28 初陣(二)

 やしろおもてでは、かなめの治療が続いている。

 義凪よしなぎはうつ伏せの状態から、辛うじて体を捻り天を仰いだ。


 要が死ななくてよかった。本当によかった。


 義凪は鈍色の天井をぼうっと見ながら、全身で息をしていた。極度の緊張から解放されたためか、体に力が入らない。

 目を閉じてしまいそうになったが、視界にれいの顔が入り踏み留まった。義凪を見下ろす小豆色の瞳には、怒りの色がありありと見て取れる。


「何やってんだよ、要が怪我してんのに。一歩間違えれば死んでんだよ、全然だめじゃん、何寝てんの」

「ごめん……」


 義凪はなんとか体を起こそうと、後ろに肘をついた。


「刀吹っ飛ばされてんじゃん、貴重な刀なのに折れたらどうするんだよ」

「羚」


 捲し立てる羚を止めたのはかいの声だった。いつの間にか社に戻ってきた檜とゆい、そして北斗の姿が視界に入る。


「すまない、逃した」


 檜が要に近づいて報告する。


「問題ない。後発は」

「来ないと思う。静かだ」


 檜は社を見渡し、床に転がった義凪の刀を拾った。刀身に傷がないか確認してから、胸より上だけを起こした状態の義凪を見下ろして言った。


「無事か」

「……」


 義凪は何も言えずに上半身を起こし、そのまま床の上に座り込む。


「それだけ戦えれば十分だ」


 耳を疑った義凪が顔を上げると、要がきょうの治癒術が終わったのか包帯を巻かれている。こちらを見ていないが、今のは要の声だったはずだ。


「ええ、助かったわ」


 要の体を支えているかえでも言った。相変わらず表情は硬いが、声色はどこか柔らかい。


「でも……」


 義凪は口籠った。羚の言う通り、要は大怪我を負った。少しでも斬られる位置がずれていたらどうなっていたか。それに、要が庇わなければ楓が斬られていたわけで、手放しでは喜べない。

 しゃがんだ檜が刀を差し出したので、義凪はそれを受け取った。


「すいません……」


 檜は何も言わずに大きな掌で義凪の頭をくしゃ、と撫でた。


 褒められたのだろうか。


 今更になって恐怖と安堵が波のように押し寄せてきて、義凪は涙が出ないよう俯いて口をきつく結んだ。そして少し落ち着いてから、大きく息を吐いた。

 しょうが義凪に駆け寄って、膝をつく。


「先輩、頬の傷に絆創膏貼りますね」

「え?」


 左の頬に触れるとピリッと痛みが走り、指に僅かに血がついた。いつの間に斬られたのだろう。


「大丈夫ですか?」梢が心配そうに訊く。

「あ、うん……」


 まだ少し、鼓動が早かった。







「やはり相当な手練れだったか。紅白の剣士……」


 檜が袋を破いたパンを齧りながら言った。

 社の表には、数時間前の戦いの跡はもうほとんど残っていない。


「義凪と楓だけで対処できたのは幸運だった。子供だと思って手を抜いたんだろう。あまり好戦的ではなかったしな……。だが次は今回のようにはいかない」


 険しい表情で言う要は、包帯の上から上着を羽織っている。


「あの男は利き手を使えなくしたから、しばらくは来ないと思う。キメラもかなり斬ったから、減ると思うけど」檜が言う。

「そうだな……」


 暫しの沈黙の後、檜が訊いた。


「あいつ、どうだった?」

「……悪いことをした」


 要には珍しく、罰の悪そうな顔をしていた。


「初陣であそこまで戦わせるつもりはなかった。死んでもおかしくなかった」

「逆に言えば、それだけ戦えたってことか」

「本人にその自覚があるかはわからないがな」


 頬杖をついた要は溜め息をつく。


「それに、次も戦えるかどうか……」





 義凪は住処すみかに戻り、広間の切りっぱなしの床から足を投げ出して座っていた。白と灰色が斑模様を描く空は、まるで義凪の心情を表しているようだった。


 昨日まで、いや、ほんの数時間前まで、人を斬ることを躊躇っていたはずだった。今でも怖い。それは変わらない。

 だけど、要が男に斬られたあの時――。


(俺は確かに、あの人を殺そうとした)


 あれほど感情が昂った経験はない。怒り、焦り、憎しみ、恐怖……そんな感情が絡み合って、膨らんで、手がつけられないほど暴れ回って。

 あの時感じた恐怖は、自分が殺される恐怖でも、自分が誰かを殺す恐怖でもなかった。


 仲間を失う恐怖。


 そして今は、自分が怖かった。自分が知らなかった自分。自分の中にも狂気がある、その事実が義凪の心をかき乱していた。



 どれくらいの時間、ぼうっとしていただろうか。すぐそばまで足音が近づいてきて、義凪はようやく我に返った。


「檜さん……」


 切れ長の目が、じっと義凪を見つめている。

 檜が何かを投げたので、義凪は慌てて受け取った。


「食べてないんだろ」

「……」


 義凪は受け取ったパンとパックの牛乳を見つめた。食欲はなかったが受け取った手前、袋を破る。

 檜は義凪の隣に座ったが、何も話さない。義凪は仕方なく、パンをもそもそと齧る。

 やがて檜の一言が沈黙を破った。


「降りるか?」


 驚いた義凪が隣を見遣ると、檜と目が合った。


「無理に戦わなくていい」


 檜の考えていることは要以上に読みにくい。しかし、短い付き合いながらも檜のことが少しずつわかってきた気がする。

 義凪は手に持ったパンを見つめてから、ここ数日の間、心の内に留めてきたことを思い切って口にした。


「俺が自発的に戦うように仕向けておいて、それはないんじゃないですか」


 義凪は正面を向いたまま、視線だけ横に動かして檜の表情を盗み見た。その瞳には驚愕の色が浮かんでいたが、やがて伏し目がちに顔を正面に向けた。


「言い出したのは要先輩ですか」


 檜が何も言わないということは、正鵠を射たのだろう。こんな頭を働かせるのは要しかいないし、少なくとも檜がそんな発案をするとは思えない。義凪に人質以上の利用価値がある──つまり《力》を持つことが判ったから、戦力として利用する可能性を模索したのだ。


 タチが悪いのは、義凪が自分から戦うように仕向けたことだ。

 自分一人だけ逃げる後ろめたさと幼い子供に守られる罪悪感を植え付け、剣という戦闘手段を提示する――。めいは恐らく何も知らずに義凪を助けたのだろうが、それさえも要の想定の範囲内だろう。


「言い出したのは要だが、話に乗ったのは俺だ。……すまない」


 檜の表情は思い掛けず心痛に歪んでいた。


「いえ、別に責めているつもりはないです。まんまと乗せられた俺も俺ですし、それに俺だって同じ立場だったら同じことをしていたかもしれないですし」


 それは本心だった。利用された立場としては要や檜を責めてもいいのかもしれないが、どうしてかその気になれない。


 しばし続いた気まずい沈黙を、義凪の渇いた口から出た言葉が破った。


「檜さんは、人を……殺したことがあるんですか」


 ずっと訊けずにいたことだった。


「……ある」

「怖くなかったんですか」

「別に、そういう訓練を受けていたから、そういうもんだと思ってた。ただ、京は泣いた」


 檜は自分の右手を見つめながら話を続けた。


「巫女には専属の護衛がつく決まりがあって、俺は京の護衛となるよう育てられた。だから俺は三年前のあの日も、あいつを守るために敵を殺した。ただそれだけだった。でもあいつは泣いてた。怖くて泣いてるのかと思ったらそうじゃなくて、『ごめん』って」


 檜は顔を上げ、鈍色の空を見る。


「なんであいつがそんなこと言ったのかよくわかんなかったけど、でもそれが普通なのかもな……。あの後、山下りて高校行き始めてわかった。殺し合いなんて普通じゃない。少なくとも、今の日本じゃ」


 檜は義凪のほうへ顔を向けた。


「お前の感覚が普通だ。ずっと山奥に篭って殺し合いの訓練ばかりしてきた、俺らの方がおかしいんだ」


 どこか苦しげな檜の視線をどう受け取ればいいのかわからなくて、義凪の目は泳いだ。

 檜は目線を前に戻すと、再びぽつりぽつりと話し始める。


「まあ、俺はいいんだけど……。本当は、たちを戦わせたくない。でも戦力が足りないから、実践経験がほとんどないあいつらの力も借りなければ太刀打ちできない。俺一人では全員を守れない……。要の話を聞いたとき、お前が戦力になれば、その分唯たちの危険が減ると思った。だから……」


 そこまで言って檜は口を噤んだ。


「そんな顔しないでくださいよ」


 義凪はできる限りの笑顔を檜に向けた。きっと、檜から伝染した悲痛が相混ざった、なんとも言えない表情になっていただろう。


「俺、戦力になりそうですか?」


 檜は驚いたのか、少しだけ目を丸くした。


「もう十分なってる」

「そうですか?」

「それに、お前はもっと強くなれる」

「そ、うですか」


 檜の真剣な眼差しに、驚いた義凪は吃ってしまった。きっとお世辞ではない。


「……使えないって言った方がよかったか?」

「そりゃまあ、そう言われたら降りますけど、さっきの話聞いたら降りられないですよね」


 義凪は少しふてくされた顔をしてから、ふっと笑う。


「いや、そういうつもりで言ったわけじゃ」檜が慌てた。

「わかってます」


 義凪は檜のそういうところが好きだと思った。要とは真逆のタイプで、嘘も駆け引きも苦手だろう。ただどちらも、常に自分のことより仲間のことを、どうすれば守り抜けるのかを考えている。自分の手が汚れることなど厭わずに。


(俺は自分のことばっかだなぁ)


 義凪は手に持ったままのパンを口の中に押し込むと、牛乳を一気に飲み干した。隣で檜が、それを唖然として見つめている。

 迷いが全くなくなったわけじゃない。でも、覚悟は決まった。

 この恐怖と、付き合っていく覚悟を。


「訓練、いつからやりますか? 俺、今からでもいいですよ」


 そう言って義凪がニッと笑う。檜もフッと表情を緩めた。


「悪いけど、今日はなし」

「あ、そうですか……」義凪は顔が熱くなった。

「後で作戦会議、要から話があると思う」

「ハイ……」


 義凪がしょぼくれた返事をすると、檜は握り拳を差し出した。


「改めてよろしく」

「はい!」


 義凪は自分の拳をコツンとぶつけた。

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