わたくしは貴方に殺されたい

のうたりん

序章

額にこの一吻を与えよう!

そして、いま君と別れゆくにあたり、

このことだけは認めておこう——

私の人生が夢であったと思うのは

君の勘違いではない。

しかし、もし希望が飛び去ってしまったなら、

それが夜であれ、昼であれ、

幻の中であれ、そうでないにしても、

それで希望が消えた事実に何か違いがあるだろうか?

私たちが目にするもの、あるいは思うものすべては、

夢の中の夢に過ぎないのだ。

――― エドガー・アラン・ポー 「夢の中で」



高島レンタカア社長 ダニエル清の独り娘であるクララ千代が何者かに殺された、との報せはアッという間に世間を駆け巡った。犯人は用意周到であり、証拠のひとつも出てこない。清によると千代の遺体は頭部が綺麗に切り取られ、その頭部は屋敷を探せど見付からないのだと言う。 ――鍵のかかった部屋で起こった摩訶不思議で猟奇的な殺人事件にやいのやいのと記者たちがかじりついている頃、千代の世話係として務めて居た虎松は大きなボストンバッグをふたつ握り締めて高橋邸を後にした。

世話係として十年余り苦楽を共にした、恋人以上の関係にあった女の死をいちばんに見付けた虎松に、清が長い休暇と食いっぱぐれる事の無い大金を寄越したのである。落ち着いた頃にでも戻ってこい、と目頭を抑える姿は虎松にとってもどこか胸がジクリと傷む物があった。


テカテカと磨かれた革靴を鳴らしながら向かう先は行き付けの喫茶だ。まだ日が高く昇ってすぐだというのに、ベルを鳴らしてドアを開けると喫茶のマスターである増田が煙草を咥えて悲しいやら切ないやらと言った表情を浮かべてカウンターの椅子を引くのを見届けると、虎松は少しばかり会釈をし、ハンチング帽とコートを脱いで隣の席へ落ち着かせる様に置いた。

背の高い丸椅子に腰掛けてすぐにバッグからシガーケースを取り出して、煙草を一本指に挟むと口元に咥え、マッチで詰まった葉を燻らせてゆく。


「虎ちゃん…… 。千代さんの件はご愁傷さまで。ダニエルさん達はどうだい。」

「お気遣い、かたじけのうございます。奥様も旦那様も、まるで気狂いのように。何せ、千代様はお二人にとってはたった一人のお嬢様でしたので。」

「そうかい……。虎ちゃんはこれからどうするんだい?やけに大荷物じゃないか。」

「わたくしは ―― 江ノ島へと参ります。」


それきり口を噤み、気落ちしたように天井へ昇りゆく紫煙を見詰める虎松に、松田は少々心配になって、一杯の珈琲を淹れてやることにした。なにせこれだけの大荷物を抱えてやってきたのである、“良からぬこと”を考えているとすれば、それは止めてやらねばならない。

珈琲豆を挽きながらちらりと虎松の様子を見ると、号外屋の少年を物思いにふけった様子でぼんやりと眺めている。かつて、バータイムに彼が来て、酔っ払った様子で自らの主である千代への愛をべらべらと喋っているのを見た事がある。(たしか、其の時もこの席に腰掛けていたような、いなかったような……。)この色男を夢中にさせる女はどんな女かと思っていたが、ある時街で虎松と共に馬車を降りるヒラメ顔をした太眉の女だったのを知ったとき、松田は腰を抜かしかけてしまった。

一見美人とは形容しがたい女だったが、彼だけが知る彼女の顔もきっとあったのだろう。愛する主人を失った美青年――それはまるで、未亡人のような哀しくも怪しげな美しさを孕み、同じ性を持っているにも関わらず見とれてしまう。


「東京はやかましく俗っぽう御座いますが、千代様の愛した地であり、また没した地となれば、いささか美しゅう思われます。」

ゴポゴポと湯の沸き立つ音が響く店内に、虎松の美しいテノールの声がこだまする。その声に振り向くと、虎松は煙草をぐりぐり灰皿に押し当て、愛おしげひとつのボストンバッグを見詰めて親指で撫でているところだった。悦に入ったように少し開いたバッグを見詰めながら、虎松は舌を滑らせる。

「こちらのバッグも、千代様より賜りました形見でございます。……マスター、少々与太話にお付き合い頂けませぬか。わたくしが千代に抱いておりました感情を、貴方様になら、吐露することができるのです。」

ジジジとファスナーを閉めた虎松は、松田ににったりと微笑んだ。きゅぅ、とヤカンが耳障りな甲高い音を立てるのを、松田は慌てて止めに走ったのだった。

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