37 謎の男

 その日は一切の訓練を行わないことになった。かいは火傷が完治していないし、れいも昨晩左手を負傷している。ゆいだって疲れているだろう。ここ数日、休みなく特訓に励んでいた義凪よしなぎは、急に手持ち無沙汰になり落ち着かなかった。


 かえでの様子も気になったが、やしろに行くのをなんとなく躊躇っているうちに強烈な眠気に襲われた。昨晩一睡もしていないからか、胃袋が満たされたせいか――そんなことを考えながら常闇の自室で横になると、一瞬で眠りに落ちた。


 夢も見ず、どれだけの時間が経ったのか。誰かに呼ばれた気がして、仄かに覚醒する。


「よしなぎー」


 その声がめいのものだと気がついて、義凪は目を開けた。


「あ、起きた! おはよー」

「おはよう……」


 ぼうっとする頭でとりあえず挨拶を返し、体を起こす。


「お夕飯だよぅ」

「そっか、夕飯………………夕飯?」


 混乱した頭が急回転し始める。茗が持ってきたランタンの明かりを頼りに借りた時計を見ると、針は午後六時を指していた。慌てふためく義凪の様子を、茗は面白そうに見つめている。


「俺、ずっと寝てた?」

「うん」

「ずっと?」

「うん。お昼ごはん呼びに来たけど、起きなかった」


 楽しそうに答える茗とは対照的に、義凪は頭を抱えた。時計が狂っていなければ、九時間以上爆睡していたことになる。


「ごめん……」


 思わず口から溢れた。茗は倒れそうなくらい首を傾けて、じっと義凪を見つめる。


「なんで?」


 茗は責めるでもなく嘲笑うでもなく、純粋な問いを呟いた。

 なぜ自分は謝ったのか。


「……なんでだろ」

「ごはんいらないの?」

「いや、そうじゃないよ。食べるよ」


 義凪は少しの目眩を振り払って、小走りで部屋を出ていく茗を追いかけた。



 何事もなかったように夕食が終わり、食器の片付けもしょうに断固として免除され、入浴を済ませた義凪は再び手持ち無沙汰になった。

 仕方なく広間の端から足を投げ出して座り、空を眺める。時折、雲間から白く輝く月が顔を出す。義凪はここに来るまで、月がこんなにも明るいことを知らなかった。まだ半月なのに、影ができるほど強い光が届く。

 それでも日中に比べれば視認は悪くなる。ちょうど二十四時間前、薄暗い森の中での戦闘はかなりの集中力を要した。


(もう少し暗さに慣れないと)


 義凪は左腰に刀を携え、住処すみかを飛び出した。

 今体を動かさなければ、今日は何もしなかったことになる。たった一日の休養でも、体が鈍ってしまう危機感があった。

 それ以上に、今ここで緊張の糸が切れてしまったら、もう立てなくなってしまうような、刀を握れなくなってしまうような、そんな恐怖心が義凪の中で燻っていた。


 樹々を跳び次いで最初に向かったのは、昨晩キメラと戦った場所だった。キメラの死体がどうなったのか、心の隅に引っかかっていたのだ。しかしその場所に屍は残っていなかった。

 ホッとした次の瞬間には、そんな自分が不甲斐なくなる。

 死体は誰が片付けたのだろう。

 昨日、義凪がとどめを刺せなかったキメラの息の根を止めたのは羚だった。さらに死体の片付けまでさせたのだとしたら。


(最悪だ)


 その後は、森の中を一心不乱に飛び回った。

 羚に言われた通り、森の中で比較的足場の安定した場所を把握しておかなければならない。昨日は訓練で使っていたポイントだったからよかったが、そこでしか戦えないのでは意味がない。一瞬で地図を頭に入れられるような記憶力はないし、そもそも森に慣れていない義凪には同じ場所も昼と夜では違うように見えてしまう。

 とにかく足を動かして、何度も目で見て、適応していくしかない。


 だけど、本当はわかっていた。

 これは全て言い訳だ。

 なんでもいいから動きたかった。じっとしているのが怖かった。

 森の中を移動しながら、迷いを振り払うかのようにどんどん加速する。


「わっ」


 麓近くまで来て足を滑らせ、そのまま緩やかな斜面を滑り降りて止まった。


「あーーーーー!!!」


 仰向けに倒れたまま、力任せに叫んだ。


 河岸に横たえられた彩加あやかの最期の姿。

 あれからまだ半月しか経っていない。

 その間に、あまりに世界が変わりすぎた。初めて知った悲しみ、怒り、恐怖、喜び、痛み……。言葉にし尽くせないほどの感情が、未消化のまま体の中に蓄積されていく。入りきらなくて溢れているのに、どんどん次が押し込まれる。


 泣きたいのに、泣きたくない。

 怖いのに、逃げたくない。

 後悔したくないと、この森に踏みとどまったことを、後悔する日が来るのだろうか。


 どうしたいのかわからなくなる。


 肺の中の空気が空っぽになって、音を立てて空気を吸った。

 頭の中も空っぽにしてしまえたらいいのに。


 呼吸が落ち着いて、空を見上げた。雲の切れ間から月が現れ、暗かった周囲がにわかに照らされる。


 そしてその時、木の枝に腰掛ける何者かの姿が照らし出された。


「誰だっ!?」


 息を呑んだ義凪は、素早く立ち上がって左腰の刀の柄に手を掛けた。心臓が激しく音を立てて脈打つ。

 その人物はいつからそこにいたのだろう。偶然、居合わせてしまったのだろうか。しかし、ここは結界の内側のはずだ。

 その人物は義凪に向かって人差し指を口元で立ててみせた。逆光で見えにくいが、どうやらその表情は笑っている。


「月が綺麗だね」


 穏やかな男の声に、すぐに襲われると予想していた義凪は戸惑いを隠せない。相手は隙だらけに見える。これまで社を襲撃した五人とは別人のように見えるが、どうであれ己の力量を考えると一対一はあまりにも無謀だ。


(全力で走れば、やしろまで逃げ切れるか……?)


 そんな考えを巡らせる間に、男は木から飛び降りて軽やかに着地した。そして手のひらを見せるように両手を立てる。


「僕は敵じゃないよ」


 まるで降参のジェスチャーで男はゆっくりと歩み寄る。義凪は後ずさった。


「まあ、そう言う奴ほど怪しいよね」


 男は歩みを止めて、考えるような仕草をしてから右手の人差し指をぴんと立てた。


「まず、僕が結界の中に入れるのは、風守の一族の血を引いているからだ。無理矢理破って入ったわけじゃないよ。そんなことをしたらきょうがすぐ気づいて、今頃大騒ぎになっているだろうね」


 義凪は笑みを絶やさない目の前の男を睨んだ。風守の一族の血を引いているなどとは俄かには信じられないが、侵入者がいるのに森の中がしんと静まり返っているのも事実だ。風の音さえせず、気味が悪いほどの静寂に包まれている。


「僕は死んだことになっている。実際にはあの研究所に連れて行かれてしまってね、こうやってこっそり抜け出すことはできるんだけど、奴らに気づかれないうちはもう少し飼われたままでいるつもりだ。ただ、戦況が掴み切れなくてね、ちょっと様子を見に来たんだ」


 仲間ならば、なぜこれまで姿を表さなかったのか――まるで義凪の心を読んだかのように、正に今抱いていた疑問に対する答えを男は口にした。


「みんなには僕のことは黙っていてくれないかな。研究所の奴らに勘づかれるのは避けたいからね。会えたのが君でよかったよ。唯だったら大騒ぎしているだろうなあ」


 そう言って男は笑う。

 年齢は二十歳を超えていそうだが、月明かりでは髪や瞳の色彩はわからない。長い前髪が右目を覆っている。


(この人、どこかかなめ先輩と似てる)


 柔らかな雰囲気こそ真逆だが、この男にも言葉にし難しい威圧感がある。それは味方であれば信頼となり、敵であれば脅威となる類のものだ。僅かな会話からも聡明さが伝わってきて、気を緩めるとこの男の主張を鵜呑みしてしまいそうになる。


「あんたの言っていることが本当だという証拠がない」


 義凪はようやくその一言だけ声に出した。


「そうだね、当然の反応だ」


 男はうんうんと頷いた。


「それに、なんであんたは俺のことを知ってるんだ」


 囚われの身と思しきこの男が、なぜ義凪の存在を知っているのか。君でよかったという発言は、明らかに義凪が何者なのかを知っている。


「ああ、そうだった。君のお母さんは無事だよ」

「!!」


 義凪は思わず肩を跳ねた。

 研究所が義凪をどのような存在として扱っているかは不明である。要には人質だと言われたが、最初に襲撃した男には命を狙われ、それ以降も助け出そうとする素振りはない。

 そうこうしているうちに義凪が勝手に風守の一族側についた状態になっているが、研究所がどこまで義凪の動向を把握しているのかわからない。自分が一族側につくことで、母の身が危険にならないか、また強制的に戦力として投入されないか、それが義凪の懸案事項だった。


「君がどんな形であれ、この森にいる限りはテコでも動かないそうだ。かと言って、研究所が君のお母さんをぞんざいに扱うことはないだろう。それだけの人材だからね……。だから心配しなくて大丈夫だよ」


 義凪は体中から汗が止まらなくなった。安心はすぐに警戒で上書きされる。


「あれ、逆に警戒させちゃったかな? これでも大変なんだよ、バレないように情報収集するのは」


 義凪は気付かれないように、呼吸を整えようと努めた。息を吐いて、慎重に言葉を選ぶ。


「……あんたの目的はなんだ」

「もちろん、研究所の壊滅さ。僕は奴らを許さない。宝玉を手にする為なら手段を選ばないあいつらを……」


 男から初めて笑みが消えた。静かに発せられる殺気に、義凪は背筋が凍るような恐ろしさを感じた。


「おっと、そろそろ戻らないと」


 男は研究所の方角をちらっと見てから、スッと笑顔に戻って義凪に顔を近づけた。


「僕はこの戦いを終わらせたい。君も同じはずだ。お母さんを解放して日常に戻りたいだろう?」


 男は義凪の肩にそっと手を置いて、耳元で囁く。義凪は手が震えないよう、体を強張らせた。


「二、三日はゆっくりできると思うよ。でも、次の襲撃はこれまでより厳しいものになるだろう……きっと、最初の山場になる。そこをなんとか乗り切ってほしい」


 男は義凪の肩から手を離すと、にっこりと微笑みかけた。


「次会う時は協力しあえるといいな。でも、くれぐれも僕のことは黙っていてほしい。それだけは頼むよ。ところで、大声出したらスッキリしたかい?」

「えっ、あ、ああ……」

「それはよかった」


 そう言うと男は義凪に背を向けて歩き出した。


「あんた、名前は」


 義凪が思わず呼び止めると、男は足を止めて振り向いた。その姿は月光で眩しく、まるで本人が光っているかのようだった。


「僕? そうだね……沙也さや、だよ。まあ、これはコードネームみたいなものだけど」


 男は再び背を向けると、手を振った。


「またね、義凪くん」


 沙也が結界を通過するときにその姿がぐにゃりと揺れたが、そのまま歩き去って見えなくなった。

 月下には立ち尽くす義凪だけが残され、ずっと止んでいた風が、思い出したかのように草木を揺らした。

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