30 羚の本音(一)

 朝まで降り続いた雨は広葉樹の青々とした葉を濡らし、滴る雫には雲間から差し込む日光が反射して煌めいている。

 そんな幻想的な光景を台無しにする悲鳴が、山に木霊した。


「うわあああーーー」


 足を滑らせた義凪よしなぎは絶叫しながらそのまま十メートル程斜面を滑り落ち、ようやく停止した。


「だいじょぶー?」


 軽いステップで着地したゆいが義凪の顔を覗き込む。一方の義凪は止まりかけた心臓がバクバクと音を立て、返事もままならない。

 そのすぐ横に、器用に斜面を滑り降りて来たかいが止まった。


「大丈夫か」

「大丈夫デス……」


 ようやくまともに呼吸ができるようになった義凪はなんとか返事をし、手をついて上半身を起こした。

 濡れた下草も岩も、雨をたっぷりと含んだ土もよく滑り、踏み込む度に足を取られる。それでも無理やり動作を続けようとすると今回のように転倒し、場所が悪ければ滑落という悲惨な目に遭う。鋭利な岩も転がっているので、下手をすれば命に関わる大問題である。


 そもそも雨の日は襲撃の可能性が低いという話なので、こんな悪条件の中で訓練をする必要はないのではと義凪は思うが、襲撃の可能性はゼロではないとかなめから釘を刺された。

 加えて、檜の「雨の中で戦えれば晴れても戦える」という超体育会的方針によって、こんな命懸けともいえる訓練を続けているのである。


「やっぱバランスだねぇ。足場の悪いところは重心をこう……クイっと」


 唯がジェスチャーで説明を試みているが、義凪には全く伝わらない。

 ここ一週間のスパルタ訓練で気がついたのだが、どうやらこの兄妹は説明が拙い、と言うか、絶望的に下手である。唯の擬態語や擬音語ばかりのアドバイスは漠然として難解であり、檜は口数が少ない上、最終的には「繰り返して感覚を掴め」という根性論に帰着する。

 これがこの厳しい訓練をさらに厳しくしている所以である。


「あたしそろそろ見張り交代しなきゃ。がんばってねー」

「唯、れいにここに来るように言ってくれ」


 木の上に飛び乗った唯ははぁいと間延びした返事をして、あっという間に姿が見えなくなった。

 檜が何も言わないので休憩なのだと勝手に解釈し、はぁ、と大きく息を吐く。


(きっつい……)


 服は下着までぐっしょりと濡れて気持ち悪い。借りたグローブも重たくなっているが、何より重く沈んでいるのが義凪のモチベーションだった。

 障壁や回避といったこれまでの訓練はスムーズにコツを掴んだが、昨日から足場の悪い森での訓練が始まってからどうも上手くいかない。刀の扱いもままならず、内心行き詰まっている感覚があるのだが、早計だろうか。


(戦うって決めたんだ、弱音なんて吐いてられない)


 木々の僅かに揺れる音と共に、臙脂色のフードを被った小柄な人影が現れた。


「……檜兄、何の用」


 自分が到着したことに気がついているはずの檜が何も言わないので、羚はぶっきらぼうに呟いた。フードの下から覗く口はへの字に結ばれ、不満を湛えた赤茶色の瞳は決して義凪を見ようとはしない。

 檜はようやく羚を見上げて、いつも通り表情を変えず淡々と言った。


「義凪に森での戦い方を教えてやってくれ」

「「……はぁ!?」」


 二つの声が寸分ずれることなく重なった。義凪が羚を見上げると同時に羚は義凪を見下ろし、視線がぶつかると同時に勢いよく逸らした。


「なんで俺がこんな奴の面倒見なきゃなんないんだよ!?」


 羚の言い方に義凪は一瞬怒りのボルテージが上がったが、落ち着けと自分に言い聞かせる。羚の挑発についムキになり、恥ずかしい思いをしたのはつい一昨日のことではないか。ここは年上らしく穏便に振る舞わねばならない。

 そもそも、稽古をつけてもらう立場の義凪に拒否権などあるのだろうか。

 檜は羚の癇癪など気にも留めず、フードのついたケープを翻した。


「俺は一旦社に戻る。なんかあったら呼べ」


 こうして、鬱蒼とした森の中に鬱屈した二人が残されたのだった。




「いつまで座り込んでんの?」


 居心地の悪い沈黙を先に破ったのは羚だった。相変わらず枝の上で、膨れっ面で義凪を見下ろしている。二人の物理的な高さの相対関係がそのまま上下関係を表しているような気がして、義凪は内心ムッとしながら、しかし何も言わずに立ち上がった。


「うっわ、泥だらけじゃん。だっさ」


 羚の呆れた声が義凪の神経をちくちく逆撫でにする。引き攣りそうな口角を、自分が年上だというプライドだけで押さえ込む。

 羚は義凪の頭上を飛び越えて斜面のやや上に着地すると、義凪を睨んだ。そして義凪が滑り落ちた斜面を登り始める。


「頑張ってるみたいだけど、無駄じゃないの? 魔女の息子だかなんだか知らないけど、短期間で戦力になろうなんて無謀なんだよ。そもそもなんで人質が戦ってんの? おかしいだろ」


(それは俺自身がいちばん感じてんだよ。それにしてもコイツは兄貴と違って舌がよく回るなぁ)


 そんなことを内心考えながら、羚の後を追って斜面を歩く。


「……なんか言ったら? なんも言えないの?」


 義凪は無言のまま、努めて穏やかな表情を保つ。

 しかし、濡れた服と疲労感で上限に近い不快度指数は、じわじわとメンタルの耐久力を削っていく。口を開いたらどんな言葉が飛び出すか自分がいちばんよく知っているので、上下の唇を力を入れて合わせる。

 しかし羚はもう一度義凪をチラッと見てからフンと鼻を鳴らすと、義凪の怒りの堤防を壊す一言を放った。


「ただのヘタレじゃん」


 ぷつん、と自分の頭の中で何かが切れる音を確かに聞いた義凪は、次の瞬間、羚のフードを後ろから掴んで引っ張った。羚の口からぐえ、と音が漏れ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で振り返る。


「てめっ、何すん……」


 義凪はすかさず羚の襟元を掴むと、目一杯空気を吸って叫んだ。


「俺はヘタレじゃねぇ!!」


 鳥が一斉に飛び立つ音がした。

 羚は目を丸くしていたが、やがて顔がじわじわと赤くなり、唇がぱくぱくと動き出す。


「テメェ、なんて大声出すんだよ! 鼓膜が破れるかと思っただろ!」

「うるさいのはお前だ! こっちが黙ってれば調子に乗りやがって、子供だからって何言っても許されると思うなよクソガキ!」

「なっ……ふざけんなよ、テメェだってガキだろうが! 俺と二つしか違わないくせに!」

「二つも違えば十分だろうが! お前なんてまだランドセル担いだ小学生のくせに!」


 羚の顔がカッと赤くなったのを義凪は見逃さなかった。しかしそれは一瞬で、今度は羚が義凪の襟元を掴み返し、唾を飛ばしながら大声でがなる。


「年上だろうがなんだろうが、何も知らずにぬくぬく生きてきた奴に言われたくないんだよ! アンタ何様なんだよ、部外者のくせに! 俺らは遊びでやってんじゃねえ、興味本位で刀握られたら、たまったもんじゃねぇんだよ!」


 言い切った羚は荒い呼吸を繰り返すと、再び歪んだ表情で義凪を睨んだ。


 きっとこれが羚の本音なのだと、義凪は一転冷静になっていく頭で考えていた。

 昨日の夜、羚に一方的に嫌われる義凪を不憫に思ったのか、京が羚の話をしてくれた。その内容は、三年前に殺された稲葉家のもう一人の兄弟についてだった。

 義凪は、死んだ兄弟は年長の二人だと勝手に思い込んでいた。しかし檜の上には長男であった兄一人しかいない。


 死んだもう一人は、羚の双子の姉だった。


 双子の姉とは非常に仲が良く、まさに一心同体だった。そんな己の片割れとも言える存在が、目の前で研究所の人間に殺された。それ以来、羚は生き残った一族の人間以外には心を開かなくなった。良くしてくれた町長をはじめとする雪邑ゆきむら家の人々とさえ、ほとんど口をきかなかった。

 羚は自分が半分無くなったような喪失感と研究所に対する激しい憎悪を抱え続けている。だから早く剣で戦いたがるのだろう――京はそう話した。だから羚の無礼を許してやってほしいと付け加えて。


 その話を聞いた時は、あまりの壮絶さに義凪は感情がついていかなかった。しかし今、鼓膜を震わせた羚の叫びは、心に波動となって届く。

 思い返せば山に来て以来、羚から向けられていた目の色は“拒絶”だった。

 他の面々が友好的だっただけで、羚のそれはごく自然な反応だと今ならわかる。まだ体の小さい少年が、どれほどの消化しきれない感情を抱えているのか。


 しかしだからこそ、はっきり言わなければならない。

 わかってもらわなければならない。

 義凪は羚の襟元を掴む手に力を入れると、羚の目をキッと睨んで大きく息を吸った。


「確かに俺は何も知らずに生きてきたけど、だからってここに来て知ったことをなかったことにはできないんだよ! 俺にとってはもう無関係じゃない!」


 義凪はハアハアと浅い呼吸を繰り返した。羚の目には、今は驚愕の色が浮かび、口は力なく開いている。義凪は呼吸を落ち着けつつ続ける。


「遊びだなんてこれっぽっちも思ってない、俺は俺なりに真剣にやってんだ。無理とか無謀とか、言わないでほしい」


 羚は口をわなわなと動かしたが、やがて義凪の襟元を掴んだ手を緩めると、顔を逸らして小さな声で呟いた。


「……悪かった」


 その反応に意表を突かれた義凪は、慌てて羚の襟元から手を離した。羚の頭の位置が下がって、草を踏む音がした。どうやら羚の体が浮くほど強く引っ張り上げていたらしい。


「いや、こっちこそごめん……」


 辺りを重い沈黙が支配していた。羚は斜め下を睨んだまま、目を合わせようとしない。

 これからどうするべきか、バーンアウト気味の頭で考えていた義凪を他所に、羚が背を向けて再び斜面を登り始めた。


「訓練、やるんじゃないの」


 羚が振り向いてぼそっと言う。義凪は目を瞬かせてから慌てて追いかけた。


「お、おうっ」

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