35 黒い翼と黒い影
しっとりと濡れたように光る黒い翼は、
そんな翼を持つ人間、ヴァンパイア。
まさか、本当に存在するなんて。
「背の高いサムライがいると聞いていたが、お前ではないな」
その人物は、やや中性的だが男性と思しき声で呟いた。それが
「……本当に、子供だな」
イントネーションに僅かに癖のある声が、少し遠く聞こえることに
「あんた、ヴァンパイアか」
義凪は自分を奮い立たせるため、出来る限り声を強くする。
「そうだ」
世界に点在する魔術師たちは、その存在を隠して生きているという。ヴァンパイアも同じような存在ならば動揺くらいしてもいいのだが、返って来た声は淡々としていた。風守の一族も似たような存在だから隠す必要はないと思っているのだろうか。
「なんで宝玉を狙うんだ!」
義凪は声を張り上げるが、汗が額に滲んでいた。左の掌まで血塗れになっているのが、ぬるりとした感触でわかる。
男は黙っていた。逆光で浮かび上がる輪郭は青白く、その表情は窺い知れない。
やがて男は細い刀身を小さく振って構えた。
「……許せ」
小さな声が義凪に届くとほぼ同時に、男は銃弾のように突進した。
「避けろ!」
いち早く反応した
叫ぼうとした羚の名を義凪は呑み込んだ。手負いの状態では足手纏いにしかならない。
そもそも、万全の状態でも果たして渡り合うことができただろうか。男の切っ先は義凪が目で追うのがやっとで、体が反応できる速度を超えている。スピードは羚に匹敵するか、それ以上か。
義凪は固唾を呑んで二人を見守ることしかできなかった。しかしいつまでもこの状況が続くわけではない。どちらの体力と集中力が先に切れるか。羚は既にキメラを相手している。
義凪が自前で張っている障壁も、羚たちが《
羚の左頬をレイピアの切っ先がかすめ、動きが硬直した一瞬を男は見逃さなかった。男は羚のフードの首元を掴んで地面に押しつけた。
「羚!」
義凪が叫ぶ。ここから地面を蹴って間に合うか――。その時。
「うるあああああ!!!」
けたたましい叫び声と共に、何かが弾丸の如く銀髪の男目掛けて突っ込んだ。男は左腕でそれを受け止めたが、ミシッと嫌な音を立てるや否や空中に飛び退き、間合いを取って着地した。
「
咽せながら体を起こした羚が、叫び声の主の名を呼ぶ。
「大丈夫!?」
唯は羚の方を見ず、姿勢を低くしたまま銀髪の男と向き合った。
「……えええ!? 吸血鬼って本当にいるのぉ!?」
唯はそこでやっと、男の背中にある巨大な翼の存在に気がついたようだ。
「遅えよ……」
羚が呟きながら立ち上がる。
月明かりに照らし出された男の顔は端正で鼻が高く、おそらく西洋の血が流れているだろう。銀と思しき、月のような色の髪が風に揺れている。
「一人増えたか……」
男が静かにレイピアを構え、唯を見据えた。ぴんと張り詰めた空気が森を支配し、他の生き物の気配は一切消えている。
男と唯、そして羚が飛び出さんとしたその時、山頂の方向からドォンという爆発音が轟いた。
「なんだ!?」
驚いた義凪は
「む……」
銀髪の男が目線を上げたその瞬間を、唯と羚は見逃さなかった。二人は同時に飛び出すと、先行していた唯の拳が男の腹部を目掛けて繰り出される。防御に入り体勢が崩れた男の右手を、唯の陰から現れた羚の蹴りが直撃した。
銀色のレイピアが、月光に煌きながら宙を舞った。
姉弟の息の合った猛攻は止まらない。男は隙を与えず繰り出される唯の拳を受け止めるが、羚の右足がこめかみを捉える。唯は体を捻り、男の脛を狙って回し蹴りを繰り出す。
「くっ……」
苦しそうな声を漏らした男は僅かに身を引くと背中の翼を広げて体を包んだ。唯の蹴りは翼に阻まれ弾き返される。
「わっ」
今まで味わったことのない弾力のある感触に、唯は思わず声を上げた。止むを得ず後ろに回転し、距離を取る。羚も少し離れた位置に着地した。
男も翼を広げ、空中に浮いた状態から静かに地面に両足をつけた。
再び社の方で爆発音がした。唯と羚にとっては背部になるが、二人はそちらを見ようとはしない。男は目の脇の血を拭うと、静かに声を発した。
「宝玉が心配ではないのか?」
「全っ然」
唯が男から目を離さずに言い放った一言が、見栄でも意地でもなく、純粋な信頼であることが義凪にはわかる。社には誰よりも強い檜が、そして強力な術を操る
羚は近くに落ちていた男のレイピアを拾い上げ、義凪の方に投げた。
「それ持ってろ」
銀の細剣は的確に義凪の足元に転がった。柄の部分に繊細な細工が施され、武器というより工芸品に見える。
「返せ!」
男は突然、先程までの落ち着いた様子からは考えられないような怒声を上げた。そして血相を変えて義凪の方へ、正確にはレイピアの方へ突進する。
すかさず間に羚が立ちはだかるが、男はスピードを落とそうとしない。羚が繰り出した拳と男の拳が寸分の違いなくぶつかり、一瞬火花が散ったかと思うと羚の体が吹き飛んだ。男は崩れた体勢をすぐに立て直し、再び義凪の元へ突き進む。
「義凪!」
唯の悲鳴に近い叫び声が聞こえた。
義凪は素早く息を吸い込むと、寄り掛かった大木に全体重を預けた。そして右手を伸ばし、残っていた力をすべて振り絞って、今までで最も強固な障壁を展開した。
次の瞬間、男の指が障壁に触れ、青白い火花と共にバチッと大きな音を立てた。
衝突によって発生した風圧で、義凪は思わず目を閉じる。
静かになって目を開くと、男は五メートル以上吹き飛ばされ右膝をついていた。立ち上がろうとする男に容赦なく羚の蹴りが飛ぶ。男は右側に吹っ飛び、右肩から地面に着地した。すかさず飛び上がった唯の踵が振り下ろされたが、男は地面を転がってそれを避け体を起こす。
その時、笛のような高い音が山中に木霊した。
男は舌打ちすると、再びレイピアに向かって地面を蹴った。しかし、それを察知した羚の蹴りが横から入り、続けて唯も立ちはだかる。
その時、遠くから聞き慣れない声が届いた。そして茶色と思しき色のローブに身を包んだ人間が、文字通り飛んで来た。
「飛んでる……!?」
目を丸くした義凪は思わず声を漏らす。ローブの人物は人間が乗れるくらいの大きな板の上に乗って空中を浮いている。まるでお伽話に登場する魔法の絨毯のようだ。
ローブの人物はヴァンパイアの男の近くで滞空すると、低い声で何か話した。深く被ったフードの為に顔は一切見えないが、ローブの裾は一部が黒く焦げているのが見えた。左手に分厚い本を持っている。
警戒したまま動かない羚たちを一瞥すると、男は黒い翼を翻し背を向けた。
「待て!」
後を追おうとする羚に向かって、ローブの男は右手をかざし火の玉を放った。火の玉は飛び退いた羚の足元の落ち葉を焼き、やがて消えた。
「くそっ、逃したか」
羚は足元で灰になった落ち葉を蹴り上げた。足の力が抜けて座り込んだ義凪に唯が駆け寄り、膝をつく。
「大丈夫?」
「はは、なんとか……」
強がって言ってみたものの、左腕の焼けるような痛みに顔が歪む。緊張から解放されたせいか、目眩がした。
「社に戻ろう」
そう話す羚の右手には、銀髪の男が落としたレイピアが握られていた。一方の左手はグローブの甲が擦り切れ、血が滲んでいる。男と拳同士が衝突した際のものだった。
唯と義凪は同時に頷いて立ち上がった。
*
社には焦げ臭い匂いが漂い、床の石畳が一部黒くなっていた。
「檜兄!」
唯が真っ先に駆け寄ったのは、床に座って
「どしたの、火傷!?」
「大したことない」
珍しく余裕を無くした唯に、檜は普段と変わらず淡々と答える。よく見ると顔の左側も赤くなっており、左眼は閉じられたままだ。開けられない状態なのだろうか。
立ち尽くしている義凪に気がついた檜は、火傷に手をかざしている京に声を掛けた。
「先、あっち」
京は一瞬迷ったような表情を浮かべたが、直ぐに義凪に駆け寄った。呆然と檜を見ていた義凪はハッと我に返る。
「俺は大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょ。傷見せて」
京は一蹴すると義凪の破れたケープを剥ぎ、その下の赤く染まったシャツを破いた。
「痛っ……」
露わになった左腕には、縦にパックリと傷が開いていた。今まで経験したことのない大怪我に、義凪は思わず目を逸らす。それでも京が手をかざしているうちに傷口の周辺が温かくなり、やがて痛みも引いていく。
「傷は塞がったけど、あまり動いちゃだめよ。
京と入れ替わるように梢が来て、傷口の周りを濡れた手拭いでそっと拭った。義凪は体を少し屈めて、梢に小声で訊いた。
「こっちは大丈夫だったの?」
「はい、なんとか……。檜さんが火傷を負って、楓ちゃんは奥で休んでいますけど……」
義凪はその時ようやく楓の姿が見えないことに気がついた。辺りを見渡すと
「火傷はどうして?」
「ごめんなさい、私は見ていなくて……。ただ、相手は楓ちゃんのように術を使っていたようです。多分、魔術師かと……」
*
時は少し遡り、爆発音が山に響いた、その頃。
「おー、派手にやってんなぁ」
そこは京が張り巡らす結界の僅かに外に位置している。結界の外からは、社で上がった炎は見えず轟音も聞こえない。事実、淡雪町は何事もなかったかのように静かだ。
しかしそれは、見る者が普通の人間の場合である。
「ねえ、なにか起こってるの?」
今度は幼い声が不思議そうに訊いた。先程の声の主に肩車された少年の声だ。
「そうか、トワには見えよなぁ」
木の上で少年を肩に乗せた背の高い男が笑いながら言う。
「……魔術だな」
三つ目の声の主は木の根元に立つ細身の青年だった。幹に寄りかかりながら、遠くで上がった炎の残像を見つめて呟いた。
「だろうね。なんかヴァンパイアもいそうだなぁ」木の上の男が言う。
「わかるのか」
「なんとなくね。俺、そーゆーの敏感だから」
「ヴァンパイアってことは、お兄ちゃんのともだち?」
少年が尋ねると、男は笑った。
「オトモダチじゃないだろうなぁ、多分」
少年は少し考えてから、ふうん、と言った。
立っていた青年は、痩せた体を幹から離した。
「俺は戻る。トワ、もう寝る時間だ」
「おやぁ、気になんないの? そっちこそオトモダチかもしんないよ?」
木の上からおどけた声が届く。
「関係ない」
青年は冷めた声音でそう言うと、闇に姿を消した。
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