第十一夜

@oryo

第十一夜

 こんな夢を見た。

 真っ白いもやの中に自分が居る。何処どこに立っているのやら不安になり足元を見ると緑の雑草がうっそうと生い茂っている。此処ここは丘だろうか。視線を上げると丘のいただきには一本の木が生を芽吹き、その下になにやらある。かすかに見えるそれのみ知覚した。対し周辺にはなにもなく、ふもとに位置する自分と、いただきに見えるものだけが存在している。自分は、どうにも樹下に咲くそれが気になって仕方がなく、一歩踏み出した。さらに、また更に。自分が足を前に出せば世界が現実味を帯び、情景は確実なものに近づいた。


 樹下に在ったのは薄桃色の花。花が密集しているのを見ると、紫陽花あじさいであろうか。知識の浅さゆえ、自然にあの様な咲き方をする花をそれ以外には知らなかった。紫陽花とは夏の時期咲く花である。しかるに自分は木の周りには春が宿っているように感じれた。ともあれ答えは得たと言える。これ以上に迫る必要も無し。自分はそう思い、きびすを返し戻ろうとした。重ねて思う。何処どこへ戻るのだ、何故なにゆえに戻るのだ、と。刹那せつなとき、背後に気配を感じ再度、いただきの方を向く。


 自分は何かを忘れてしまっているような強迫観念に駆られ、半ば強引に体躯たいくを進めていた。すると途中で、自分よりも随分と若い容姿の男を見つけた。その男に、あの木を目指しているのかと、息を切らしつつも問うた。男は

「いいや、私はあそこを目指してはいない。もとよりあそこ行く資格も、思い出す権利もまだ持ち得ないのだ、お前とは違って」

 推測だが男と自分は初対面である。にも拘らず随分と居丈高いたけだかな態度で少々気に食わないが男の、資格というが頭から離れなかった。そんなことに資格が必要か、と自分も少し強く言うと、当たり前だ、と。わかったのは男に進む気はないということだけ。待つ理由もない上、会話すれば、絶えず感じる恐怖も幾分か良くなると踏んだが、効果は得られない。差し当たって勘定し、小走りで急ぎ気味に前へ。そこまで速度を変えた意識はないが向かい風が肌に当たる感触があった。ぼうっ、と風の音も聞こえた。続けるように川のせせらぎも耳にる。なんと、よく右に目を凝らすと、丘の下には川が流れている。調子良く鳴る流水音は、空気に溶け合っているかのように、自然と鼓膜を揺らす。遂にはさえずりまでもが聞こえる。限りない幸福感が広がっている。何処までも心地いい。自分は目を瞑って走った、風を切る音が周囲に木霊こだまする。いつしかそれは──聞こえない。


 自分は焦燥しょうそういだき止まった。足裏の感覚がない。目をを開くと光がない。空気の波がない。地面からする植物特有の匂いもない。口腔内こうくうないに唾液の味一つない。─────────! 誰に聞こえもしない叫び声をあげた。肺が辛い。呼吸を忘れてしまっている。苦しい、助けてくれと懇願する。拍動が全身に響く。あと数秒経たないうちに五感が回帰せねば自分は可笑おかしくなってしまう。耳鳴りがする。


「聞こえるかい」

 男の声が聞こえた。先程さきほどとは違う男だと思った。より老けていて、重みがある。人生に悟りを開いているかのような重すぎる声が聞こえた。自分は知らずらず、あれ、聞こえる、と呟く。五感が徐々に回復する。味覚、嗅覚、触覚の順に治る。視覚は治りきらず白黒にしか見えない。男の顔を凝視し、驚いた。数分前にあった男がそのまま歳をとっている。若かった方の男は二十代後半だが、今目の間に立ちはだかるのは三十代後半とみえる。自分は無性むしょうに聞かねばと思って同じ質問をした。

「そうさ。だけれど私は辿り着きそうにはない。着けば、そのたびにはっきりと思い出すでしょう。その資格や権利は貴方にある」

 同じだ、返答まで。違うのは自分がその発言を理解しつつあること。その真意に手を掛けようとしていることだ。忘れていたこと、が明確化している。自分はその答えの得方えかたを男に尋ねた。男は答えを知っている。

「歩め。走れ。け。け。あの木のそばには、春が宿っている」


 言い終える前には進んでいた。世界がじんわりと色付き、彩られる。白黒の世界に誰かが絵の具を零す。いや、本当はもう誰が施したのか理解しているのかもしれない。覚悟溢れんばかりの前進。どんっ! 鈍く響く。自分でも意想外いそうがいに力を入れていて足が痛い。爪先から頭頂まで寸分狂わず震える。大丈夫だ。さっきほどでない。死ぬほど苦しくもつらくもない。心做こころなしか死にたいという欲さえあったようはんじられる。でも今自分は心の奥底から叫べる。生きたいんだ、と。


 靄は突如に途絶える。何年も目指していた、いただきに自分は立っている。真実を受け止めている。木の横には赤色の紫陽花が自生していた。靄で色が薄くなっていて赤が薄桃で見えていたのだなと気づいた。木の幹を一周するように咲いている紫陽花、これらには通常香りがない。しかながら、ここには控えめな甘い香りが満ちている。無臭の世界から、急に匂いが感じれるようになって嗅覚が敏感だ。鼻腔びこうくすぐる全てを間違える筈がない。木に手を当てながら裏側を見る。其処そこには、夕陽で照らされていてより強くその真紅しんくを主張する椿つばきの花束と墓石のようなものがあった。

「間違ってはいなかったとも。木の側には春があった」

 視界が光で一杯になった。過去に感じたあの彼女ひと抱擁ほうようのように温かい。


 ──目が覚めた。自分が知り尽くし何度も見た天井だ。我が家だ。窓掛けから細く光が漏れている。勢い良く開くと、目を細めてしまうほどに輝かしい陽が差す、良き朝だ。用を足して手を洗う。ついでに顔を洗い、鏡で顔を確かめる。眼前で鏡に映るのは、あの二人よりも更に、ただ老けた顔だ。手早く着替えてあの丘に向かう。あんな夢を見た丘に。

 

 

 

 

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