36 朝靄

 その夜は疲れているはずなのに、一睡もできなかった。数時間前まで生死を賭けて戦っていたのだから、昂った気が冷めないのも無理はない。

 義凪よしなぎはベットから体を起こした。僅かに目眩がするのは疲れのせいか、失血のせいか。それでも戦闘の光景が目蓋の裏に再生されるよりはマシだった。


 義凪はやしろへと歩いて向かった。山の背から日が昇るこの位置では朝日を拝むことはできないが、空は既にほの明るい。


(アイツは大丈夫なのかな……)


 襲撃の後、姿を現さなかったかえでのことが気になっていた。

 楓とかなめは社の奥に籠ったままで、それに加えてかいの大火傷。義凪自身も怪我を負っていたため、誰も落ち着いて話せる状態ではなかった。


(社で何があったんだろう)


 檜ときょうを社に残して若年組は住処すみかで休むことになったため、義凪たちもまた、昨晩応戦したヴァンパイアの報告は出来ていない。


 義凪は社へ続く階段を上る途中、斜面に迫り出した床の先端に立つ二つの人影に気がついた。





 白く霞んだ森を見ていた京は、背後で扉が開く音に気がついて振り向いた。


「起きて大丈夫なの?」

「平気」


 扉から姿を現した檜は、歩きながら辺りを見渡した。黒ずんだ床は昨晩の状態のままで、壁に張り巡らされた木製の装飾は一部が煤けている。


「燃えなくてよかったな」


 京は返事をせず、俯いて前に向き直った。檜がすぐ後ろで立ち止まる。


「……ごめんね」

「何が?」

「火傷、全部治してあげられなくて」


 京は群青色の袴をギュッと握りしめる。


「治った。もう痛くない」

「治ってないでしょう。跡、残っちゃうかもしれない」


 檜の左目は開くようになっていたが、痛々しい火傷の跡は消えていなかった。


「そんなのどうでもいい」

「良くないわ、私がもっと治癒術が使えれば……」


 言葉を遮るように、檜は後ろから京を抱きしめた。


「ごめん」

「……どうして檜が謝るの」


 俯いたままの京を、檜は強く抱きしめる。


「お前をここに縛りつけたままだ」


 山の頭から顔を出した朝日が森を照らし始め、朝靄が幻想的な雰囲気を醸し出す。

 争いのない静かなこの森は美しい。それは誰よりも長い時間、この位置から森を見つめ続けてきた京がいちばんよく知っている。

 京は震えた唇を一文字にきつく結んだ。


「結界も怪我人の治療も、全部お前一人に背負わせたままだ。お前が謝ることなんてない、怪我する方が悪い」

「……なに、それ」


 京は俯いたまま、少しだけ笑った。


「私は大丈夫、この戦いが終わるまでの辛抱だもの。約束、覚えてるよね?」

「当たり前だ」


 京はふふ、と嬉しそうに笑うと、胸元で輝くスカイブルーの硝子玉を優しく撫でる。

 ささやかな幸せを享受するように、二人はそのまま動かなかった。

 こうやって二人きりで過ごすのは久しぶりだった。敵が動き出したあの地震以来、心穏やかに過ごせた日は一度もない。今だけは、お互いの体温だけを感じていたかった。


 鳥の囀りだけが響く。


 やがて、檜が顔を僅かに横に向けて、ぼそりと沈黙を破った。


「……何見てんだ」


 声のトーンから自分に向けられた言葉ではないことを察した京は、しかしなんのことかわからず顔を上げ、檜の視線の先を追って左側を向く。そして階段の下から僅かに覗いた義凪の頭に気がつき、顔が真っ赤になった。


「義凪くん!?」

「すいませんっ!」


 慌てて踵を返した義凪が階段から派手に滑り落ちる音がした。




「いってて……」


 義凪は石造りの階段に強打した尻をさすった。そして顔を上げると、そこにはれいが、憤怒と軽蔑の混じった眼差しで義凪を見下ろしていた。


「うわっ!」

「アンタさ……空気読めないの? それとも変態?」


 義凪はなにか言い返してやりたかったが、この状況ではぐうの音も出ない。確かに二人を盗み見していたことになるわけで……いや、羚の野郎、いつからここにいやがった。

 パタパタという足音と共に、京が階段上から顔を出した。


「大丈夫? って、羚もいたの!?」

「俺は今来たとこ」


 顔を真っ赤にする京に対し、羚は涼しげに言った。


「ウロチョロして怪我増やすなよ、怪我人」


 羚は吐き捨てるように言って、義凪の後ろ襟を掴んで住処の方へと引き摺っていった。




 社から離れたところで羚は義凪から手を離した。首が締まった状態からようやく解放された義凪は数回咽せてから、羚に噛み付くように言う。


「人のこと殺す気か! つーかお前、もっと前からいただろ!」

「アンタ、怪我大丈夫なの」


 静かな羚の一言に、義凪は怒りのやり場を失う。いつもの皮肉っぽさはなく、小豆色の瞳は真っ直ぐに義凪を見ていた。


「あ、ああ、大丈夫」

「あっそ」


 羚は素っ気なく言うと、ふいと背を向けて住処の方へ歩き始めた。義凪は慌ててそれを追いかける。


「少しは寝れたのか」


 羚が振り返らずに訊いた。


「いや、一睡も……」

「はあ!?」


 羚は怪訝な顔で振り返ったが、すぐにばつの悪い顔になった。


「まあ、無理もないか……俺も人のこと言えないし」


 呟いて再び歩き出す羚を、やや駆け足で義凪は追う。住処の横の階段に差し掛かったところで、義凪が声を掛けた。


「なあ、あの二人って付き合ってるのか?」

「はあ!?」


 再び足を止めた羚がやはり怪訝な顔で振り返り、今度は表情を緩めず強い口調でなじる。


「今なに見てたんだよ!? やっぱバカなの!? どーゆーキャラ!? 天然!? 人工天然!?」

「ごめん……天然ではないと思います……」


 確かに見ればわかるのだが、なぜか訊かずにはいられなかったのだ。

 まるでそこだけ別世界のように、朝靄を纏う二人の姿は美しくて切なくて、目が離せなかった。今もまだドキドキしている。


(そっか、恋人同士だったんだ……)


 檜は巫女の護衛を担っていると言っていたが、京を守る理由はそれだけじゃなかったわけだ。

 しかし、同時に要の話を思い出す。相反する力を持つ二つの血は決して混ざってはいけないと言われ、昔から厳しく管理されてきた、そういう話だった。


「でもさ、姫巫女ひめみこの家系と紅辻べにつじの家系って、恋人関係になっていいのか?」


 それを聞いた羚が今まで一番酷い表情に歪んだので、義凪は慌てて弁解した。


「別に非難してるわけじゃないぞ。ただ、そう聞いてたから気になっただけで」

「年寄みたいなこと言うんだな。もう咎める奴はいないんだから、好きにさせればいいだろ」


 羚はそう吐き捨てるように言うと、義凪に背を向けて去っていった。







 朝食の席に京と楓の姿はなかった。しょうが朝から握ってくれたおにぎりと味噌汁が、じんわりと滲みるように胃を満たしていく。

 皆があらかた食事を終えた頃、昨晩の戦果の報告会になった。まず、かなめが社を襲ったローブの男について話した。


「魔術師……」


 思わず呟いた義凪を見て、要が頷いた。


「顔は見えなかったが、呟いていたのは英語だった。本を開いて魔術を使っていたな」

「それが炎の術だったの?」


 ゆいが剣呑な表情で首を傾げる。


「ああ、爆発と言った方が正確かな。かなり威力があった」


 義凪はチラリと檜を見た。檜の左頬には、皮膚が爛れた跡が痛々しく残っている。


「二回爆発音がしたけど、どっちもその魔術師がやったの?」唯が尋ねた。

「いや……二回目は楓だ」


 要は少し口籠って答えた。


「それで、楓は?」


 義凪が恐る恐る質問すると、気不味い沈黙に包まれる。どうやら楓の状況を理解していないのは自分だけらしい。


「楓は、怪我はない。疲れているだけだ」


 なんとなく引っかかる回答だったが、義凪はそうですかとだけ答えて黙った。


「それで、そっちは」


 要に促されて羚が口を開こうとした瞬間、横から唯の大声が飛んだ。


「本当にいたんだよ、吸血鬼!!」


 義凪と羚を覗く全員がきょとんと目を丸くする。部屋に反響した声が鎮まってから、羚が小さく溜め息をついて話し始めた。


「最初はキメラだけだった。俺のとこに二体、コイツのとこにも二体。唯のところは……」

「こっちも二体だった。それで手一杯で、ローブの男が社に向かうの止められなかった」


 唯が眉を少し下げて答えた。


「キメラを全滅させた後に上から攻撃されて、コイツが腕をやられた」


 羚は親指で義凪を指す。


「敵は一人で男、日本人じゃないと思う。髪は白、いや銀髪かな……背中にでかい蝙蝠の翼があった」

「ハリボテじゃないと思うよ。あたしの脚が当たったけど、柔らかかったっていうか、生き物っぽい感じがした」


 唯が身を乗り出して訴えた。羚は話を続ける。


「暗くて見た目はそれくらいしかわかんなかったけど、身体能力は高かった。スピードは俺より上だと思う」


 羚はこういう時、意外にも意地を張ることがない。疲労のない状態であれば互角だったかもしれないが、一時はピンチに陥ったことを重く受け止めているのだろう。常に万全の状態で戦えるわけではないと考えれば、多少過大評価であった方が安全だ。


「そいつの武器がお前が拾ってきたレイピアか」


 要の問いに羚は頷く。


「剣を弾かれた途端にめちゃくちゃ怒り出して、取り返そうとムキになってた。そのレイピアって剣、取り返しに来るかもしれない」

「そうか……」


 要は静かに答え、黙り込んだ。


「魔術師はともかく、ヴァンパイアの情報は全くないからな……。今の話の限りでは魔術を使うわけじゃなさそうだが」

「魔術師は情報があるんですか?」


 義凪はすかさず問う。今後戦う可能性もあるのだから、情報があるなら知っておきたい。


「あると言えばある、くらいのものだ」


 要の曖昧な回答に、義凪は首を傾げる。


「なんでもありってこと。西洋では魔術師たちが昔から魔術の研究を続けていて、様々な魔術が編み出されている。ある程度系統のようなものはあるらしいが、どんな魔術を使ってきてもおかしくない」

「そういうこと……」


 義凪はがっくりと項垂れた。それでは対策の立てようがないではないか。


「これで投入された戦闘員はロボットを除いて五人。何人かは負傷させたが回復すればまた来るだろう。それにこれまでは一人ずつだったが、今回は二人……」


 要の言葉に、明らかに場の空気が重くなる。それに気がついたのか、要はふうと溜め息をついて、らしくない気の抜けた声で言った。


「まあ、考えても仕方ないか」


 要は首を右に傾けてコキン、と骨を鳴らすと、今後について淡々と指示を出した。内容は、態勢は変えないということ、以上。


「今日はあんまり無理しないこと、特に義凪」

「へっ?」


 自分の名前が出るとは思っていなかった義凪は、つい情けない声を漏らした。


「昨日大怪我したの忘れたのか。ただでさえ無茶な訓練してきたんだから、少しは休めよ」


 要は呆れた顔でそう言うと皿を持って立ち上がり、その場はお開きとなった。要の意外過ぎる台詞に暫く固まっていた義凪は、隣に座っていた羚に小声で話しかけた。


「要先輩、頭打ったりした?」

「アンタ失礼だな……」

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