38 朱色の桜

 沙也さやが去っていった後、義凪よしなぎは真っ先にやしろへと向かった。

 おもてには北斗が伏せていたが、他に誰もいなかった。小扉をそっと開けると、だだっ広い部屋の隅の机で、きょうしょうが作業をしていた。


「あら、どうしたの?」


 京が顔を上げた。

 義凪は扉の前に立ったまま、乱れた呼吸を悟られないよう落ち着ける。京をじっと観察したが、誰かが結界を通過したことを察知した様子はない。北斗も大人しくしていたし、社も住処すみかも静まりかえっている。


「義凪くん?」


 京に呼ばれて義凪は我に返った。気がつけば京と梢が不思議そうな目でこちらを見つめている。


「あ、えっと……なんでもないです」


 京と梢は顔を合わせると、京が立ち上がって義凪に近づいた。


「具合悪いの? あら、汗かいてるわね……。あなた森の中走り回ってたでしょう? 真面目なのは悪いことじゃないけど、無理しちゃダメよ」


 ふと、思いっきり叫んだのは聞こえていただろうかと不安になったが、流石に距離がある。耳のいい狼たちには、もしかしたら聞こえていたかもしれないが。

 いや、今はそんなことはどうでもいい。


「あの、京さんは結界を何かが通過するとわかるんですか?」


 突然の質問に京は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに穏やかな表情に戻る。


「ええ、でもわかるのは人間だけよ。結界自体が人間に特化したものだからね。キメラはちょっと異質だからなんとなく感知できるけど、人間ほどわかりやすくはないわ」

「人間なら、誰でもわかるんですか?」

「そうねぇ、風守の一族以外の人間ならわかるはずよ。一族の人間も結界に集中していればわかるけど、気づかないことが多いかな。特に姫巫女の家系の人はわかりにくいの。同族同士は波長が似ているというのかしらね。結界を通るときのノイズが小さいの」

「そうですか……」


 沙也と名乗った男がどちらの家系かは不明だが、誰にも気づかれずに結界の中にいたことを考えると一族の人間である可能性は高そうだ。しかし、どこまで信じていいのか。沙也の言ったことが本当なのか、どうにか確かめる方法はないだろうか。


「でも、突然そんなこと訊いてどうしたの?」


 京に訊かれて義凪は動揺する。沙也が言った通り、黙っているべきか。


「いや、えっと、京さんってずっと結界張ってて休めてるのかなって……」


 義凪の言葉に京は一瞬きょとんとしたが、すぐに優しく微笑んだ。


「大丈夫よ、異常があれば目が覚めるけど、何もなければちゃんと休めるわ。それに昼間はかいたちが研究所を監視していてくれるし、夜も常にってわけじゃないけど、椎南しいなたちやかなめの従える梟たちが森の様子を見ていてくれるから、私一人で全部を担っているわけじゃないのよ」

「それならいいんですけど……」


 京の肩越しに見えた梢の表情が悲しげに曇るのを義凪は見逃さなかったが、それを京にも梢にも悟られないよう、京の瞳に視線を戻す。義凪の目の高さより少し上にあるヘーゼルの瞳は、部屋の明かりのせいで今はオレンジ色に見える。その瞳が細くなったかと思うと、京の腕がすっと伸びて義凪の顔の横を通り、体が引き寄せられた。

 柔らかい感触に顔が埋まって、義凪は何が起こっているのか理解するのに三秒ほど掛かった。


「ありがとう、義凪くん」


 京は義凪をぎゅっと抱き締めて囁いた。

 義凪は体を硬らせながら、飛び出しかけた心臓を必死で抑える。引いたはずの汗がもう一度吹き出さないか心配になった。

 まるで子供をあやすかのように、京は優しく言う。


「君は優しいね」


 その言葉で、一気に涙が込み上げた。

 堪えようとしても、無駄だった。


「俺は、優しくなんかないです……」


 なぜ泣いているのか、わからなかった。

 ただ、何も考えられなくなった。頭が回転することを放棄していた。

 京の温もりがじんわりと義凪の体に伝わり、緊張していた体が弛緩していく。

 京は腕を解き義凪を解放すると、両手で義凪の濡れた頬を包んだ。


「あなたはもっと自分のことを大事にしなさい。ちょっと頑張り過ぎよ」


 義凪が何も言えずに頷くと、京はにっこり笑った。そして両肩にぽん、と手を置いた。


「さあ、もう遅いから寝ましょ。私たちももう休むわ。梢、あなたも義凪くんと一緒に戻りなさい」


 京はそう言って振り向いた。義凪は慌てて頬を拭う。一連の出来事を梢に見られていたことに気がついて、顔が熱くなった。

 梢は立ち上がって義凪の方へ歩いてきた。その手には赤い布が載っている。


「ちょうど出来上がったんです」


 義凪が受け取ったそれは、この一族が戦闘の際に纏っている、フードがついた臙脂色のケープだった。昨晩の襲撃の時に義凪が身につけていたもので、ヴァンパイアの初撃を受けた際に左腕の部分が破けてしまったのだった。治療の際に脱いだ後は行方知れずになっていたが、それが今、義凪の元に戻ってきた。

 破れた部分は綺麗に補修され、さらに、布地より明るい赤色の糸で刺繍が施されていた。


「……桜?」

「私たち、着る人の無事を願って刺繍をする風習があるんです。その人に合ったモチーフを刺繍するんですけど、義凪先輩は四月生まれだと伺ったので、桜にしてみたのですが……」


 臙脂色のケープの左腕部分に、朱色の桜の花が大小五つ、慎ましやかながら艶やかに煌めいている。同系色の濃い色の生地に明るい色の絹糸で描かれた花は、まるで浮かび上がっているように見えた。


「綺麗だ……」

「よかったぁ」


 梢はホッとして表情を緩めた。


「あっ、でも無理して着てほしくはなくて……こんなタイミングで渡しちゃってすみません」


 慌てて手を振った梢は申し訳なさそうに頭を下げた。

 この衣装を羽織ることは、戦うことを意味する。

 義凪は広げたケープをしっかりと握り締めた。


「ありがとう。貰っておく」


 そう言って梢に笑いかけると、梢も義凪に笑顔を返した。


 桜で思い出すのは、いつも微笑みを絶やさなかったあの人。


(ごめんな、迷わず真っ直ぐに戦えたらよかったのに)


 でも、これが今の自分だ。大口叩いておいて、本当は怖がって迷ってばかりの弱い自分だ。

 強くなれるように。剣の腕だけじゃなく、本当の意味で強くなれるように、見守っていてほしい。


 心の中で語りかけながら、そっと朱色の桜を撫でた。

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