26 矛盾する力

 翌日の午後、義凪よしなぎやしろに向かうとおもてには誰もおらず、中に入ると広い祭室の隅でかなめが机に向かっていた。その足元にはすいが床に伏せて目を瞑っている。

 昨日のかいの話を聞いた後では、要のポーカーフェイスも違って見えるような気がした。


「あの、きょうさんは?」

「湯屋。薬湯の部屋」


 その言葉を聞いて義凪はどきっとしたが、平静を装って指示された方に向かった。今回はちゃんとノックをしよう、絶対にしよう、と心に決めて。

 湯屋と呼ばれた部屋の扉を思いっきり叩くと、群青色の袴の巫女・京が顔を出した。


「いらっしゃい」


 部屋は前回来た時ほどの湿気はなかったが、それでも暖かい。薄荷のような匂いがする。


「よっ」


 声の方を向くと、タンクトップ姿のゆいが椅子の背もたれを前にして座っていた。


「唯! 怪我、大丈夫なのか!?」


 先日の戦闘以来、姿を見ていなかった。思わず駆け寄った義凪に、唯は普段と変わらずけらけらと笑った。


「だいじょぶ! お見舞い来てくれたんだって? ごめんねぇ、怪我の場所が場所だったから男子禁制だったんだぁ」

「あ、そゆこと……」


 唯が傷を負ったのは背中だった。


「……刀の練習してるんだって?」


 唯がどこか言いにくそうに切り出した。


「うん、まだ全然使いこなせてないけど」

「それでここに来たのよね。用意できてるわよ」


 京が後ろから声を掛けた。


「何の用意なんですか? 檜さんから、京さんのところに行くよう言われたんですけど」

「ああ、説明されてないのね。相変わらず言葉が足りないんだから……。薬湯よ、薬湯」


 困った顔でクスッと笑った京は、部屋の左隅の衝立を指差した。


「それじゃ、あそこで服全部脱いで」

「えっ」


 その言葉の意味と今後の展開を理解するのに三秒程かかった。

 別に混浴で風呂に入るわけではないし、自分は男なのだから恥ずかしがることはないのかもしれない。しかし中学二年生というのは複雑なお年頃で――などという主張はもちろん口にはできない。


「タオル巻いてちゃんと隠すんだぞー」唯がにやりと笑う。

「当たり前だろ!」

「ほら、早く」


 京に急かされ、仕方がないので言われた通りに衝立の向こうに隠れる。小学生の頃は何も気にせず男女一緒にプールに入ってたんだよなぁ、などと逃避的思考を巡らせながら服を脱ぎ、支度を整える。ひとつ深呼吸をし、腹をくくって衝立の表へ出た。

 義凪の複雑な心境を他所に、京は真顔で義凪の体をまじまじと観察した。


「結構筋肉ついてるのねぇ。剣道部なんですって?」

「まあ……」


 若い女性にこうも自分の体を見られると流石に恥ずかしい。義凪は視線を泳がせつつ、顔が赤くなっていないことを願う。唯がどんな顔をしているか想像に難くない。


「それじゃ、この湯に浸かって」


 部屋の床の真ん中に作られた二段の正方形の窪みに、黄緑色の透き通った湯が張られている。恐る恐る足を入れると、冷たいとまではいかないが結構ぬるい。


「浅いから、横になって肩まで浸かってね」


 京に言われた通り、仰向けになって体を滑り込ませる。


「ぬるいと思うけど、我慢してね」

「いえ、気持ちいいです……」


 義凪は本当のことを言った。ぬるめも案外悪くない。


「これが薬湯なんですね」

「いくつか種類があるの。今義凪くんが浸かっているのは疲労回復用よ。まじないはほんの少しだけ」

「まじない?」

「術だと思ってくれればいいわ。薬湯は治癒術を応用したものなの」

「へぇ……便利なんですね」

「あたしの怪我にも使ったんだよ。傷口の治癒を早めるんだよね」唯が言った。

かえでも、ここで怪我の治療をしていたんですか?」


 義凪が何気なく発した質問に、京と唯は言葉を噤んで顔を見合わせた。そして沈黙の後、


「ああ……それ」と唯。


 義凪は薬湯から飛沫を上げて勢いよく起き上がり、キッと唯を睨む。


「事故だからな!? わざとじゃないからな!?」

「言い訳はよくないと思いまーす」

「だから違うんだって! 誤解だから!」

「義凪くん、ちゃんと浸かって」


 京に叱られて、義凪はすごすごと薬湯に戻った。


「楓はうまく説明できないのよね。薬湯も効いているのかどうか……」


 口籠る京に、義凪は湯船に使ったまま視線だけを向けた。


「怪我じゃないんですか」

「ええ。魂が剥がされた影響なのか、体の機能が全体的に落ちているみたいなの。病気じゃないから自然治癒力を高める薬湯を使ったんだけど、そもそも楓は治癒術自体が効きにくいから」

「効きやすい人と効きにくい人がいるんですか?」

「そうよ。義凪くん、どう? 体の調子、良くなってきたんじゃないかしら」


 義凪は体を起こして、手を動かしてみた。


「えっ、うわ、すっごい楽になった……」


 腕や肩の張りが消え、明らかに体が軽くなっていた。手の豆の痛みすら落ち着いている。


「やっぱり効果覿面ね。紅辻べにつじの家系じゃないから」


 義凪のちんぷんかんぷんと言わんばかりの顔を見て、唯が補足した。


「紅辻の家系は姫巫女ひめみこの家系の治癒術が効きにくいんだよ、力が強い人ほどね。あたしはまだマシな方かな」

「どういうこと? 二つの家系の話は一緒に戦ってたんだよな?」

「宝玉を守っているというのはね、具体的には宝玉を姫巫女の結界術で封じているの。つまり《姫巫女の力》と《宝玉の力》は相反するものなのよ。治癒術が効きにくいのはそのせいだと言われているわ」


 京の補足を受けて、義凪はますます首を捻る。


「それじゃ、紅辻の人は姫巫女がいない方が宝玉の力をもっと使えるんじゃないですか」

「そう聞こえるでしょうね。不思議な関係でしょう? でも遥か昔から二つの家系はこうやって共生関係を築いてきたの」

「宝玉の持つ力が強すぎるんだ」


 別の声に驚いて義凪が振り向くと、いつの間にか要が部屋の入り口にもたれかかって腕を組んでいた。


「元々この地に暮らしていたのは紅辻の人間だった。宝玉の恩恵を受けてきたからこそ、その恐ろしさも知っていた。この地に姫巫女の一族が現れた時、彼らは契約を結んだ。姫巫女が持つ風神の力で宝玉を封じてもらう代わりに、自分たちが姫巫女を守るという約束を……。これが一族に伝わる昔話だ」


 義凪はハッとした。


「風神信仰って……」

「そう、淡雪町に伝わる風神信仰の起源はこれだ。紅辻の人間は封じた宝玉から溢れる力を用いて、姫巫女と宝玉を守るのが務め。封じられていても十分な恩恵を受けられるほど、宝玉が秘める力は強い。だからこそ狙われる」

「そんなに強い力が……」


 数日前、宝玉が封じられた扉の前で倒れた記憶が蘇る。宝玉とは一体何なのだろう。そして研究所は、そんな恐ろしいものを何に使おうとしているのだろう。


「ところでお前、いつまで浸かってるんだ」

「え?」


 要が冷たい目で義凪を見下ろす。


「義凪くん、もういいわよ。そろそろ上がらないと効き過ぎちゃう」

「いいなぁ、効きが良くて」唯が羨ましそうに言う。


 義凪は慌てて薬湯から上がり、衝立に向かった。身支度を整えて出てきたときには、要はもういなかった。


「先輩、何しに来たんだろう?」


 義凪が髪を拭きながら呟くと、京がクスッと笑った。


「なんだかんだ言って心配なのよねぇ」





 濡れた髪のまま社から出ると、外は雨が降っていた。今日は気温が高く、温かい雨がどこかノスタルジックだ。

 住処すみかの広間で刀を振るう。とにかく沢山練習して体に覚え込ませなければならない。


 滲む汗を拭ったとき、義凪は心臓が止まるかと思うほど驚いた。

 広間の隅に、楓が立っていたからだ。


「な、何か用?」


 つい喧嘩腰になってしまう。

 一族の他の面々は性格がなんとなくわかってきたが、楓だけは謎に包まれている。数少ない会話はどれも印象が悪く、美人だが表情はいつも険しくて、正直怖い。

 本当に、彩加に似ていないと思う。


 それにしても、いつからそこにいたのだろう。そう考えて、義凪はハッとした。


(もしかして、あの事故を咎めに……!?)


 風呂を覗いたつもりは全くない。どうにかわかってもらわないと変態扱いされ続けてしまう。義凪が冷や汗をかきながら考えていると、楓が口を開いた。


「あなた、檜たちのように肉体を強化するタイプじゃないわね」

「え、そうなのか?」


 自分のことなのに聞き返すのが情けない。


「それじゃ俺、刀で戦うのは無理ってこと? いや、でも俺も早く走ったり出来てるけど……」


 確かに以前、障壁も展開できて肉体強化も出来るのは不思議だと言われた。唯はハイブリッドではないかと言っていたが、本来は京や楓のように術を使うタイプなのだろうか。


(折角、刀に慣れてきたところなのに……)


「刀を振り下ろすときに瞬発的に力を使ってみて」


 しゅんと肩を落としていた義凪が顔を上げる。


「瞬発的?」

「そう、ピンポイントで使うの。あなた、跳躍するとき地面を蹴るその瞬間だけ力を込めているでしょう。檜たちのように恒常的に肉体を強化することはできないみたいだけれど、瞬間的に自己の能力を高めることはできるんじゃないかしら」

「確かに……」


 思い返してみると、全速力で走り続けている感じではなく、瞬発的な跳躍を繰り返している感じだ。


「刀も同じ。斬る瞬間、受ける瞬間、必要な瞬間だけ力を込める」

「そっか……うん」


 義凪は釈然とした思いがした。なんとなくではあるが、やれそうだという希望が湧いてくる。


「やってみるよ、ありがとな!」


 その言葉に驚いたのか、楓は僅かに目を見開き、それからそっと微笑んだ。


(笑った……)


 義凪も驚いた。しかしそれと同時に、楓の横に彩加の笑顔が見えた気がして、心臓を掴まれたように胸が苦しくなった。


「……何?」


 突然固まった義凪を、楓が怪訝そうな目で見る。


 彩加は楓に殺されたわけじゃない。

 頭では理解したつもりになっている。

 だけど。


「……なんで佐伯は死んだんだ」


 訊きたいことがうまく言葉にできず、義凪はそれだけ搾り出すように口にした。


「……要が説明したでしょう。あの子はもうもたなかった。仕方がなかったのよ」


 仕方がなかった?

 そんな言葉で片付けられない。片付けたくない。

 どうすれば助けられたのだろうと今でも考えてしまう。


「だけど、私があの子を利用したことに違いはないわ」


 義凪は頭に血が昇るのを自覚した。

 しかし、それはすぐに引いた。

 そう言った楓の面持ちが、あまりに悲痛で、泣きそうで。誰かを利用した人間のする顔ではなくて――。


 義凪はハッとした。


 刻徒ときと川で彩加は死んだ。

 自分があそこに連れて行かなければ――。


 ずっとそれが心の隅にあった。だけど、考えたくなかった。

 考えるのが怖くて、誰かの所為にしたかった。

 そんなふうに思っていることさえ、認めたくなかった。


 義凪は左手を胸に当て、汗ばんだシャツをギュッと掴んだ。楓の目を直視できぬまま、蓋をしていた思いを吐き出す。


「……俺が刻徒川に連れて行かなかったら、佐伯はまだ生きていたのか?」


「あなたのせいじゃない!!」


 突然大きな声を上げた楓の必死な様子に、義凪は目を瞬いた。


「どうして、そうなるのよ……」


 楓はこめかみを押さえ、やるせなさそうに頭を振る。居た堪れないその様子に、義凪は自分の発言を後悔した。


「あなたはあの子の願いを叶えたの。お礼が聞こえたでしょう? だからそんなふうに思わないで。あなたが刻徒川に連れて行かなかくても、あの子は死んでいたわ」


 楓はそう言って踵を返すと、社の方へと足早に去って行った。残された義凪はその場に呆然と立ち尽くした。

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