34 前線

 敵に動きがあったのは、その日の夜だった。


 夜はかいたち稲葉家の代わりに、一族に仕える狼やかなめが従える梟が研究所の様子を伺っている。ただ、向こうも動きを察知されないよう気にする程度の常識は持ち合わせているようで、こちらが気がつくのは結界の異常をきょうが感知したときであることが多い。

 今回も最初に気がついたのは京だった。


(夜まで襲撃されたら休まらないだろうに……)


 京が背負う重荷を不憫に思わずにはいられない。なにしろ結界の管理を交代できる人がいないのだ。同じ家系に生まれながら姫巫女ひめみこの力を持たないしょうが自分を責める気持ちも解る気がする。


 やしろに集まった全員と顔を合わせながら、要が落ち着いた声で指示を出す。こういう時に、彼の普段と変わらぬ冷静さはありがたい。

 指示の内容は数日前に決めた方針通りで、かいやしろに残り、代わりにゆいれい、そして義凪よしなぎの三人が前線で敵の数を減らすというものだ。

 義凪の緊張を察した檜が声を掛けた。


「大丈夫か」

「はい、大丈夫です!」


 元気に答えてみたものの、顔が笑っていないのが自分でもわかる。


 前回社で戦った時は前線で檜たちが粗方蹴散らしてくれるし、かえでと京がバックにいる安心感があった。結果的には思いもよらぬ強い敵が来て、余裕など全くなかったが。

 しかし今回は、敵の勢力をまず自分が受けなければならない。


「だいじょーぶだって!」

「イッテェ!」


 唯の平手打ちを背中にもろに喰らった義凪は、思わず悲鳴を上げた。


「あたしたちそんなに離れてないから、危なかったらすぐ呼んでよ。一人で戦わなくていいんだから」

「っていうかアンタは危なかったらすぐ逃げろよ」


 横から声を掛けたのは羚だった。いつもと変わらぬ生意気な目つきで、もう一言付け加える。


「上には檜兄がいるんだから、アンタは何もしなくたって困らないし」


 そこまで言うかと内心思いつつ、義凪は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。真っ直ぐに見つめる檜に無言で頷き返し、義凪は臙脂色のフードを被って夜の森へと飛び出した。







 唯たちと三人で山を下り、目標のポイントの直前で別れた。義凪の右方向に唯、左方向に羚という配置だ。間隔が約三十メートルと近いのは義凪のフォローを考えてのことだ。義凪が配置されたポイントは、羚と訓練を繰り返した平らなエリアだった。林冠が開いているので月光が差し込み、夜なのにかなり明るい。


 義凪は抜刀し、白く輝く刀を構えた。目を閉じてゆっくりと肺の中を空にし、同じだけ時間をかけて息を吸う。


「来たよ!」


 唯の声で目を勢いよく開き、神経を研ぎ澄ます。

 下草を踏む音が猛スピードで近づいてくる。黒っぽい毛皮に身を包んだキメラの頭はひとつだが、首から上は体毛が異なる。ヒョウと思しき頭の猛獣が二体、義凪に向かっている。

 一対二。

 義凪は自分により近い一体に向かって跳び出した。狙うは一点、足のみ。


 ――足を一本でも使えなくすれば、キメラはほぼ動けない。


 檜から教わった攻略法を頭の中で反復する。

 キメラの獰猛な咆哮と剥き出しの牙に、恐怖を感じないと言えば嘘になる。それでも狙った点に刀を振ることだけに集中する。


(こいつら、羚よりも遅い!)


 ここ数日の猛特訓で羚の速さに慣れていた義凪は、キメラの動きが緩慢に見えた。夜間故の見え辛さはあってもなお動きを見切る余裕があった。

 義凪は飛びかかってきたキメラの腹の下に飛び込み、後ろ足に向かって刀を振った。


(いける!)


 刃がキメラの足に食い込んだ。


 しかし次の瞬間、全身に鳥肌が走った。


「っ……!」


 声にならない悲鳴が漏れる。

 刀から伝わってきたのは、生き物の肉を切る感触。そして何か硬いもの――骨に当たった衝撃。

 義凪が今まで殺した生き物といえば虫くらいで、感触など微々たるものだ。それが今、禁断の一線を越えた気がして、筆舌に尽くし難い恐怖が全身を駆け巡った。

 残っていた勢いだけで刀を振り抜いて飛び退く。斬撃の跡から鮮血が飛び、キメラの絶叫が耳を劈いた。


 全身の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。しかし、次の一体がすぐ近くに迫っていた。自分の身に迫る危険が、辛うじて義凪を現実に繋ぎ止めていた。

 刀を強く握りしめる。

 飛びかかってきたもう一体のキメラを、障壁で弾き飛ばした。そして無防備に仰け反った巨体目掛けて、刀を振り下ろした。


 ぶしゅっ。


 白く煌めいた刀はキメラの喉元に深く斬り込み、そのまま胸を斬り裂いた。先程とは比べ物にならない量の血が吹き出し、月光で不気味に輝く。そのうちの幾らかは義凪の頬と腕を赤く染めた。


 義凪は両足で着地すると同時に膝を付いた。止まっていた呼吸を再開する。

 ぴくぴくと痙攣しているキメラから、目が離せなかった。

 遠くで唯の大声が聞こえる。しかし内容は聞き取れなかった。


(そうだ、二体で終わりとは限らない)


 義凪はよろよろと立ち上がった。

 視線の先で、何かが動いた。最初に足を斬ったキメラがひっくり返ったまま、唸り声を上げながら踠いている。義凪は刀を握り、しかし切っ先を下げたまま、暴れるキメラを見ていた。

 目を離したいのに離せない。

 ガサガサという音にびくんと体が跳ねた。


「大丈夫か」


 聞き慣れた少し高い声。フードを被った羚が義凪の近くの枝に姿を現した。

 羚は様子がおかしいことに気がついて、義凪の近くに降り立ち視線の先を追った。何か言おうと口を開けたが、義凪の顔を見上げて口を噤む。

 血飛沫を浴びた頬が青白いのは、月明かりのせいだけではないだろう。未だ動かずに視線の先を見つめる義凪の口が僅かに動いた。 


「……そっちは、おわったのか」

「あ、ああ……」


 羚はもう一度義凪の視線の先、先程より若干大人しくなったキメラを見た。


「アンタ、そっち向いてろ」

「えっ」


 羚は義凪を無理矢理後ろに向かせ、後頭部を下方向に押し込んだ。義凪はバランスを崩して、落ち葉の層に倒れ込む。


 ごきっという嫌な音と共に、キメラの小さな悲鳴が夜風に消えた。


 音の正体を理解した義凪が顔を上げた時には、羚が目の前に立っていた。言葉が出ない義凪を見下ろした羚の瞳は、普段の皮肉な眼差しではなかった。


「あのままじゃ可哀想だろ」


 義凪は瞬きも忘れて、その言葉の意味を理解しようとする。


(可哀想?)


「やらなきゃやられる。キメラに罪はないけど仕方ない。アイツらがくたばるまで終わらないんだ」


 《やる》が《殺る》だと理解するまでに数秒かかった。一つひとつの言葉が、耳からゆっくりと時間をかけて脳細胞に届くような感覚があった。

 どれくらいの時間そのまま膝を付いていたかわからないが、襲撃を受けているという状況にも拘らず、羚は何も言わずにそばに立っていた。


「……ごめん」


 義凪はゆっくりと呼吸をしてから立ち上がり、刀を鞘に収めて頬の血を拭った。


「別に」


 羚は目を逸らしてぼそっと素っ気なく言った。僅かな沈黙のあと、義凪はひとつ息を吐いて背筋を伸ばした。


「他の敵は?」

「唯が『一人抜けた』って言ってたから、おそらく敵が社に向かったんだと思う。ま、檜兄がいるから大丈夫だろ。とりあえず唯と合流しよう」


 先程、義凪が聞き取れなかった唯の声はそれだったのだろう。先に走り出した羚を追いかけようと地面を踏みしめた。


 その時、何かに気がついた羚が振り向き、血相を変えて叫んだ。


「上!!!」


 その瞬間、強烈な殺気を背筋に感じた義凪は、上を向くと同時に障壁を展開した。しかし不十分な強度の障壁は殺気の主によって破壊される。障壁の欠片が青白く煌めく中、鋭い何かが義凪の左腕を抉った。


「……!!!」


 義凪は悲鳴すら上げられなかった。

 ただ、見開いた瞳に、“あり得ないもの”が映っていた。


 羚が飛び掛かると、それはひらりと飛び上がり、黒い布が風にはためくように空を踊った。そして、枝の上に軽やかに着地した。

 義凪のそばに立った羚は驚愕の表情でそれを見上げ、息を呑んだ。


「な……」


 黒い服に身を包み、髪と銀のレイピアが月光を浴びて白く輝いている。逆光のため顔は見えない。

 そして何よりも目を引くのは、背後に広がる黒い翼だった。

 数時間前に、要が発した言葉を思い出す。


 ──ヴァンパイア。

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