25 始動

 次の日、鈍色の空の下で刀の訓練が始まった。


「よろしくお願いします!!」


 義凪よしなぎかいに向かって勢いよく頭を下げた。


「……ああ」


 檜の至極あっさりした返事が返ってくる。

 義凪はゆっくりと、そして初めて、刀を鞘から完全に抜いた。切っ先まで研ぎ澄まされた刀身が姿を現す。


「今まで習った剣道は忘れること」

「……はい」


 義凪は返事をしたが、内心は複雑だ。長年続けてきた剣道をなかったことにしたら、己のアドバンテージなど皆無ではないか。


「……義凪」

「はい!」

「肩に力入りすぎ」

「はい!」

「……」


 檜は小さく溜め息をついて、少し思案した。そして徐に義凪の背後を指差した。


「あ、向こうに全裸のかえでが」

「ぅえ!!??」


 意味不明な奇声を上げた義凪は、檜が指差した方向を一瞬見ようとして、慌てて反対を向いた。


「嘘」


 檜がさらっと言ってのけると、義凪は膝から砕け落ち、両手を地面についた。よく考えれば、いや考えなくとも、こんなところに全裸で人が立っているはずがない。あっさり引っ掛かった自分が情けない。

 義凪が顔を上げると、檜が僅かに笑った。


「慎重になるのはいいけど、ガチガチじゃ何も斬れない」

「はい……」

「前に刀を渡した時、なんの躊躇いもなく鞘から抜いてたら、お前に刀を教えようとは思わなかった」


 膝に手をついて立ち上がった義凪は、その言葉の意味を図りかねて檜の目を見た。


「その恐怖は悪い恐怖じゃない」


 その眼差しは優しい。

 檜は気づいていたのだ、義凪が昨日戦うと宣言してから、ずっと気が張っていたことを。本当は不安で、怖くて堪らないことを。

 義凪は涙が出ないよう、深く息を吸って吐いた。


「それくらいリラックスした方がいい」

「はい……。ところで檜さん、あの、なんで知ってるんですか」

「楓の風呂覗いたこと?」


 檜は無表情のままさらりと述べる。


「覗いてません! あれは事故です!」


 義凪は顔を真っ赤にして否定した。


「みんな知ってるけど」

「みんな!?」


 思い返してみればあの事故の後、妙にしょうがよそよそしかったような、れいの視線が蔑みを通り越して汚物でも見るような冷たさだったような、そんな気がしなくもない。


「もしかしてみんなわざとだと思ってるんですか!?」

「さあ」

「さあって……」


 義凪ががっくりと項垂れると、檜はふっと小さく笑った。


「じゃ、始めようか」




 まず教わったのは刀の特性だった。刀の最大の弱点は折れやすさだと檜は繰り返し言った。


「刃筋と打ち込む方向が一致すること、とにかくそれを意識して」


 この基礎とも言えることが、口にするのは容易くとも、いざやろうとすると難しい。意識して刀を真っ直ぐに振り下ろしてもすぐ指摘される。刀を横に振った時は、


「酷いな」


 の一言だった。

 重さも相まって、思うように刀を振れない。


「だあっ!!!」


 正午になって終わりと言われた瞬間、地面に尻餅をつくように座り込んだ。掌から肩甲骨まで、腕全体が震えている。


「握り方も振り方も、体に覚え込ませるしかない。近道はない」


 檜はさも当然のように言った。義凪も反論するつもりはない。剣道道場でも同じことを散々言われてきたからだ。しかし、これではいつになったら戦力となれるのだろうか。次の襲撃は明日かもしれないし、今日、もしかしたら数分後かもしれない。敵は待ってはくれないのだ。


(時間がないのに……)


 義凪は焦っていた。


「あの、もしかして俺もゆいや羚みたいに拳や蹴りで戦った方がいいんでしょうか。道具を使うってなると、やっぱり一朝一夕にはいかないですよね」

「体術だってそれなりの修練は必要だ。それに敵の懐に飛び込まなければならない分、身軽さと瞬発力が必要になる。あの二人だからやれる戦い方だ」

「そうですか……」

「それに、殺傷能力は刀に劣る」

「…………」


 義凪は返答に困り、思わず黙った。檜は構わず話を続ける。


「どれくらいやってんの、剣道」

「えっと、小一の途中からだから、七年くらいですかね」

「さっき剣道は忘れろって言ったけど、それだけ竹刀振ってきたことは間違いなく力になってる。相当練習してきただろ」

「まあ、そのつもりですけど……」

「見ればわかるよ、自信持ちな」


 そう言われて、義凪は少しホッとした。素直に嬉しかった。





 明くる日も、ひたすら剣の訓練が続いた。障壁や跳躍の時はかなり雑なやり方だった檜も、真剣の訓練は流石に慎重だった。

 練習は嫌いではない。だが、檜の訓練には人体のどこを狙うかといった実戦的な内容も含まれており、この刀が人を斬るためのモノだという実感がじわりじわりと濃くなっていく。


(浅はかだったかな……)


 本当は、人を斬る覚悟なんて出来ていなかった。獰猛な猛獣なら割り切れる気がする。でも、人間の姿をしていたらどうだろう。


 夕方、訓練をしているところにかなめが現れた。


「続けて」


 動きを止めた檜と義凪にそれだけ言って、腕を組んで岩壁に背をもたれた。

 要が訓練の様子を見に来るのは珍しく、刺すような鋭い視線に義凪は少なからず緊張した。昇段試験を受けているような気分になる。

 それはあながち間違いではない。要が刀を下ろせといえば、それまでなのだ。


 しばらくして、檜が休憩と指示を出した。


「正当防衛だ」


 要は突然、そう切り出した。


「別に研究所に攻め込んで相手を壊滅させようなんて思っていないし、そんなことはこの戦力じゃ到底無理な話だ。俺たちはあくまで、この森に乗り込んでくる気狂いの集団と正当防衛で戦っているだけだ」


 澱みなく話す要の表情も声も、普段よりさらに冷たい。まるでドライアイスのようだ。


「だから、殺されるくらいなら殺せ。自分の手が汚れることを躊躇うな。そう割り切れないなら戦わなくていい。足手まといは要らない」


 義凪は返事もできず、苦虫を噛み潰したような顔で俯いた。


(やっぱり、俺の思ってることなんて全部お見通しか)


 言いたいことを言い終わったのか、要はくるりと背を向けた。しかし僅かに振り返って義凪の方を見遣る。


「あと、戦うなら俺の命令通りに動いてもらう。それができないなら刀は置け」


 そう言い捨ててさっさと帰っていった。

 静まりかえった訓練場で、義凪は俯いたまま立ち尽くすことしかできなかった。


 やがて沈黙を破るように、檜が小さく唸った。


「どう思った?」


 尋ねられた義凪は渋い顔のままだ。


「……どうやったら、そんな風に割り切れるのか知りたいです」

「それは理屈じゃないからな。お前は三年前の惨状を見ていない」


 否定の余地もなくて、義凪は何も言えなかった。

 戦うなんて言うんじゃなかった。そんな後悔がじわじわと湧いてくる。

 もちろん、軽はずみな気持ちで言ったわけじゃない。血塗れの唯を見たとき、めいが傷を負ったとき、自分が逃げるだけでは嫌だと、はっきり思ったのは確かだ。


「あいつの言い方は解りにくいからな」


 檜がぽつりと溢すように呟く。その意図を計りかねた義凪が顔を上げると、檜は少し困ったような顔をしていた。


「殺されるくらいなら殺せ……いつもそういう言い方しかしない。仲間や自分の命を最優先にしろってだけで、殺すことが目的じゃないってこと。本当はあいつは、殺せなんて指示は出したくないんだ」

「え……なんでですか?」

「手を汚すのが自分じゃないから」


 義凪は目を瞬く。


「それって、どういう……」

「あいつは宝玉の恩恵を全く使えない。戦えないことをずっと気にしてる。仲間に人を殺せと指示しても、自分の手は一切汚れない。それが許せないんだよ、あいつは」


 檜は視線を義凪に向けた。


「だから、あいつは全ての責任を一人で負うつもりだ。だから“命令”なんて言い方をする。この戦いが終わった時、全部自分がやらせたことだと言い張るために」

「そんな……一人で……?」

「まあ、俺はそんなつもりはないけど」檜は付け足した。


 要の冷徹で事も無げな表情の裏に、そんな感情が隠れているとは思いもしなかった。

 要はこの一族における参謀的な役割を担っている。自分の指示が仲間の命を左右しかねないのだから、責任は重大だ。それに加えて、仲間の罪も、苦痛も、全て背負おうとしている。それがどれほどの重圧なのか、義凪には想像がつかなかった。


「意外?」


 檜が尋ねると、義凪は正直に頷いた。


「正直、後ろで偉そうにしてるだけかと思ってました」

「そんな奴じゃない」


 フッと笑った檜からは、要に対する信頼が見て取れた。

 義凪は言わんとする感情に一番近い言葉を探した。


「優しい……んですね、要先輩は」

「そうだな、あいつは俺たちが心のある人間だってことをわかっている」


 ――そうだった。



 *



「まだ作業してたのか」


 一年前、体育祭の準備をしていた時のこと。放課後の教室に入ってきた要に声を掛けられた。


「いやぁ、なかなか決められなくて」


 義凪は顔を顰めて腕を組んだ。クラス委員だった義凪は、体育祭におけるクラスの実質的なリーダーだった。そう言うと格好よく聞こえるが、実際はリレーの順番を決めたり上級生からの連絡事項をまとめたり、地味な作業が多い。

 二年のクラス委員だった要も同様だった。


「真面目だな。そんなの適当に決めればいいだろ」

「そうはいかないですよ。リレーは配点が高いんですから」


 要はとにかく決めるのが早かった。迷いがなく、無駄もない。適当でいいと言いながら、雑な仕事は一つもない。


(すごいなぁ……)


 隣でプリントを数える要を横目で見ながら、義凪は心の中で呟いた。


「これ、一年の分もコピーしておいたから」


 要が差し出したプリントの束を、義凪は慌てて受け取った。


「すいません、ありがとうございます」

「いいから、さっさと部活行けよ」


 目をぱちくりとさせる義凪を見て、要はほんの少しだけ表情を緩めた。


「県大会近いんだろ」



 *



 要は憧れの先輩だった。

 ただ聡明なだけだったらそうはならなかっただろう。そっけない態度や言葉から滲み出ていた彼らしさに、気がついていたのに。


「だからこそ、あいつに全ての判断を委ねられるし、指示には全力で応える。俺たちはあいつがいるから戦えてるんだ。だから、お前も要のことを信じてほしい」


 檜の切れ長の目が真っ直ぐに義凪を見ている。義凪はそれを受け止めてから、小さく頷いた。


「刀はあくまで命を守るための手段だ。俺たちの目的は生き残ること。この戦いは永遠に続くわけじゃない。向こうの体力が尽きれば終わる。それまで耐える」

「はい」


 向こうの体力とは、食料や資材、そして戦力のことだろう。猛獣も人間も無限に湧いては来ない。だがこちらにも体力の限界はある。ただ防ぎ返すだけでは、いつか自分たちの首を締めるだろう。


(甘いよなぁ……)


 ただでさえ劣勢なのに、なんて甘いのだろう。

 だが義凪はその甘さが嫌いではなかった。冷酷無情な軍隊よりもずっといいと思った。

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