、まだ悲しいか?」

「悲しいのは悲しいわ。でも、なぜかはわからないけれど、ずっと身体に圧しかかってきていた重さがすうっと消えたの。うららちゃん、許してくれたのかしら」

「うららっていうのは、どういう奴なんだよ?」

「うららちゃん? うふふ、いっぱい写真を撮っていたのよ。ちょっと待っててね」


 尊斗が聞くと、老婦人は嬉しそうな声を上げる。ビーズバッグの中をまた探ったかと思えばスマホを取り出して、これよと画面を見せてきた。

 液晶画面に写っていたのは、濡れてつやつやした顔で満足そうに目を細めている亀だった。光に当たってきらきらと輝いている。


「日向ぼっこ中のうららちゃんよ。かわいいでしょ」

「なんつーか、笑ってるみたいに見えるな」

「ええ、そうなの。意外と表情豊かなのよ。お腹いっぱい食べて、水浴びをして、日向ぼっこするのが日課だったわ」

「確かに幸せそうな顔だな」


 動物に詳しくない尊斗には、亀は無表情というイメージがあったが、こうして写真を見るとちゃんと笑っている。そう思って素直に言っただけだったのだが、はっと老婦人が息を詰めた。取り戻したはずの微笑みが消えて、口の端がひくりと震えている。

 何か悪いことをしてしまったと尊斗は焦るが、老婦人は震える声で尋ねてきた。


「しあわせ……幸せだったのかしら」

「俺には、そう見えるけど」

「そう。そうだったら、いいわね」


 ぽつりと皺のある目尻から一滴涙がこぼれた。老婦人の反応に尊斗は慌てた。自分は何をしても悪い方向に転がってしまう。もう何もしないほうがいいだろうと硬直していると、背後から落ち着いた穏やかな声がかけられた。


「君、おばあちゃん子なんだな」


 振り返ると、電話を終えた円野見がこちらを覗き込んでいた。亀の写真を見ると、にっこりと笑って涙を拭っている老婦人に話しかける。


「助けたいのは、亀だったんですか?」

「そうよ、うららちゃんというの」

「そうですか。……ああ、そういえば娘さんはすぐに迎えに来るそうです」

「そうなのね」


 円野見に話しかけられて、すっかり老婦人は晴れやかな顔になる。それを見て、尊斗はこっそり胸を撫で下ろした。やっぱり、自分は駄目だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る