36 朝靄
その夜は疲れているはずなのに、一睡もできなかった。数時間前まで生死を賭けて戦っていたのだから、昂った気が冷めないのも無理はない。
義凪は
(アイツは大丈夫なのかな……)
襲撃の後、姿を現さなかった
楓と
(社で何があったんだろう)
檜と
義凪は社へ続く階段を上る途中、斜面に迫り出した床の先端に立つ二つの人影に気がついた。
*
白く霞んだ森を見ていた京は、背後で扉が開く音に気がついて振り向いた。
「起きて大丈夫なの?」
「平気」
扉から姿を現した檜は、歩きながら辺りを見渡した。黒ずんだ床は昨晩の状態のままで、壁に張り巡らされた木製の装飾は一部が煤けている。
「燃えなくてよかったな」
京は返事をせず、俯いて前に向き直った。檜がすぐ後ろで立ち止まる。
「……ごめんね」
「何が?」
「火傷、全部治してあげられなくて」
京は群青色の袴をギュッと握りしめる。
「治った。もう痛くない」
「治ってないでしょう。跡、残っちゃうかもしれない」
檜の左目は開くようになっていたが、痛々しい火傷の跡は消えていなかった。
「そんなのどうでもいい」
「良くないわ、私がもっと治癒術が使えれば……」
言葉を遮るように、檜は後ろから京を抱きしめた。
「ごめん」
「……どうして檜が謝るの」
俯いたままの京を、檜は強く抱きしめる。
「お前をここに縛りつけたままだ」
山の頭から顔を出した朝日が森を照らし始め、朝靄が幻想的な雰囲気を醸し出す。
争いのない静かなこの森は美しい。それは誰よりも長い時間、この位置から森を見つめ続けてきた京がいちばんよく知っている。
京は震えた唇を一文字にきつく結んだ。
「結界も怪我人の治療も、全部お前一人に背負わせたままだ。お前が謝ることなんてない、怪我する方が悪い」
「……なに、それ」
京は俯いたまま、少しだけ笑った。
「私は大丈夫、この戦いが終わるまでの辛抱だもの。約束、覚えてるよね?」
「当たり前だ」
京はふふ、と嬉しそうに笑うと、胸元で輝くスカイブルーの硝子玉を優しく撫でる。
ささやかな幸せを享受するように、二人はそのまま動かなかった。
こうやって二人きりで過ごすのは久しぶりだった。敵が動き出したあの地震以来、心穏やかに過ごせた日は一度もない。今だけは、お互いの体温だけを感じていたかった。
鳥の囀りだけが響く。
やがて、檜が顔を僅かに横に向けて、ぼそりと沈黙を破った。
「……何見てんだ」
声のトーンから自分に向けられた言葉ではないことを察した京は、しかしなんのことかわからず顔を上げ、檜の視線の先を追って左側を向く。そして階段の下から僅かに覗いた義凪の頭に気がつき、顔が真っ赤になった。
「義凪くん!?」
「すいませんっ!」
慌てて踵を返した義凪が階段から派手に滑り落ちる音がした。
「いってて……」
義凪は石造りの階段に強打した尻をさすった。そして顔を上げると、そこには
「うわっ!」
「アンタさ……空気読めないの? それとも変態?」
義凪はなにか言い返してやりたかったが、この状況ではぐうの音も出ない。確かに二人を盗み見していたことになるわけで……いや、羚の野郎、いつからここにいやがった。
パタパタという足音と共に、京が階段上から顔を出した。
「大丈夫? って、羚もいたの!?」
「俺は今来たとこ」
顔を真っ赤にする京に対し、羚は涼しげに言った。
「ウロチョロして怪我増やすなよ、怪我人」
羚は吐き捨てるように言って、義凪の後ろ襟を掴んで住処の方へと引き摺っていった。
社から離れたところで羚は義凪から手を離した。首が締まった状態からようやく解放された義凪は数回咽せてから、羚に噛み付くように言う。
「人のこと殺す気か! つーかお前、もっと前からいただろ!」
「アンタ、怪我大丈夫なの」
静かな羚の一言に、義凪は怒りのやり場を失う。いつもの皮肉っぽさはなく、小豆色の瞳は真っ直ぐに義凪を見ていた。
「あ、ああ、大丈夫」
「あっそ」
羚は素っ気なく言うと、ふいと背を向けて住処の方へ歩き始めた。義凪は慌ててそれを追いかける。
「少しは寝れたのか」
羚が振り返らずに訊いた。
「いや、一睡も……」
「はあ!?」
羚は怪訝な顔で振り返ったが、すぐにばつの悪い顔になった。
「まあ、無理もないか……俺も人のこと言えないし」
呟いて再び歩き出す羚を、やや駆け足で義凪は追う。住処の横の階段に差し掛かったところで、義凪が声を掛けた。
「なあ、あの二人って付き合ってるのか?」
「はあ!?」
再び足を止めた羚がやはり怪訝な顔で振り返り、今度は表情を緩めず強い口調でなじる。
「今なに見てたんだよ!? やっぱバカなの!? どーゆーキャラ!? 天然!? 人工天然!?」
「ごめん……天然ではないと思います……」
確かに見ればわかるのだが、なぜか訊かずにはいられなかったのだ。
まるでそこだけ別世界のように、朝靄を纏う二人の姿は美しくて切なくて、目が離せなかった。今もまだドキドキしている。
(そっか、恋人同士だったんだ……)
檜は巫女の護衛を担っていると言っていたが、京を守る理由はそれだけじゃなかったわけだ。
しかし、同時に要の話を思い出す。相反する力を持つ二つの血は決して混ざってはいけないと言われ、昔から厳しく管理されてきた、そういう話だった。
「でもさ、
それを聞いた羚が今まで一番酷い表情に歪んだので、義凪は慌てて弁解した。
「別に非難してるわけじゃないぞ。ただ、そう聞いてたから気になっただけで」
「年寄みたいなこと言うんだな。もう咎める奴はいないんだから、好きにさせればいいだろ」
羚はそう吐き捨てるように言うと、義凪に背を向けて去っていった。
*
朝食の席に京と楓の姿はなかった。
皆があらかた食事を終えた頃、昨晩の戦果の報告会になった。まず、
「魔術師……」
思わず呟いた義凪を見て、要が頷いた。
「顔は見えなかったが、呟いていたのは英語だった。本を開いて魔術を使っていたな」
「それが炎の術だったの?」
「ああ、爆発と言った方が正確かな。かなり威力があった」
義凪はチラリと檜を見た。檜の左頬には、皮膚が爛れた跡が痛々しく残っている。
「二回爆発音がしたけど、どっちもその魔術師がやったの?」唯が尋ねた。
「いや……二回目は楓だ」
要は少し口籠って答えた。
「それで、楓は?」
義凪が恐る恐る質問すると、気不味い沈黙に包まれる。どうやら楓の状況を理解していないのは自分だけらしい。
「楓は、怪我はない。疲れているだけだ」
なんとなく引っかかる回答だったが、義凪はそうですかとだけ答えて黙った。
「それで、そっちは」
要に促されて羚が口を開こうとした瞬間、横から唯の大声が飛んだ。
「本当にいたんだよ、吸血鬼!!」
義凪と羚を覗く全員がきょとんと目を丸くする。部屋に反響した声が鎮まってから、羚が小さく溜め息をついて話し始めた。
「最初はキメラだけだった。俺のとこに二体、コイツのとこにも二体。唯のところは……」
「こっちも二体だった。それで手一杯で、ローブの男が社に向かうの止められなかった」
唯が眉を少し下げて答えた。
「キメラを全滅させた後に上から攻撃されて、コイツが腕をやられた」
羚は親指で義凪を指す。
「敵は一人で男、日本人じゃないと思う。髪は白、いや銀髪かな……背中にでかい蝙蝠の翼があった」
「ハリボテじゃないと思うよ。あたしの脚が当たったけど、柔らかかったっていうか、生き物っぽい感じがした」
唯が身を乗り出して訴えた。羚は話を続ける。
「暗くて見た目はそれくらいしかわかんなかったけど、身体能力は高かった。スピードは俺より上だと思う」
羚はこういう時、意外にも意地を張ることがない。疲労のない状態であれば互角だったかもしれないが、一時はピンチに陥ったことを重く受け止めているのだろう。常に万全の状態で戦えるわけではないと考えれば、多少過大評価であった方が安全だ。
「そいつの武器がお前が拾ってきたレイピアか」
要の問いに羚は頷く。
「剣を弾かれた途端にめちゃくちゃ怒り出して、取り返そうとムキになってた。そのレイピアって剣、取り返しに来るかもしれない」
「そうか……」
要は静かに答え、黙り込んだ。
「魔術師はともかく、ヴァンパイアの情報は全くないからな……。今の話の限りでは魔術を使うわけじゃなさそうだが」
「魔術師は情報があるんですか?」
義凪はすかさず問う。今後戦う可能性もあるのだから、情報があるなら知っておきたい。
「あると言えばある、くらいのものだ」
要の曖昧な回答に、義凪は首を傾げる。
「なんでもありってこと。西洋では魔術師たちが昔から魔術の研究を続けていて、様々な魔術が編み出されている。ある程度系統のようなものはあるらしいが、どんな魔術を使ってきてもおかしくない」
「そういうこと……」
義凪はがっくりと項垂れた。それでは対策の立てようがないではないか。
「これで投入された戦闘員はロボットを除いて五人。何人かは負傷させたが回復すればまた来るだろう。それにこれまでは一人ずつだったが、今回は二人……」
要の言葉に、明らかに場の空気が重くなる。それに気がついたのか、要はふうと溜め息をついて、らしくない気の抜けた声で言った。
「まあ、考えても仕方ないか」
要は首を右に傾けてコキン、と骨を鳴らすと、今後について淡々と指示を出した。内容は、態勢は変えないということ、以上。
「今日はあんまり無理しないこと、特に義凪」
「へっ?」
自分の名前が出るとは思っていなかった義凪は、つい情けない声を漏らした。
「昨日大怪我したの忘れたのか。ただでさえ無茶な訓練してきたんだから、少しは休めよ」
要は呆れた顔でそう言うと皿を持って立ち上がり、その場はお開きとなった。要の意外過ぎる台詞に暫く固まっていた義凪は、隣に座っていた羚に小声で話しかけた。
「要先輩、頭打ったりした?」
「アンタ失礼だな……」
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