部長と私と、時々苦いコーヒー。

海月いおり

部長と私

 愛して、愛されて、恋を知る。

 大切にして、大切にされて、人は人として成長していく。

 少し前に親が教えてくれた言葉だ。

 残念ながら私は、愛や恋などとは無縁なもので。悲しいことに彼氏いない歴が年齢だという事実を揶揄され始めた私は、29歳の会社員、柳瀬やなせ萌榎もかという。


 結婚なんてもう既に諦めている。男性と関わりの無い私には、彼氏を作ることすら高難易度だ。だから両親からその言葉を聞いた時、私は2人にしっかりと伝えた。『申し訳ないけれど、孫は諦めてね』と。


 あの時の驚いた両親の顔が、今でも脳裏に浮かぶ。悲しそうというか、泣きそうというか……複雑そうな表情の両親に対して、とんだ親不孝者だと、自分自身のことを客観的に見て思わず笑いを零した。





「……行田ゆくた部長」

「柳瀬さん、お疲れ様」


 地方にある小さな民間企業。電気工事を行うこの会社の総務部に勤務している私は、昼休みになると社屋の裏にあるベンチに向かう。

 誰も座らないベンチで私だけの特等席……だったはずなのに、最近は先客が居るのだ。経理部長の行田ゆくた裕章ひろあきさん。突然現れた彼は、毎日物憂げな表情で缶のブラックコーヒーを飲み、1人空を眺めている。


「……お疲れ様です」


 私は部長の隣に座らず、少し離れた場所にある石段に腰を掛ける。すると、ベンチを軽く叩きながらこちらを見つめてくる。これが、いつも通りの私たち。

 大人しくベンチに移動して部長の隣に座ると、フッと小さく笑ってくれた。

 ベンチに座った私は、手に持っていたお弁当袋を開けて小さなおにぎりを3つ取り出す。私の好きな鮭、ツナマヨ、梅の3種類。それらを部長の隣でゆっくりと頬張る。


 特に何か会話を交わすわけでもなく、2人で呆然と空を眺めながら同じ時を過ごす。何物にも代えがたい時間が、実はここ最近のお気に入りだったりして。

 静かに缶コーヒーに口を付け、黙ったままの部長。静かな空気感に、言葉では言い表せないくらいの落ち着きを感じるのだ。

 最初こそ部長に邪魔をされたと思った。だけどそう思っていた頃の気持ちはすっかり消え失せて、今では部長が隣にいてくれないとなんだか落ち着かない。


「……部長、お昼ご飯は食べましたか?」

「いや、今日もいいんだ」

「食べないと、お腹が空きます」

「大丈夫だよ」


 2本目の缶コーヒーに手を掛け、プルタブを開ける。

 いつもこうだ。部長はいつも、静かにコーヒーばかりを体に流し込む。

 元々、総務部と経理部で部署も違うから接点が合ったわけではない。だがそれでも分かる。最近の部長は、また一段と痩せた。元々細身だったのに、さらに痩せてしまい、頬がこけている気がするのだ。

 私は昼の様子しか知らないからなんとも言えないけれど、ちゃんと朝ご飯と夜ご飯を食べているのだろうか。51歳の行田部長を相手に、私はそのような心配を胸の内に秘めている。


「……良い天気ですね」

「そうだね」


 静かに流れる空気の中、私は2個目のおにぎりを食べ始めた。部長は相変わらず呆然と空を眺めている。

 真っ青な空には飛行機雲が浮かんでいた。私の目には眩しく映っているけれど、部長はどうだろう。同じように、眩しく映っているのだろうか。それとも……部長が見ているのは、〝目の前に広がる空〟ではなかったりして。


 私たちを強い日差しから守ってくれている大きな木。なんの木か分からないけれど、風が吹く度にざわざわと音を立てて揺れる。おにぎりを頬張りながら、横目で部長の方を見ると、既に2本目のコーヒーも飲み干していた。

 ふぅ……と部長から大きな溜息が吐き出される。風はその溜息すらも己に乗せて、どこか遠くへ消えて行った。

 部長の胸元では、えんじ色のネクタイが風になびいている。物憂げな表情のままの部長は、また大きな溜息をついていた。


「溜息と一緒に幸せも逃げますよ」

「もう逃げた後だよ」

「……いや、それ以上に逃げて行きますよってことです」

「もうこれ以上逃げる幸せなんて無いよ」


 再びコーヒーの缶に手を伸ばして口元に運ぶも、中身は既に空っぽだ。中からは1滴たりとも出てこない。その事実に対して鼻で笑った部長は、口角を少しだけ上げたままこうべを垂れた。



 行田部長は2か月前くらい前に離婚した。

 奥さんに愛想つかされたのが原因だと、涙を浮かべながら無邪気に笑っていた。

 2人いる子供も成人して家を出ており、これから奥さんと2人でどんな楽しい毎日を過ごそうかと考えていた矢先だったらしい。だからそれはもう、ショックという言葉では表せないくらい心が折れたのだと、やはり部長は笑っていた。


 その話は最初この場所で、部長と2人になった時に聞いた話だ。悲しくて辛いはずなのに、あまりにも良い笑顔でそう話してくれた。

 部長とは会話すらまともにしたことがなかった。だから偶然一緒になった私にそこまで話してくれるなんて、そう思いとても驚いたのだ。


『この話、誰にもしていないんだ。だけど、今ここで君と2人で居ると……なんだか話したい気分になった。今の話は全ておじさんの独り言だから。聞かなかったことにしてよね』


 消え入りそうなくらい、小さな呟き。

 その時もやはり、部長は涙を浮かべながら無邪気に笑っていた。


 話を聞いた翌日からも、部長は同じ場所に居た。元々そこの場所は定位置だったから、私も変わらずそこに向かう。

 静かに流れる2人だけの時間。やはり私はこの時間がとても好きだった。


 あれから部長は離婚のことについて何も言わないし、私も何も聞かない。何も話さずにただ2人並んで、静かに空を眺めていた。

 部長は缶コーヒーを飲みながら少しだけ嬉しそうだったのだけど……今日はどうやらいつもと違うみたい。


「——ねぇ柳瀬さん、おじさんの独り言をまた聞いてくれる?」

「……はい」


 唐突にそう切り出した部長の目線は空を向いたまま。今日は何か思うことがあったのか、唇を噛みしめながら少しだけ体を震わせていた部長は、小さく口を開き言葉を発した。


「一度話を聞いてもらった離婚の件だけどさ……今思えば、結局幸せだと思っていたのは僕だけだったんだよね。素敵な奥さんと可愛い子供がいて、朝早くから夜遅くまで働いて。休日は上司や取引先の人とゴルフをして、家に帰れば温かいご飯があって。そんな日々のことを僕は幸せだと思っていた」


 3個目のおにぎりを頬張りながら、私は部長の顔を覗き込む。震えていた部長の目には、小さな涙が少しだけ浮かんでいた。その目に映るのは、空ではなく思い出だろうか。漆黒の瞳は大きく揺れ動き、徐々に青空を滲ませているように見える。


「だけど、それって〝僕だけ〟の幸せだったんだよ。奥さんのことなんて、僕はひとつも考えたことがなかったんだ。家を守ってくれていたのも、子供を一生懸命に育ててくれていたのも……全部全部、奥さんだったのに。僕は奥さんの優しさに甘えて、好き勝手して、家族のことをおざなりにしていた」


 溜めきれずに溢れ出た涙がそっと頬を伝い流れる。それを皮切りに止め処なく溢れ始めた涙は、部長の目元を真っ赤に腫らしながら、えんじ色のネクタイと白いワイシャツに染みを作っていた。


「……」


 涙は止まらず次第に嗚咽が漏れ始める。隣にいる人が泣いているというのに、29歳独身の私には部長に掛ける言葉が見つからなかった。

 私はただ真っ直ぐ前を向いて先程同じように空を眺める。それしか、今の私にはできなかった。


「……ごめんね、柳瀬さん。みっともない姿を見せてしまって」

「いえ……全然みっともなくないです。行田部長は己の行いを省みて、反省をしました。だからきっと大丈夫です。部長はその涙で、先に進めると思います」


 掛ける言葉が見つからないという割に、どこからともなくその言葉が出てきた。

 上から目線でまずかったかもしれないと、つい一瞬だけ猛省する。だけど泣いている部長からは、怒っているような雰囲気は感じられなかった。

 真っ赤になった目元を拭いながら口角を上げている。その辛そうな表情に、余計胸が締め付けられた。


「柳瀬さんは冷静だ」

「冷めてると良く言われます」

「その冷たさに、おじさんは救われるよ」

「……」


 そっと手を伸ばして、もし誰かが来ても見えないように、小さく部長のワイシャツの裾を掴んだ。遠目から見るとしっかりとアイロンが掛けられているように見えるが、実際に近くでみるとそうでもない。アイロン掛けも慣れていないのだろう。少しシワの残るワイシャツに妙な愛おしさを感じながらも、私はそこから手を離さない。


「……柳瀬さん」

「大丈夫です、部長」

「……」

「大丈夫です……私は、これ以上何も言いません」


 たったそれだけなのに、部長は大きく体を震わせ始めた。そして止まっていた涙がまた溢れ出した時、苦しい笑顔を浮かべて嗚咽を漏らしながら、私の頭を優しく丁寧に撫でてくれたのだった。



 その日から微妙に行田部長との距離感が変わった気がする。どういう風に変わったのかと問われたら少し回答に悩んでしまうが、私と部長にしか分からないくらい微妙に空気が変化している気がしていた。


 いつもと同じようにベンチに2人並んで空を眺めるこの時間。カーカーと鳴きながら青空を飛び回る烏は、一体誰を見て笑っているのか。グルグルと私たちの真上を飛び交う烏を見て口角を上げていた部長は、今日もまたいつもと同じコーヒーを飲んでいた。


「毎日毎日飲んでいると、身体中のあらゆる水分がコーヒーになりますよ」

「血もコーヒーになるかな?」

「なるかもしれません」

「良いね。それはそれで面白いから、本当にそうなって欲しいかも」


 想定外の返事に思わず笑いが零れた。ふふっと笑って、今日の私のお昼ご飯であるサンドイッチにかぶりつく。今日は私もコーヒーだ。ただブラックは飲めないから、砂糖とミルクがたっぷり入った甘いコーヒーだが。


「部長もちょっとはご飯を食べた方が良いですよ」

「僕はもういいんだ。いつ来るか分からない〝お迎え〟を待つだけだから」

「……そういうことを言わないでください」


 すぐにネガティブなことを言う部長に嫌悪感を抱きながら、自身の缶コーヒーを手に取り勢い良く中身を飲み干す。甘いはずなのに不思議と苦く感じるコーヒーに対しても同じように嫌悪感を抱き、私は横目で部長を軽く睨みつけた。するとそれに気が付いた部長はまた口角を少し上げて、私の顔を優しく覗き込む。


「ねぇ柳瀬さん、コーヒー苦手でしょ」

「……なぜそう思うのですか」

「飲み慣れていない人の表情をしているから。いつもはお茶でしょ? それって、コーヒーが苦手だから飲まないのかなって勝手に思っていたけど」

「……」


 思わず図星を突かれて頬が熱くなる感覚がした。部長の言う通り、私はコーヒーが苦手だ。だけど、いつも部長がコーヒーを飲んでいるから、私も部長と同じ物を飲んでみたくなった……なんて、口が裂けても言えないけれど。

 部長から漂う苦そうなコーヒーの香り。その香りに対して、私には無い大人を感じ、多分私は……強い憧れを抱いた。


「甘いはずなのに、苦いです」

「人によってはそう感じるみたいだね。でも、無理して飲む必要はないよ。自分に合った飲み物を美味しく飲む。これが幸せだと、僕は思うよ」

「……そうですね」


 今日も静かに空気が流れる。私はまたサンドイッチにかぶりついて空を眺めた。目の前には雲ひとつない青空が広がる。

 誰もいない社屋の裏で、今日も私と部長は何をするわけでもなく、何か大切な話をするわけでもなく。ただただ静かに、2人で空を見上げた。


「部長……落ち着きます」

「僕も同じだよ。柳瀬さんといると、どうしてこんなにも落ち着くんだろう」


 気が付けば、部長と過ごす昼休みがいつの間にか私の中で大切な時間になっていた。部長の隣が、妙に落ち着く。

 傷心している51歳の部長相手に、きっと口に出してはならないであろう言葉がよぎってしまってどうしようもない。〝それ〟を伝えると、部長も困ってしまう。この言葉は、己の胸の内に隠さなければならない。


 毎日毎日、同じ時間に同じ場所で会う人。

 隣にいると落ち着く人。

 ここ最近の私が微かに抱いているこの感情はきっと、役職の枠組みを超えたものに違いない。

 踏み込んでは駄目だ。偶然ここで一緒になっただけの人なのだから——……そう思うのに、なぜだか心臓がざわついて落ち着かない。


「柳瀬さん、どうしたの」

「……いえ」


 私自身、恋とは永遠に無縁だと思っていた。男性と関わりのない私には、彼氏を作ることすら高難易度……だったはず。


 それなのに、多分だけど私は、隣にいるこの人のことを好きになっている。



 部長は2本目の缶コーヒーを手に取り、ゆっくりとプルタブを開けた。ブラックコーヒーの苦い香りが辺りに広がった後、またコーヒーを体に流し込む。その様子を無言で見つめていると、ん? と言いながら優しい微笑みをこちらに視線を向けた。


「どうしたの?」

「……」

「柳瀬さん?」


 部長は不思議そうに私の顔を覗き込んだ。その優しい微笑みに堪えられなくて、私は咄嗟に彼が左手に持っている缶コーヒーを目掛けて手を伸ばした。これはもう……好奇心という言葉だけでは済まされない。

 え? と声を漏らした部長は、一瞬驚いた表情を浮かべた。

 部長はそのまましばらく固まっていたが、持っていた自身の缶コーヒーを恐る恐る私に手渡してくれた。

 受け取った缶コーヒーからは、さっき私が飲んだものとは比べ物にならないくらい苦い香りが立ち昇る。

 部長の缶コーヒーを視界に入れて小さく唾を飲み込み、私はゆっくりとそれに口を付けた。騒がしい心臓に気が付かないフリをしながら、少しだけ中身を自分の体内に流し込んでみる。


「っ、にがぁ……」


 少しだけ舌先に触れただけだったが、流し込んだ中身は経験したことがないくらい苦かった。ブラックコーヒーは想像の何万倍も苦い。その事実に思わず眉間に皺が寄ってしまう。

 けれど、部長と同じコーヒーを全身で堪能したという事実もよぎり、苦さを感じながらも今度は微笑みが零れた。


 苦みすら、なんだか愛おしい。


 そう思いながら、何も言わずに缶コーヒーを部長に返す。今もまだ驚いた表情のまま固まっている部長は、自身の手元に戻ってきた缶コーヒーを眺めながら、小さく唇を噛んで瞬きを繰り返していた。


「……ブラックは、苦いです」

「そりゃ、苦いよ……」

「でも……大人の味」

「柳瀬さんもいつか、ブラックの良さに気付く日が来るよ」

「来ますかね」

「うん、絶対に来るよ。僕だって、ブラックコーヒーが飲めるようになったのは、30代になってからだから」


 そう呟いた部長は残っているコーヒーを勢いよく飲み干し、溜息をつきながら空を眺めた。

 今日も青空。夏の暑い日差しが、雲ひとつない空をより一層輝かせている。


「良い天気だね」

「……部長。私、これからも部長の隣で、この青空を眺めたいです」

「えっ?」

「この想いはきっと、もう誤魔化せない」


 私はもう、感情が抑えきれなかった。


 愛して、愛されて、恋を知る。

 大切にして、大切にされて、人は人として成長していく。

 親が私に教えてくれた言葉。最初こそ意味が分からなかったけれど、今はなんとなく分かる気がする。

 そう心で呟きながら、ベンチの上に置かれている部長の手に自分の手を重ねてみた。ゴツゴツした大きな手は一瞬だけ驚いたように飛び跳ねたものの、ゆっくりと受け入れてくれる。

 優しく、優しく……私の手を、そっと握ってくれた、部長の大きな手。

 昼休みだということすら忘れてしまいそうな、たった2人だけの特別な時間に、頭がおかしくなってしまいそうだ。


「僕はおじさんだから、駄目だよ」

「ならどうして、手を握ってくれているのですか?」

「これは……でも……」


 部長は気まずそうに握った手を繰り返し動かす。不自然な動きに思わず笑いが零れた時、部長もまた微かに笑みを浮かべた。


「……これは、おじさんの勘違い——」

「勘違いしても良いですよ。好きな気持ちに、年齢なんて関係ありませんから……」



 その日の定時後、私は近くの海浜公園で部長と待ち合わせた。

 部長とは昼休みにしか顔を合わさない関係。会社の外で会うと考えると、騒ぎ出した心臓の鼓動がうるさく響き、私の脳内を簡単に支配する。


「柳瀬さん」

「部長……」


 部長は風にネクタイをなびかせ立っていた。私はその姿を目掛けて真っ直ぐ走り、何も考えずに部長の胸へ飛び込んだ。

 初めて直接感じる部長の体温に全身が震えて止まらない。だけど拒否されないことが何よりも嬉しくて幸せで……優しい笑顔を浮かべた部長もまた、そっと私に両手を回してくれた。


「僕と付き合うと、君を苦しめてしまうこともあるかもしれない」

「……良いです」

「僕には、子供もいる。君が思う〝普通の恋愛〟とは、掛け離れてしまうかもしれない」

「……良いですって」


 抱きついている両腕に更なる力を加えて、強く強く部長を抱きしめる。「痛い、痛い」と苦笑いをしながら呟く部長が面白くて、今度はゆっくりと力を抜いた。


 悲しみに暮れる部長。

 その心にいつまでも奥さんのことが残ってしまったとしても、それでも私は部長の傍にいたいと強く願ってしまう。


 部長のことが好きだから、部長の心の支えになりたい。

 その気持ちに、嘘はない。


「——あまり大きな声では言えないけれど、僕の隣に君がいてほしい。最近はそう、願ってしまう」


 波が満ち引きする音だけが静かに響き渡る海浜公園で、私と部長はぎこちなくお互いに抱きしめ合った。

 誰にも言えない感情をお互いに曝け出し合った私たち2人は、いつまでの特別な時間にずっと囚われたままで——……。








部長と私と、時々苦いコーヒー。  終



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