20 特訓三日目(一)

 訓練三日目もまずは復習からということで、前日と同じ枝に飛び乗ることから始めた。


「昨日はあんなに苦労してたのに、寝て起きただけでそんなにホイホイ出来るようになるもんかなぁ? 睡眠学習ってやつ?」


 ゆいが不思議そうに首を傾げる。

 机上の勉学じゃないのだからそれはないだろう。きっときょうが居たらツッコミを入れてくれただろうが、生憎今日は不在だ。


「もう森の中移動できるだろ」


 かいは昨日義凪よしなぎが散々乗り降りしていた枝にスッと飛び乗った。


「ついて来い」


 そう言って檜は奥の別の木に移った。

 置いて行かれそうになった義凪は慌てて枝に飛び乗る。檜は移った先の枝で待っていた。


「俺が足場にした枝を使うこと」


 つまり、檜と同じルートを通って追いかけて来いということだ。


「あの、踏み外して落ちたらどうなるんですか」


 早すぎる展開に慌てた義凪は、すぐに移動しようとしていた檜を止めるように言った。我ながら間抜けな質問だ。答えはわかっている、想像したくないだけだ。


「着地できるだろ。昨日散々やったんだから」


 檜が素っ気なく言う。


「ああ、なるほど……」


(ん? そんな都合よくいくか?)


 解ったような返事をしてから義凪は思い直す。頭から落ちたとして、咄嗟に体勢を立て直せるだろうか。


 考えているうちに檜が次の枝に移動してしまったので、義凪は慌てて次の枝に飛び移った。

 距離感は完璧だったが、着地でバランスを崩して前後に大きく揺れた。幹に手をついてなんとか落下を免れ、少し遅れて汗が噴き出す。


「いーじゃんいーじゃん、その調子」


 いつの間にか別の木の上にいた唯が声をかけた。めいも近くの枝の上でしゃがんでいる。


「次」


 檜は声をかけるとすぐに次の枝に飛び移ってしまった。相変わらず容赦がない。

 義凪は腹を括った。というより、半ば焼けくそだった。深呼吸をして、枝を蹴った。





「動きあった?」


 研究所を見下ろす木の上に座っていたれいの元に、唯が来て言った。


「いや、ないけど」

「前回から時間経ってるから、そろそろ来てもおかしくないのにね」

「で、何の用? 交代は午後じゃないの」


 羚はどこか不機嫌だった。


「檜兄が代われって。訓練場近くの森で特訓してるから、来いってさ」

「はぁ? なんで俺が――」


 眉を寄せた羚がそこまで言って、ハッと声を呑んだ。


「あいつ、もう森の中走ってんの」

「そ、早いでしょ。素質もあるんだろうけど、運動部だからかなぁ、根性あるよ」

「……部活なんか娯楽だろ」


 羚は苦虫を噛む潰したような顔で呟く。


「そもそも、なんで人質にそこまですんの? 障壁はいいとしても、走り回る必要ないだろ」

「人質って言っても、かなめとあいつのお母さんの口約束なだけだからねぇ。研究所が救出しようとする様子もないし」

「チッ……魔女の力がなくても俺らを潰すのなんて余裕ってことか。舐めやがって」

「とにかく檜兄の指示だから、文句あるなら檜兄に言ってよ」


 羚はフンと鼻を鳴らすと、風のように消えた。





「休憩」


 無我夢中で檜を追いかけていた義凪は、次の枝に飛び移るところを慌てて踏み止まった。


「……ここで?」

「ここで」


 檜は枝の上に座り、幹に背中を預けた。

 地面まで十メートルはある枝の上だった。檜を見失わないように必死だったので、自分が今どのあたりにいるのかわからない。訓練場からはだいぶ離れただろうか。


「ほら」


 檜が何かを投げたので、義凪はバランスを取りながら慌てて受け取った。


「ありがとうございます」


 義凪も慎重に枝の上に座った。太くて安定した枝だったのは檜の優しさだろうか。

 受け取ったのは小さなステンレスの水筒で、蓋にはカラビナがついている。中身は水で、あっという間に全部飲んでしまった。


「すいません、全部飲んじゃったんですけど」

「それ、腰に下げて持って帰って」


 義凪はズボンのベルト通しにカラビナを引っ掛けた。

 茗は近くの木の上で虫を観察しているようだ。


 唯の姿はいつの間にか見えなくなっていた。少し前に移動しながら檜と話していたのが見えたが、何か指示されたのだろうか。義凪に合わせたスピードなので二人にすればゆっくりなのだろうが、よく喋れるものだと感心した、というより若干引いた。

 しかし着実に自分もそれに近づいている。


(完全に猿の仲間入りをしてしまった……)


 夢中で訓練を受けているが、ふと我に返り、自分はどこへ向かっているんだろうと考えてしまう。

 思考を断ち切るように、義凪は檜に話しかけた。


「檜さんは、何歳くらいからこんな風に木の上を移動してたんですか?」

「さあ、覚えてない」


 檜はあまり笑わないが、表情の変化が乏しいだけで怒っているわけではないということに義凪は気づきつつあった。むしろ普段はどこかぼんやりして舌足らずな印象を受ける。


 それにしても、物心がついた頃からこんな風に森の中を飛び回っていたのだろうか。確かに茗も慣れた様子で木々を移動している。宝玉の恩恵とはいえ、甚だ恐ろしい兄弟である。


「檜さんは今何歳なんですか?」

「十……六?」

「十七だよぅ」横から茗が訂正した。

「そうだっけ」

「じゃあ茗は何歳でしょーか!」

「八」

「なんで茗のは覚えてるのに、自分のは忘れるの?」

「お前、間違えると怒るだろう」


 二人のやり取りが微笑ましくて、義凪はふっと笑った。義凪には兄弟がいないので、少し羨ましい。

 だが、檜の何気ない呟きで、義凪の顔から笑みが消えた。


「そっか、兄貴の歳越してたのか」


(そうだった……)


 稲葉家には他にも兄弟が二人いたが、三年前に亡くなっている。檜が兄と呼んだのは、きっと亡くなった兄弟の一人だろう。


「すいません」

「何が?」

「いや、その……」


 こういうことは下手に謝るべきじゃない、そう思い直しても今更だ。


「お前は関係ないだろ」


 恐る恐る顔を上げると、檜が義凪を見つめていた。怒っているのかと思ったが、ただ事実を言っただけという風だ。


「それに、過去のことはもういい」


 そう言って檜は顔の向きを正面に戻し、遠くを見た。


「今とこれからが全てだ」


 真っ直ぐ前を見る鋭い目は、きっと未来を見つめている。

 最初に山に連れてこられた時、ふざけた冗談だと思ったのを申し訳なく思った。ここで起こっていることは遊びでもゲームでもない。仲間の命を、未来を懸けた戦なのだ。


「そろそろやるか。あいつ来ないな……」


 檜は立ち上がった。義凪も慎重に立ち上がる。


「あ、れーいちゃーーーん」


 茗が木にぶら下がったまま叫んだ。

 たん、と音がすると、義凪の斜め上に羚が立っていた。不機嫌そうな顔で義凪を見下ろしている。


「何の用」


 羚はぶすっと膨れた顔のまま、檜に視線をずらして言った。


「競争」と檜。

「は?」

「大王杉まで行ってから訓練場に戻ってくる」


 檜が指差した先には、一本だけ頭の出た木があった。周りの木とはどことなく雰囲気が違うのが義凪でもわかる。


「茗、大王杉のとこにいるー」


 そう言うと茗はひょいと跳んで見えなくなった。


「なんでそんなことしなきゃなんないんだよ」

「負けた方が薪割り。十秒後にスタート」


 羚が噛み付くように抗議したが、檜は無視する。羚は舌打ちして義凪を睨んだ。


「こんな奴に負けるわけないだろ」


 義凪は少しムッとしたが、気持ちを抑える。

 実際、羚の言う通りだ。正直なところ勝てる気が全くしない。付け焼き刃の技術が及ぶとは思えなかった。


(それでも、少しでも追いつこう)


 義凪は気持ちを切り替えた。


「用意」


 檜が言う。義凪は徒競走のように、腰を低くした。


「どん」


 あっさりした合図と同時に羚が飛び出した。

 少し遅れて義凪も枝を蹴った。


 羚の背中はあっという間に小さくなった。義凪が足場を選びながら跳ぶのに対して、羚は目的地までほぼ最短距離を進んでいる。まるで空中を走っているかのようだ。


(速い……!)


 義凪は必死で食らいつくが、距離は広がっていく。腰に下げた水筒が意外と邪魔だ。揺れが気になるし、軽いのに体の重心が少しずれる。


 目的の杉のところに茗がいてくれて助かったと義凪は思った。足元に集中していると樹冠が見えない。茗がいる方向をなんとなく感じるので、向かうべき方向を見失わずに済んだ。


(あれ、なんで茗のいる方向がわかるんだ?)


 ふと疑問が湧いたが、頭から振り払って競争に集中する。

 茗が跨っている杉の太い幹を、水泳でターンするように思いっきり蹴った。少しでもスピードを上げ距離を稼ぐ。それでも羚との距離は縮まらず、姿はとっくに見えなくなっていた。


 突然、開けた場所に飛び出した。


「あれっ」


 滞空する義凪の眼下に、見上げる檜と羚の姿があった。


「うわあああっ!」


 訓練場の中心部に着地したが、勢い余って前に倒れた。

 呼吸が苦しい。疲労感が押し寄せて、義凪は仰向けのまま動けなかった。後から来た茗がしゃがんで、義凪の体をつんつんとつついている。


「どうだった?」


 離れた位置で、檜が横にいた羚に言った。


「……ふん」


 羚はそれしか言わなかったが、僅かに息が上がっていた。

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