34 覚悟
「剣を教えて欲しい?」
訊き返した
檜の睨むような双眸から目を逸らしたい衝動に駆られながらも、義凪は歯を食いしばって睨み返す。
「あとで
檜はそれだけ言うと掃除を再開した。
義凪が
「手伝います」
「いい、もうブラシないから」
「代わります。着替えてください」
檜は臙脂色のケープは既に脱いでいたが、その下の服にも血がこびり付いて黒ずんでいた。
「じゃあ、頼んだ」
檜はブラシを義凪に手渡すと
羚はバケツの水を床に流し終えると、義凪から無言でブラシを奪い取り社の中に入ってしまった。
一人になった義凪は斜面に迫り出した床の先端に立った。下を覗いたが、機械の残骸は生い茂った緑に隠れて見えない。焦げた臭いがまだ少しだけ漂っている。
目を閉じると襲撃の光景が蘇る。ほんの数時間前の出来事なのが信じられなかった。
「義凪」
要の声がして振り返ると、いつの間にか着替えを終えた檜も一緒にいた。
「檜に言ったことの真意を確かめておきたい」
眼鏡の奥でもわかる射抜くような瞳に、義凪はごくりと唾を飲み込んだ。
「俺も戦います」
「なぜ?」
「なぜって……」
義凪は言葉に詰まる。
「お前は風守の一族じゃない。この諍いに巻き込んでいるのは承知しているが、お前が戦う理由は何もない。今朝だって逃げればよかったんだ。それくらいの隙はあったはずだ」
俯いた義凪に、要は構うことなく続ける。
「俺たちがさっさと負ければ、お前は人質から解放される。その方が都合がいいんじゃないか? その後のことは何一つ保証できないけどな」
(負ける……)
その言葉が意味するもの。想像したくない。
「それとも正義のヒーローにでもなるつもりか? ああ見えて、奴らは奴らなりの正義を掲げて宝玉を手に入れようとしている。それでも……」
「そんなのどうだっていい!」
義凪は俯いたまま、遮るように声を張り上げた。
「正義だとか宝玉だとか、そんなのどうでもいい。俺はただ、ここの人たちが死ぬのを見たくない」
義凪は拳を握り締め、勢いよく顔を上げた。
「嫌なんだ!
思い返せば、風守の一族の第一印象は最悪だった。
だけど。
一緒に彩加を悼んでくれた
力や術について手解きしてくれた
まだ幼いのに勇敢な茗も。
兄弟には年相応の姿を見せる羚も。
この状況でも明るさを失わない唯も。
身を守れるよう訓練してくれた檜も。
冷徹ながら、時折優しさが垣間見える要も。
一族と支え合って生きている狼たちも。
楓も……
――楓の力になってあげてほしいの。
そう言った彩加の声を、はっきりと覚えている。
今は思う、あれはただの夢じゃない。伝えに来たんだ。
誰も、死んでほしくない。
自分一人生き残ったって、嬉しくないんだ。
この一族と過ごした期間は半月にも満たない。命を賭けるにはあまりに短い。
きっとみんなのことは、まだ何も知らないに等しいのだろう。それでも、知っていることはある。そして、もっと知りたいと思う。
「安直だな、同情でもしたか」
要は呆れた声で言った。
「なんとでも言ってください」
義凪は俯いて、いつの間にか流れていた涙を拭う。
「遊びじゃない」
「わかってます」
「今朝、檜がキメラの首を跳ねたのは見ただろう。剣を持つということはそういうことだ。お前にできるか?」
義凪は黙った。
「殺されるくらいなら殺せ、たとえ相手が人間であっても。お前にはその覚悟があるか?」
要の言葉が義凪に重くのし掛かる。軽はずみにイエスなんて言ったら、それこそ何もわかっていない気がした。蚊を叩いて殺すのとはわけが違う。
それでも。
「ひとりで逃げるよりマシだ……」
義凪はそれだけ絞るように言った。涙が止まらなかった。
*
「怪我は大丈夫なのか?」
義凪の問いに、茗は足をぶらぶらさせながら頷いてパンを齧った。
住処の広間の床も、社と同様に山肌から突き出している。最初の頃は怖がって端には近づかなかった義凪も、今は膝から下を投げ出し、茗と並んで座っていた。
茗の怪我は銃弾が腕を掠めた程度で大したことはないらしいが、出血量を見た義凪は心配せずにいられなかった。実際、小動物のように動き回るいつもの元気はなく、目が腫れている。
「唯は?」
「大丈夫って言ってた」
「そっか」
唯は社の中で手当てを受けている。義凪は様子を見に行きたかったが、京に止められた。
義凪は手を後ろについて空を見上げた。澄んだ青の中に白い雲が呑気に浮かんでいる。気がつけば中学校の体育祭の開催予定日を過ぎていた。スポーツは平和の祭典、という言葉の意味が今ならわかる。
ふと、茗がこちらを見ていることに気がついた。
「よしなぎ、目腫れてる」
「ん? ああ、お揃いだな」義凪は笑った。
「どうして? 泣いたの?」
義凪は質問には答えずに、茗の頭をぽんぽんと撫でた。
「今度は俺が茗を守んなきゃな」
*
時を同じくして、社の表にて。
「戦わせるの?」
森を見下ろしていた要に、楓が横に並んで声を掛けた。
「まだわからない。戦力にならないと檜が判断したら刀は下ろしてもらう」
「戦力になるだけの潜在能力はあるわ」
「あいつの気持ち次第だ」
「非道いのね、そうなるように仕向けたのに」
要は何も言わない。
楓の漆黒の髪が風に揺れた。
「要、兄様に似てきたわね」
「それは褒めてるのか?」
「もちろん」
楓の耳元で、雫型の赤い宝石が煌めいた。
◇◇◇
義凪はその日の夕方、羚と一緒に麓までついてくるよう要に指示された。少し離れた位置で、羚が憮然とした面持ちで立っている。
出発前に檜に渡されたのは、本物の刀だった。ベルトも一緒に受け取り、装備の仕方を教えてもらった。
「それを腰に提げて走れなきゃ話にならない」
「わかりました」
日が暮れる前に住処を発った。
麓まで下りるのは初めてだ。つまり、全てが始まったあの日以来、初めてこの森から出ることになる。
少し前までは逃げ出したかった森だ。一度山を降りたら二度と戻って来ないだろうと思っていた。それが今は、ここに戻ってくる前提で山を下ろうとしている。
ゴミ袋を持った羚が先頭で安全を確認する。その後ろを要を乗せた北斗が地面を走り、義凪はそれを見失わないように木々の上を移動する。
刀を提げた左足に負担が掛かっているのを感じる。同時に、鞘が樹木に当たらないよう気をつけなければならない。
慎重に、速く。跳ぶことに集中する。
どれくらい走っただろうか。淡雪総合病院の裏に着いた時には日が沈み、空はオレンジと濃紺のグラデーションになっていた。
集まった人たちの中に見覚えのある姿があった。
「義凪くん、本当に
エリカたちの手伝いに来ていた
「俺は大丈夫です。学校はどうなったんですか?」
「授業は再開したわ。体育祭は中止。永田くんと矢野くんが心配してたよ、あなたと連絡が取れないって」
義凪はズボンの後ろポケットに入れたままだったスマートフォンの存在を思い出した。取り出して電源を入れようとボタンに指を伸ばしたが、思いとどまった。
「エリカ先輩、うちの母がどうしてるか知りませんか」
「自宅にはいらっしゃらないそうよ。多分、研究所だと思う」
「そうですか……」
案の定、
「時雨先輩、スマホ預かってもらえませんか?」
「え? いいけど……」
「あと永田と矢野に、俺は大丈夫だって伝えてください」
「うん……わかったわ」
義凪の真剣な目を見て、時雨は画面の暗いスマートフォンを受け取った。
振り返ると義凪の様子を伺っていた羚と目が合った。羚は慌てて目を逸らす。
「これ持て」
義凪は要から大きなリュックを受け取った。ずしりと重かったが、顔に出ないように努める。背中に担ぐと、時雨が肩と腰のストラップを調整してくれた。
「気をつけてね……」
時雨が心配そうに言った。
エリカは羚が荷物を担ぐのを手伝った。義凪が担ぐものより重そうだった。
「唯ちゃんと茗ちゃんの怪我は大丈夫?」
エリカに訊かれて義凪は驚いた。
「なんで知っているんですか?」
「昼間に要くんが鳥を使って連絡してくれたの。荷物に包帯が入っているから渡してあげて」
時雨は要の様子をチラチラと何度も見遣ったが、要は目を合わせようとしなかった。
「要の怪我、大丈夫そう?」
義凪に小声で訊く時雨の足には、まだ包帯が巻かれている。
「なんともなさそうにしてましたけど」
「そう……。ならいいの」
十分ほどの滞在を終え、義凪たちは社を目指し森を駆ける。
行きではわからなかったが、今度は結界を通過する感覚が義凪にも感じ取れた。薄い膜が体にまとわりつくような感覚。透明なカーテンのように景色が揺らめく。
(これが結界なのか……)
背負った荷物の重みでさらに足に負担がかかり、スピードが落ちそうになる。
(戦うって決めたんだ)
暗くなった森の中で、義凪は歯を食いしばって枝を蹴った。
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