33 謎の表記
山奥にいると日付の感覚がなくなる。気がつけば六月になっていた。
本当であれば県大会に向けて追い込みの時期だった筈だ。そんなことが時折頭に浮かぶが、それを振り払うように
久しぶりに
檜は稽古であろうと容赦なく真剣を振るうので、とにかく確実に障壁で防御すること、そして羚に叩き込まれた通り、自分の不利な状況に陥らないことを意識する。体勢を立て直したら、僅かな隙を狙って攻撃に転じる。
……という理想通りに行かないことくらいは覚悟していたが、やはり檜の一撃は重く、そして速い。九割九分が防戦である。
ようやく義凪が振った刀が檜の刀に当たった。
「そこまで」
いとも簡単に攻撃を跳ね除けた檜は、義凪が間合いを取ったところで静かに言った。
檜は刀を鞘に収め、何か考えているのか腕を組んだまま無言のまま時が過ぎる。檜の口数が少ないことにはもう慣れたが、稽古の後で黙りこくられるのは流石に困る。
「檜兄、なんか言いなよぉ」
木の上で観戦していた
「いいんじゃないか?」と一言。
「えっと……褒めてます?」不安になった義凪が尋ねる。
「ああ、驚いた」
そう話す檜の声は驚いているようには聞こえない。
「うんうん、たった三日ですごいよね。羚の特訓の成果だね!」
枝の上に座って話す唯の声には興奮が混じっている。唯はお世辞を言うタイプではない。ようやく希望が見えてきた。
「どの辺がよかったんでしょうか」
「転ばなかった」
義凪は数秒固まったあと、がっくりと肩を落とした。ちなみに、檜は至って真顔である。
(転ばないなんて、最低限のレベルじゃないか……)
確かに三日前はその最低限すら出来ていなかったけれど、これでは戦力と呼ぶにはあまりにも不甲斐ない。羚が大量にこしらえた脛の痣が、思い出したように痛んだ。
「大切なことだ」
檜の声に顔を上げると、どこか穏やかな瞳が義凪を見つめていた。隣に来た唯もうんうんと頷く。
「そうそう、流石に檜兄にはまだ勝てないよぉ。でもかなりいい線いってるよ。自信持ちなって」
「そうかな」
思わず口許が緩みそうになる己の単純さに内心苦笑いしつつ、義凪は丸めていた背筋を伸ばす。
「午前の残りは唯が相手してやってくれ。午後は俺がやるから」
そう言って姿を消した檜は、今日は見張りを担当している羚のところへ向かったのだろう。兄に労われて照れ臭そうに笑う羚の顔が想像できる。
「よおし、やるかー!」
唯が元気よく両腕を上げた。義凪にとって、唯がこの一族の中で最も付き合いが長く、学校でも足の速さを競い合った仲だ。しかし、手合わせするのはこれが初めてだ。
「女だからって舐めてると痛い目に遭うからね」
腰を低くしてニッと笑い、義凪を見据える小豆色の瞳には、羚と全く同じ光が揺れている。
義凪は心のどこかでワクワクしている自分に気づく。遊びじゃないのはわかっているが、それでも胸の奥で燻る興奮を認めずにはいられない。実戦ではこうはいかないだろうが。
「そっちこそ、日が浅いからって舐めんなよ!」
向かい合っていた二人は合図もなく、同時に飛び出した。
*
数時間後。
「くそっ、全然ダメだなぁ……」
ぶつぶつと呟く義凪は、濡れた髪をタオルでガシガシと拭きながら
「あ、治った?」
椅子に腰掛けていた唯が声を上げた。隣でテーブルに向かっていた
「ごめんねー、ちょっとやりすぎちゃったねぇ」
そう言って両手を顔の前で合わせる唯の顔には、反省の色など毛頭ない。
「傑作だったのに、勿体ない」
ぼそっと呟いて再び机に目を落とした要を、義凪はキッと睨みつける。
要が傑作と評したのは、先程まで義凪の左目の上で存在を主張していたたんこぶのことだ。
手合わせに夢中になりすぎた義凪と唯が相討ちになるかと思われた瞬間、唯の右ストレートが義凪の顔面にクリティカルヒットし、一発KOとなったのだった。左目の視界を妨げるほどに腫れた義凪のたんこぶは、社にいた要と
そして薬湯に頭から浸かってようやく腫れが引き、今に至る。
「そんなに痣だらけなら、もっと早く薬湯に浸かったらよかったのに」
遅れて表に出てきた京が言う。
実は羚の猛特訓の間は薬湯禁止だった――とは言えないので義凪は曖昧に笑ってごまかす。義凪の体中に痣を拵えた張本人・羚から「薬湯に使う薬草のストックも多くないし、ただでさえ結界を張り続けている京に負担をかけるなんて何様だ」との御説教だったのだ。
机に近寄った義凪は、要が見つめている紙を覗き込んだ。
「それ、例の間取り図ですか」
机に広げられたA2サイズの数枚の紙は、先日
義凪は研究所に近づいたことがないし、近づいたところでコンクリートの高い塀に囲まれていて中は見えないらしい。図面の縮尺を見るだけではイメージが沸かないが、細かく記載された部屋の数から、かなり広いことは解る。
「広いねえ」
同じことを考えたであろう唯が呟いた。
「ああ……かなり掘ってる」
要がそう表現したのは地下の事だ。研究所の外見上の階数は少なく、三階が最高である。しかし要が紙を捲ると、B3Fと右下に記載された別の平面図が顔を覗かせる。単純に足し合わせれば、階数は六。これに敷地の広さを掛け合わせれば、大規模な施設であることが容易に想像できる。
「こんなにでかいんですか……」
義凪は固唾を呑む。建物の規模から想像する敵の数に対して、こちらは町長のバックアップはあれど、戦力と呼べる人員は狼を入れても両手の指で足りてしまう。
「あまり尻込みするなよ。研究所にいるすべての人間がこの前来たような
まるで心を読んだかのような要の一言に、義凪はギクリとした。気を取り直して再び図面を覗き込む。
「他には何か解ったんですか?」
「いや……宗教施設や研究者の生活圏はわかりやすいが、肝心の研究エリアが不明確だ。単純にラボとしか表記がない部屋がほとんどで、内容は書いてあっても略語でわかりにくくしてある」
「略語?」
「そうだ。例えばここ」
要が指差した部屋は図面を見る限り比較的大きく、その真ん中に《VMP》とある。その隣に小さな部屋が二つ並んでいて、こちらにも似たようにアルファベットが書かれている。
「ぶいえむぴー……?」
義凪はそんな略語がなかったか頭の中を引っ掻き回すが、何も見つからない。
「奴らだけが使う言葉かもしれないから、深く考えても無駄かもしれないけどな」
要は溜め息まじりに言ったが、義凪は一度考えると気になってしまう性分だ。取り敢えず三つのアルファベットが頭文字の名詞は思いつかないので、母音を抜いた略し方があったことを思い出し、適当に母音を差し込んでみる。まずはa。
「……vamp?」
「バンプ? どういう意味?」
唯が義凪の顔を覗き込むように首を大きく傾げた。
「いや、適当に嵌め込んでみただけだからわかんないけど」
苦笑いを浮かべながら答えた義凪だったが、要はいつになく真剣な表情で左手を顎に当てている。
「vamp……ヴァンパイア?」
「ヴァ、んぱいあぁ?」
ぶっと吹き出した義凪を絶対零度の瞳が貫いたので、義凪は二回りほど小さくなった。
「ヴァンパイアって吸血鬼のことでしょ、本当にいるの?」
唯は馬鹿にするでもなく、ただ訝しげに顔をしかめた。京も真剣に話を聞いている。
(え……まじ?)
温度差を肌で感じ、そこでようやく義凪は気がついた。世間一般ではファンタジーと揶揄されるようなことも、ここではリアルであることを。
「噂程度だ。魔術師と縁があるらしいが……。シノさんが一度だけ口にしたことがあった」
(シノ?)
「実際に魔術師はいるんだから、強ちお伽話とも言えないかもね。研究所は魔術の研究もしているんでしょう?」
京がそう続けたので、シノとは誰のことなのか義凪は聞きそびれてしまった。過去にいた一族の人だろうか。
要は腕を組んで話を続ける。
「そうだ。今のところまだ剣と銃を使う敵しか来ていないが、今後は
そして要はしばらく腕を組んで考え込んでいたが、やがて溜め息をついた。
「ここで議論しても推測の域は出ないな」
「そうね、相手の手の内がわからないのは不安だけれど、結局はやれるだけの準備をしておくしかないのよね」
京が穏やかに言う。
「だね! よおし義凪、もう一ラウンド行くぞー!」
「え、もう昼だけど……」
「十五分で片をつける!」
義凪は唯に半ば引き摺られるように社を後にした。
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