34 前線
敵に動きがあったのは、その日の夜だった。
夜は
今回も最初に気がついたのは京だった。
(夜まで襲撃されたら休まらないだろうに……)
京が背負う重荷を不憫に思わずにはいられない。なにしろ結界の管理を交代できる人がいないのだ。同じ家系に生まれながら
指示の内容は数日前に決めた方針通りで、
義凪の緊張を察した檜が声を掛けた。
「大丈夫か」
「はい、大丈夫です!」
元気に答えてみたものの、顔が笑っていないのが自分でもわかる。
前回社で戦った時は前線で檜たちが粗方蹴散らしてくれるし、
しかし今回は、敵の勢力をまず自分が受けなければならない。
「だいじょーぶだって!」
「イッテェ!」
唯の平手打ちを背中にもろに喰らった義凪は、思わず悲鳴を上げた。
「あたしたちそんなに離れてないから、危なかったらすぐ呼んでよ。一人で戦わなくていいんだから」
「っていうかアンタは危なかったらすぐ逃げろよ」
横から声を掛けたのは羚だった。いつもと変わらぬ生意気な目つきで、もう一言付け加える。
「上には檜兄がいるんだから、アンタは何もしなくたって困らないし」
そこまで言うかと内心思いつつ、義凪は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。真っ直ぐに見つめる檜に無言で頷き返し、義凪は臙脂色のフードを被って夜の森へと飛び出した。
*
唯たちと三人で山を下り、目標のポイントの直前で別れた。義凪の右方向に唯、左方向に羚という配置だ。間隔が約三十メートルと近いのは義凪のフォローを考えてのことだ。義凪が配置されたポイントは、羚と訓練を繰り返した平らなエリアだった。林冠が開いているので月光が差し込み、夜なのにかなり明るい。
義凪は抜刀し、白く輝く刀を構えた。目を閉じてゆっくりと肺の中を空にし、同じだけ時間をかけて息を吸う。
「来たよ!」
唯の声で目を勢いよく開き、神経を研ぎ澄ます。
下草を踏む音が猛スピードで近づいてくる。黒っぽい毛皮に身を包んだキメラの頭はひとつだが、首から上は体毛が異なる。ヒョウと思しき頭の猛獣が二体、義凪に向かっている。
一対二。
義凪は自分により近い一体に向かって跳び出した。狙うは一点、足のみ。
――足を一本でも使えなくすれば、キメラはほぼ動けない。
檜から教わった攻略法を頭の中で反復する。
キメラの獰猛な咆哮と剥き出しの牙に、恐怖を感じないと言えば嘘になる。それでも狙った点に刀を振ることだけに集中する。
(こいつら、羚よりも遅い!)
ここ数日の猛特訓で羚の速さに慣れていた義凪は、キメラの動きが緩慢に見えた。夜間故の見え辛さはあってもなお動きを見切る余裕があった。
義凪は飛びかかってきたキメラの腹の下に飛び込み、後ろ足に向かって刀を振った。
(いける!)
刃がキメラの足に食い込んだ。
しかし次の瞬間、全身に鳥肌が走った。
「っ……!」
声にならない悲鳴が漏れる。
刀から伝わってきたのは、生き物の肉を切る感触。そして何か硬いもの――骨に当たった衝撃。
義凪が今まで殺した生き物といえば虫くらいで、感触など微々たるものだ。それが今、禁断の一線を越えた気がして、筆舌に尽くし難い恐怖が全身を駆け巡った。
残っていた勢いだけで刀を振り抜いて飛び退く。斬撃の跡から鮮血が飛び、キメラの絶叫が耳を劈いた。
全身の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。しかし、次の一体がすぐ近くに迫っていた。自分の身に迫る危険が、辛うじて義凪を現実に繋ぎ止めていた。
刀を強く握りしめる。
飛びかかってきたもう一体のキメラを、障壁で弾き飛ばした。そして無防備に仰け反った巨体目掛けて、刀を振り下ろした。
ぶしゅっ。
白く煌めいた刀はキメラの喉元に深く斬り込み、そのまま胸を斬り裂いた。先程とは比べ物にならない量の血が吹き出し、月光で不気味に輝く。そのうちの幾らかは義凪の頬と腕を赤く染めた。
義凪は両足で着地すると同時に膝を付いた。止まっていた呼吸を再開する。
ぴくぴくと痙攣しているキメラから、目が離せなかった。
遠くで唯の大声が聞こえる。しかし内容は聞き取れなかった。
(そうだ、二体で終わりとは限らない)
義凪はよろよろと立ち上がった。
視線の先で、何かが動いた。最初に足を斬ったキメラがひっくり返ったまま、唸り声を上げながら踠いている。義凪は刀を握り、しかし切っ先を下げたまま、暴れるキメラを見ていた。
目を離したいのに離せない。
ガサガサという音にびくんと体が跳ねた。
「大丈夫か」
聞き慣れた少し高い声。フードを被った羚が義凪の近くの枝に姿を現した。
羚は様子がおかしいことに気がついて、義凪の近くに降り立ち視線の先を追った。何か言おうと口を開けたが、義凪の顔を見上げて口を噤む。
血飛沫を浴びた頬が青白いのは、月明かりのせいだけではないだろう。未だ動かずに視線の先を見つめる義凪の口が僅かに動いた。
「……そっちは、おわったのか」
「あ、ああ……」
羚はもう一度義凪の視線の先、先程より若干大人しくなったキメラを見た。
「アンタ、そっち向いてろ」
「えっ」
羚は義凪を無理矢理後ろに向かせ、後頭部を下方向に押し込んだ。義凪はバランスを崩して、落ち葉の層に倒れ込む。
ごきっという嫌な音と共に、キメラの小さな悲鳴が夜風に消えた。
音の正体を理解した義凪が顔を上げた時には、羚が目の前に立っていた。言葉が出ない義凪を見下ろした羚の瞳は、普段の皮肉な眼差しではなかった。
「あのままじゃ可哀想だろ」
義凪は瞬きも忘れて、その言葉の意味を理解しようとする。
(可哀想?)
「やらなきゃやられる。キメラに罪はないけど仕方ない。アイツらがくたばるまで終わらないんだ」
《やる》が《殺る》だと理解するまでに数秒かかった。一つひとつの言葉が、耳からゆっくりと時間をかけて脳細胞に届くような感覚があった。
どれくらいの時間そのまま膝を付いていたかわからないが、襲撃を受けているという状況にも拘らず、羚は何も言わずにそばに立っていた。
「……ごめん」
義凪はゆっくりと呼吸をしてから立ち上がり、刀を鞘に収めて頬の血を拭った。
「別に」
羚は目を逸らしてぼそっと素っ気なく言った。僅かな沈黙のあと、義凪はひとつ息を吐いて背筋を伸ばした。
「他の敵は?」
「唯が『一人抜けた』って言ってたから、おそらく敵が社に向かったんだと思う。ま、檜兄がいるから大丈夫だろ。とりあえず唯と合流しよう」
先程、義凪が聞き取れなかった唯の声はそれだったのだろう。先に走り出した羚を追いかけようと地面を踏みしめた。
その時、何かに気がついた羚が振り向き、血相を変えて叫んだ。
「上!!!」
その瞬間、強烈な殺気を背筋に感じた義凪は、上を向くと同時に障壁を展開した。しかし不十分な強度の障壁は殺気の主によって破壊される。障壁の欠片が青白く煌めく中、鋭い何かが義凪の左腕を抉った。
「……!!!」
義凪は悲鳴すら上げられなかった。
ただ、見開いた瞳に、“あり得ないもの”が映っていた。
羚が飛び掛かると、それはひらりと飛び上がり、黒い布が風にはためくように空を踊った。そして、枝の上に軽やかに着地した。
義凪のそばに立った羚は驚愕の表情でそれを見上げ、息を呑んだ。
「な……」
黒い服に身を包み、髪と銀のレイピアが月光を浴びて白く輝いている。逆光のため顔は見えない。
そして何よりも目を引くのは、背後に広がる黒い翼だった。
数時間前に、要が発した言葉を思い出す。
──ヴァンパイア。
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