第3話 少年たちの邂逅

 信号が青になってすぐ、尊斗は短い横断歩道を走って渡った。嫌な想像しかできない。膝をついている円野見の背後に立つと、人の気配を感じとった彼が身体をよじってこちらを見上げてきた。

 その感情の見えない表情に、尊斗の中から怒りが溢れてくる。


「何してんだ、お前……!」

「何と言われると困るけど、君はこちらのご婦人の知り合いか?」


 上から厳つい顔で睨みを利かせてくる相手に、円野見は余所行きのような行儀のいい姿を少しも崩さなかった。何かを取り繕っているように感じた尊斗は、襟元をひっつかんで無理矢理でも本性を引きずり出してやろうかと考えて、やめた。円野見の後ろで、小さくなった老婦人が不安そうにこちらを見ている。

 尊斗は人から怖いとよく言われる鋭い目を一度強くつぶった。視界から胡散臭い顔が消えると少し怒りも落ち着いてくる。

 深呼吸をしてから、尊斗は老婦人に話しかけようと腰を下ろした。昔の癖で大股を開いたヤンキー座りになっていることに気づき、膝と膝の間を軽く閉じてからできるだけやさしく聞こえるように話しかけた。


「なぁ、ばあちゃん大丈夫か? なんか困ってないか?」


 柄の悪そうな少年にそうやって声をかけられて驚いていた老婦人は、尊斗の質問にゆっくりと首を横に振った。しかし、彼女の視線は落ち着きなくあちらこちらに揺れていて、表情もひきつっている。どう見ても不安そうだった。その手にある茶封筒は、細い指で握りしめられているためにくちゃくちゃになっている。

 やはり円野見が何かしたかと疑う尊斗に、老婦人はやっと口を開いた。


「あのね、待ち合わせ場所がわからなくなっただけなのよ。でも、困ったわ。お金を渡さなきゃいけないのに……」

「は、金?」

「あ、悪いことじゃないの。うちの子のためにどうしても必要なのよ」


 老婦人の言葉を聞いた瞬間に、かろうじて抑えていた尊斗の怒りが爆発した。シャツの襟を掴んで引っ張ると、喧嘩慣れしていなさそうな相手は簡単にバランスを崩す。そのまま円野見の首を絞めるようにして持ち上げた。澄ましていた顔が苦しそうに歪むが、その程度では尊斗も収まらない。

 がちがちと奥歯を噛んで、唸る獣のように凄んだ。


「てめえらにトクベツな力とやらがあるんなら、その力で勝手に金でも、宝石でも、何でも増やせばいいだろうが! クソみてえな詐欺師野郎どもがっ! 俺が今すぐ便所に流してやろうか!」


 脅しじゃなく、本当にそうしてやったっていい。そうしてやりたかった。そうしてやる。自分の中の衝動に突き動かされるまま、地面に引き倒してやろうと握る手に尊斗が力を込めたときだった。びくりと震えるほど冷たい手が、熱くなっている尊斗の肩に触れた。驚いて一瞬動きを止めた尊斗の鼻先に、円野見が静かに人差し指を突きつけてくる。反射的に指先の動きを目で追うと、ゆっくりと落ち着いた低い声で語りかけてきた。


「聞いて。冷たい、冷たい、冷たくて凍ってしまう。肩から肘、肘から手首、手首から指先まで、全身が凍ったように動かなくなる。さあ、凍ってしまった。君は、動けない」


 肩、肘、手首、指を流れるように指先が流れるように示すと、ぱちんと指が鳴らされる。瞬間、尊斗の全身は凍ったように硬直する。動かしたくても動かせない。指にも力が入らない。まるで不思議な力が働いたようだと考えかけて、ふざけるなと考えるのを拒否する。

 尊斗が混乱している間に、何かやったらしい円野見がするりと尊斗から離れる。曲がった襟を直すことまで目の前でしてみせる。

 服装を正した円野見は、特に怒った様子もなく淡々とした顔つきで凍った尊斗を見た。


「頭に血が上りすぎて冷静に話を聞いてもらえないようだったから、少し凍ってもらった。頭は冷えたか?」


 頭は冷えたかと言われて、本当に冷える奴がどれぐらいいるのか。尊斗が凍った身体で頭だけぐつぐつ煮えたぎらせていると、力なく細い老婦人の声がかけられた。


「あの、殴り合いは駄目よ。お友達でも気が合わなくて喧嘩することもあるだろうけど、暴力は駄目ね。だって痛いもの。記憶に残った痛みは後々に人の心も歪めてしまうわ」


 唐突に目の前で揉め出した若者たちに対して、ベンチに座っていた老婦人が年長者らしく穏やかな声で仲裁する。その声を聞くと力みすぎていた身体からが抜けていった。

 尊斗が少し落ち着いたタイミングで、パンと円野見が手を叩く。途端に拳を前に出した状態だった尊斗の硬直が解けた。ぜいぜいと荒く息をして睨み付ける尊斗に、円野見が両手を挙げる。


「だから、誤解だ。君は、僕がご婦人にお金を用意させたように思っているんだろうが、事実は違う。……ここまではいいか?」

「じゃあ、何だってんだよ?」


 尊斗の口からは喧嘩腰の低い声が出る。しかし、とりあえず拳は下ろしておいた。偉いわねえと誉めてくる老婦人に居たたまれなくなる。


「僕は、こちらのご婦人に待ち合わせ場所がわからないと僕は道を聞かれたんだ。尋常ではない様子だったから、一度座ってもらって話を聞いていた」

「そうね。道に迷って足が痛くなってきたところを、この子にここまで連れてきてもらったのよ。……待ち合わせ時間、大丈夫かしら?」


 老婦人はにこにこ笑っている顔を一瞬陰らせて、時間を気にし始めた。金を持って来させようとした糞野郎はいるらしいが、それは円野見ではないらしい。

 自分が先走って勘違いしていたと理解した尊斗は、ちらっと自分が暴力を奮おうとした相手の様子を見る。円野見のほうは気にしていないような凪いだ表情だった。しかし、横を通り過ぎていく学生や通行人たちがちらちらこちらのことを見ている。また、感情任せに喧嘩をしようとしてしまった。暴力沙汰を起こしたなんて家に連絡されたら、また御利益のある壺が増えるかもしれない。

 自分が悪かったと認めて、尊斗は目付きの悪い顔で深々と頭を下げた。


「胸ぐらつかんで、悪かった……。お前が望むなら、俺のことも一発殴ってくれてもいい」

「気にしないでいいし、殴るつもりもない。喧嘩慣れしていないから、僕の手のほうが痛くなるだろうし」


 罵られるのを覚悟で謝った尊斗に対して、円野見はさらりと受け流してしまった。それよりもと、円野見はそわそわと落ち着かない老婦人に声をかける。


「それで話の続きなんですが、お金を持ってこいと言われた相手と待ち合わせをしているんですか?」

「そうなの。足の痛みも大分良くなったから、そろそろ行かなくちゃ。ああ、でも場所がわからなくなっちゃったんだったわ。だけど、早く行かなくちゃ……」


 ベンチから立ち上がろうとする老婦人に対して、円野見は目の前にさっと手を前に出した。そして、ゆっくりと指先を左右に振る。


「聞いて。急に立たないほうがいいです。貴女は、くらりとめまいがしてしまう。そんなこともあるでしょう」

「あら、確かにちょっとふらっと。急いでいるときに限って……嫌ね」

「大丈夫。さあゆっくり深呼吸してみてください。貴女の身体から、力がすうっと抜けていきます。さあベンチに座って、慌てることは何もないのだから」


 さっき尊斗に行ったのと同じだった。円野見の静かで落ち着いた声で語りかけられると、まるで操られるように従ってしまう。立ち上がりかけていた老婦人は、ふらふらとまたベンチに戻る。

 尊斗は横目で円野見の様子を窺った。詐欺師ではないらしいが、奇妙な力のようなものを使っている。違う意味で怪しい。肩を揺さぶってただしたいぐらいだが、それどころじゃないのも確かだ。

 老婦人は茶封筒を大事に抱えて、離そうとしない。恐らくあの中に金が入っているのだろう。しかし、現金を持って待ち合わせなんて、学生の尊斗でもわかるほど怪しい。十中八九詐欺だ。このまま行かせるわけにはいかない。

 尊斗は円野見の肩を軽く叩いて、老婦人に聞こえないように囁いた。


「おい、これ絶対に詐欺だろ」

「わかってる。僕も怪しくありませんかと言ったんだが、逆に頑なになってしまわれてな。どう説得しようかと考えていたんだ」

「……まぁ、そうだな。信じてるものを否定しても、どうにもなんねえ」


 尊斗の祖母も頑なに不思議な力を信じていた。否定すればするほど、力にすがろうとした。もうどうしようもなかった。

 だからといってここで老婦人の話を肯定して、黙って待ち合わせ場所に行かせることもできない。

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