31 羚の本音(二)

「最初に訓練してたのって、ここ?」


 足を止めたれいがそう口にしたのは、傾斜がほぼゼロに近い開けた場所だった。楕円形に広がるその場所は堆積した落ち葉に覆われ、真ん中に朽ちた倒木が横たわっている。


「そうそう、ここ」


 義凪よしなぎが頷くと、羚は傾斜が急になるギリギリの位置に立って下を覗き込む。


「ふーん……結構落ちたね……」


 聞こえてるぞ、と義凪は言いかけたが呑み込んだ。羚はくるりと義凪の方を向くと、斜面下を指差す。


「で、かい兄の猛攻を回避なり防御なりしてるうちに、こっちに押されたわけだ」

「ま、まあな……」


 尻すぼみになった返事と共に、義凪は目線を泳がせた。


「ここ、さっきまでいた場所とどこが違うかわかる?」


 羚は手に腰を当て、偉そうな態度で問いかける。しかし、鋭さと気怠さを併せ持つ小豆色の瞳に、今や拒絶や軽蔑といった感情は感じられない。

 義凪は辺りをぐるりと見渡した。


「えっと、傾斜が緩い……だけじゃないよな。落ち葉が多いとか?」

「他には?」


 羚に促され、義凪は焦ってもう一度辺りを見回す。この場所も岩がないとは言えないし、そもそも森や山に慣れていない義凪にはどこも同じように見えてしまう。生えている木の種類は判別できないし……と考えたところで、あっと声が漏れた。


「もしかして、木が少ない?」

「正解」


 羚はにこりともせず、然も当然とばかりに答えた。


「ここは前にでかい木が立ってたから木の密度が低いんだよ。ま、そのでかい木が倒れたから今後はどうなるかわからないけどね。アンタの場合、こういう場所を選んで戦う必要があるんだよ。なんでかわかる?」


 またも質問され、義凪は頭をフル回転させる。唸って時間を稼ぎつつ羚の様子をチラリと窺うと、視線が義凪の腰のあたりに注がれていることに気がつく。


「あっ……木が多いと刀を振れないからか!」

「そ。俺やゆいは体術だから小回りが効くし、両手が空いてるから木の枝とかも利用して戦えるけど、刀はそれなりの広さが必要になる。それに、戦い慣れていないアンタが木が多いとことか斜めになってるとこで戦おうって方が無茶なんだよ」


 う、と義凪は言葉に詰まる。ついさっき感じていた行き詰まり感を見透かされている気がした。


「だから無茶とかそういう言い方は……」

「現実問題だろ。俺は無茶する必要はないって言ってんの」


 義凪ははたと動きを止めた。


「苦手な場所で戦うなんてハンデを自分から負う必要はないってこと。アンタは障壁も使えるし回避もできるんだから、足場の悪いところに押されたら体勢を立て直すんだよ。キメラは木には登れないから一旦木の上に逃げればいい。この山の地形も把握しといた方がいいな」


 素直に感心した義凪がほお、と感嘆の声を漏らすと、羚は鼻を小さくフンと鳴らした。


「っていう説明がなんでできないかな、檜兄は……」


 羚の独り言に、義凪は吹き出しそうになるのを必死で抑える。この口がよく回る少年は、もしかしたら義凪にとって貴重な人材なのかもしれない。


「あ、でもさ、防戦一方な前提で話してるけど、例えばやしろに向かう敵を追いかけなきゃいけない時だってあるだろ? そうなると、平らな場所って選んでられないんじゃないか?」

「防戦一方にならない自信があるわけ?」


 羚が溜め息をついたので、義凪は首を傾げた。


「アンタさぁ、平らな場所なら余裕とか思ってない? ここみたいに落ち葉が積もってるところが多いんだよ。訓練場と同じように戦えると思ったら大間違いだから」


 そう言うと羚は肩を左右順番にぐるぐると回し、軽くジャンプした。そして振り向いた瞳には、殺気が煌々と燃えていた。


「それじゃ説明はこれくらいにして、ヘタレじゃないってことを証明してもらおうか」






 檜が来たのは、義凪が羚の蹴りをモロに喰らった瞬間だった。


「ぐえっ」


 誰かの気配に気がついて僅かに視線を向けた隙を、羚は見逃さなかった。障壁を張り損ねた義凪の鳩尾に羚の靴がめり込み、後方に吹っ飛んだ体は倒木の手前まで滑ってから止まった。

 激しく咽せる義凪に、羚の容赦ない叱責が降り注ぐ。


「敵から目を逸らすなんてあり得ないだろ。視界に入ってんなら目を動かさずに見ろよ」

(んな無茶な……)


「メシ、戻ってこないから先に食べたけど」檜は相変わらず淡々と言う。

「あれ、もうそんな時間か」と羚。


 上半身を起こした義凪が腹に視線を落とすと、二十二センチの靴跡がくっきりと付着している。


「義凪も一旦戻って着替えたら」

「そうします……」


 義凪が立ち上がると、意外にも羚は先に住処すみかに戻ることなく、その場で待っていた。


(こいつ、優しいとこもあるんじゃん)


 と思った矢先、


「先に着いた方が勝ち。負けた方が皿洗い」


 というほぼ結果が確定している勝負を言い渡され、義凪は心の中で即前言撤回した。


「羚」


 今まさに飛び出さんとしている羚を檜が呼び止める。


「午後も頼みたいんだけど」


 その言葉に複雑な表情を浮かべた羚はしばらく黙り込んで、やがて俯き気味に小さく口を開いた。


「……いいけど」


 一言だけ呟いた羚の頭を、檜はくしゃっとひと撫でした。


「助かる」


 小っ恥ずかしいような、しかし嬉しそうな表情を浮かべる羚を見て、こういうときは可愛げがあるんだよなぁと義凪は思う。

 見られていたことに気がついた羚は少し顔を赤くして、キッと義凪を睨んだ。


「先にスタートしてればいいのに、バッカじゃないの」


 そう言い捨てて、あっという間に見えなくなってしまった。負け確定と肩を落としつつ、口元を緩めながら義凪は羚の後を追いかけた。







 この山には電気もガスも通っていないので、もちろん蛇口を捻ればシャワーから熱いお湯が降り注ぐなんてことはあるはずもない。全身泥だらけだった義凪は、せいぜい冷たい水で顔を洗うくらいしかできないか――と肩を落としていたところ、気を利かせたしょうが風呂を沸かしておいてくれた。


 湯船にゆっくりと浸かりたいところだが、腹が減っていたし午後も羚の特訓が待っている。義凪は急いで熱いお湯を浴びた。それだけでも爪先がじんとして、生き返るような心地がする。

 腕や脛にくっきりと浮かび上がる青痣は見ないことにする。きっと夜には倍に増えているだろう。


 髪に雫を湛えたまま食堂に現れた義凪を見て、羚は顔をしかめた。


「ちゃんと拭きなよ、なんのために梢が風呂沸かしてくれたと思ってんのさ」


 義凪はタオルでわしゃわしゃと髪を擦る。食堂の焚き木には火はついておらず、少し肌寒い。

 梢は羚と何か話していたようだったが、義凪が来ると食堂の奥に向かい、少し大きめのトレイを持って戻ってきた。丸太に腰掛けた義凪と羚の間に、大きな四つのおにぎりとお新香が置かれた。

 一人分には多くないか? と義凪が思うが先か、羚は「いただきます」ときちんと挨拶してからおにぎりに手を伸ばし、齧り付いた。


「あれ、まだ食べてなかったのか」


 義凪の問いかけに羚は答えず、立て続けにおにぎりに齧り付く。よく見るとお新香は小さな二つの皿に載せられていた。

 ふふ、と梢は笑いながらステンレスのカップにお湯を注ぎ入れる。


「待ってたんだよね」


 梢がそう言うと、羚はぷいと顔を背ける。


「……ありがとな。じゃ、いただきます!」


 義凪は手をパンと合わせておにぎりに手を伸ばした。




 先におにぎりを食べ終えた羚が、一緒に丸太に座っていた梢に言った。


「自分たちで皿片付けるからいいよ」


 恐らく食器を片付けるために残っていたであろう梢は、申し訳なさそうに両手を前に立てる。


「大丈夫だよ、私やるよ?」

「いいんだよ、負けた方が洗うってルールだから」


 言わずとも勝敗は伝わっただろう。梢はクスッと笑った。


「じゃあお言葉に甘えようかな。先輩、汚れた服は脱衣所の洗濯籠に入っていますか?」

「うん、入ってるけど、泥だらけだから後で自分で洗うよ」


 口をもぐもぐさせながら義凪は答える。

 最初は自分の服(下着含む)を母親以外に、しかもこの騒動がなければ学校のアイドルとして君臨したであろう女の子に洗われることに随分と戸惑ったが、この頃にはもう抵抗もなくなっていた。

 とはいえ、何度も転倒した今日の汚れ具合は流石に申し訳ない。


「いいんです。先輩が頑張ってるんですから、私だって頑張らないと」


 そう言って天使の微笑みを振り撒くと、梢は北斗を連れて食堂から出て行った。しばし梢の笑顔の余韻に浸っていた義凪の耳に、小さな声が届く。


「……気にしなくていいのに」


 頬杖をついて、羚はボソリと呟いた。


「梢のこと?」


 義凪が問いかけると、羚は頬杖をついた。


かなめもそうだけど、力が使えないことを気にしすぎなんだよ。力なんてただのオプションだろ? もう誰も咎めないのに」

「お前、良いこと言うな……」


 素直に感動した義凪を他所に、羚は再び外方を向いてしまう。そこではたと気づいた義凪は、少し声のトーンを落として尋ねた。


「つまり、以前は非難する人がいたってこと?」


 羚は頬杖をついたまま義凪を横目でチラリと見てから、瞼をやや伏せて話し始める。


「古い一族だからね……いろいろ事情もあったんだろうけどさ、姫巫女ひめみこの血筋なのに力を持たない梢に対する大人の態度は、子供の俺から見てもどうかなって思ったよ。なんて言うか、腫れ物に触るような感じ? 要は要で、この山の生まれじゃないっていう理由でバカにされてたしね。ま、みんながそうだったわけじゃないし、そういう風潮を変えようとしてた人もいたけど」


 以前、きょうから力や術の話を聞いた時に梢が塞ぎ込んでいた理由を、義凪はようやく理解した。


(力のあるとかないとか、誰だって自分で選んで生まれてきたわけじゃないのに)


 そして義凪には一つ気になることがあった。


「要先輩って、この山で生まれたわけじゃないんだ」

「そうだよ。要の父親は紅辻べにつじの家系だけど母親は――」


 そこまで言って羚は口を押さえた。


「今の無し。忘れて」

「はあ? なんでだよ、気になるじゃん」

「だめ。タブーなんだよ、この話。要にバレたら怒られる」


 そこまで言われると無理強いは出来なかった。ただ、あの要にもそういった踏み込まれたくない領域があることが意外だった。そう言ったら失礼かもしれないが。


「それよりいつまでのんびりしてんだよ。早く食べて皿洗ってよ」


 手が止まっていた義凪は、手に持った齧り掛けのおにぎりを慌てて口に詰め込むと、ぬるくなったインスタントスープで流し込んだ。

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