18 要と時雨(二)

「先輩、ちちちち血が」

「うるさい、お前は騒ぎ過ぎだ」


 真っ青になる義凪よしなぎに、かなめは呆れた口調で言った。

 要と麓に向かったはずのゆいが血相を変えて戻ってきて、かいと一緒に飛び出していったと思ったら、今度は要が血をダラダラに流して帰って来た。これで慌てるなと言う方が無理な話だ。


 しかし当の本人はいつもの涼しい表情を保っている。青白い顔色と滲む汗が、痛みに相応しい反応を示していた。

 椅子に座った要の右肩にきょうが手をかざすと、傷が淡い光に包まれる。


「最低限の止血でいいから」

「もう、わかったわよ」


 やがて京が手をかざすのをやめ、濡らした手拭いで傷口の周りを拭き取った。傷口は残っているものの、血は止まっている。義凪は目を瞬いた。


(これが治癒術なのか……)


「血は止まったけど、失血してるから無理は禁物よ。それで、なんでこんなことになったの?」


 京が要の肩に包帯を巻きながら尋ねた。


「別に話すようなことじゃ――」

「それはね、要が愛する人を助けるために」

「俺が話す。ちゃんと説明するから、唯は黙ってろ」


 口を出した唯を遮って、要は溜め息をついた。そしてほんの一時間程前の出来事と時雨しぐれの母親のことを簡潔に説明した。


「時雨先輩のお母さんも研究所の人だったんだ……」


 義凪は思わず呟いた。

 自分のように研究所の関係者を肉親に持つ人の話は聞いたことがなかった。本当に一人もいなかったのか、時雨の母親のように隠していたのかはわからない。


「で、持ち帰ったのがそれ?」


 れいが円卓に置かれた紙を覗き込んだ。


「研究所の平面図だ。二年半以上前の情報だが、研究所の規模を知る手掛かりにはなるだろう。それと……」


 要はポケットから黄色いプラスチック製のカードを取り出し円卓に置いた。

 かえでがカードを手に取り両面を眺めた。裏には黒い磁気テープ、表には製薬会社のロゴらしきものと、アルファベットが並んでいる。楓がそれを読み上げた。


「マスターキー……?」

「えっ! もしかして研究所のドア全部開けられるってこと!?」


 唯が素っ頓狂な声を上げた。


「さあな。だが奴らが欲しがっていたのはこっちだろう。探していたということは、まだ機能する可能性はある。マスターキーというくらいだから簡単に無効化できないのかもしれない」

「でもこれ、俺らが使うことあんの?」羚が訊く。

「可能性はゼロじゃない。貰えるものは貰っておく。とりあえず俺には平面図の方が有り難い」


 要の説明はこれで終わりのようだった。沈黙を破るように、唯が彼女にしては遠慮がちに訊く。


「要、なんで時雨先輩のお母さんが本当のお母さんじゃないって知ってたの?」

「そんなことまで調べたの?」京が訊く。

「いや……」


 要はその先を言いたくなさそうだったが、集中する視線に観念したように口を開いた。


「……会ったことがあるんだよ、子供の頃」


 椎南しいなが要に向かってクゥンと小さく鳴いた。


「お前、やっぱり覚えてたか。俺が六歳の時、淡雪町とは反対側の麓に続く崖から、子供だった椎南が落ちたんだよ」





 強い日差しが照りつける夏の日だった。


 要はまだ子狼だった椎南と森の中で遊んでいた。椎南は産まれてから一年と経っておらず、子供の要が抱き抱えられるくらいの大きさだった。


 淡雪町と反対側の麓には近づいてはいけないときつく言われていた。

 かつては森が広がっていた麓の平地は開拓が進んで人が住むようになり、数十年前にはそちら側からの襲撃を防ぐため、紅辻べにつじの術で急な崖へと地形が変えられた。つまり外部の人間と地形、二つの意味で危険な場所なのである。


 その崖から、椎南が落ちてしまったのだ。


 体中に擦り傷を作りながら向かった崖の下で要が見たのは、怪我をして動けない椎南を見知らぬ女の子が抱き抱える光景だった。


 狼の存在は一族以外の人間に知られてはいけない。しかしあろうことか、女の子は椎南を抱えて走り去ってしまった。


 要が後を追うと、住宅街にはまだ程遠い山の麓に小さな家がぽつんと建っていた。家の前には男性の姿がある。


「お父さん、ワンちゃんが怪我してるの」

「おや、大変だね。手当てしてあげよう」


 二人が椎南を連れて家に入ってしまったので、要は家に近づいて窓からそっと中を覗いた。父親が手当てをする横で、女の子が暴れる椎南をなだめている。


「だいじょうぶだよ」


 女の子はそう繰り返しながら、椎南の背中を優しく撫でた。


「病院につれていかなくていいの?」


 尋ねる女の子の頭に白い手が触れる。


「この子は山の守り神だわ。山に返してあげましょう」


 そう言った女性は女の子と目元がそっくりだった。


「まもりがみ?」

「お母さんの言う通りにしよう」


 父親が言うと、不思議そうな顔をしていた女の子は笑顔で頷いた。

 その日の夕方に女の子は崖の下へ戻ったが、なかなか椎南を離そうとしなかった。


「怪我してるのに大丈夫かな。あなたの家族、迎えに来てくれないかなぁ」


 要は意を決して女の子の前に姿を現した。驚いた女の子は小さく悲鳴を上げた。


「その子、俺のなんだ」

「そうなの?」


 椎南がクウンと鳴いて女の子の頬を舐めた。女の子は何かを悟ったのか、要に椎南を手渡した。


「怪我してるよ」

「うん……」

「この子、名前なんて言うの?」

「椎南」

「しーな?」


 女の子は、要に抱かれた椎南の頭を撫でた。


「しーなちゃん、早く元気になってね。また会いに来てね」

「きみ、名前は?」


 要が尋ねると、栗色の短い髪の女の子は明るく笑った。


「ふじさわしぐれ! あなたは?」

「要……」

「かなめ?」


 その時、遠くから女の子の名前を呼ぶ声がした。


「お父さんだ」


 声の方を向いた女の子が振り返ったときには、要と椎南の姿はなかった。


「あれ……?」



 冬になる少し前、要はその家を見に行ったが、女の子の姿は見当たらなかった。

 家の中を覗いても父親の姿しか見えず、その父親も放心状態で様子がおかしかった。次の春には空き家になり、「藤澤」の表札も消えた。


 礼を言えないまま、二度と会うことはないのだろう。

 そう思っていた。

 それがまさか、山の反対側で再会するとは夢にも思わなかった。


 しかも彼女は六歳までの記憶がないうえに、母親は全くの別人かつ研究所の幹部だった。


 考えられたのは、研究所が時雨を親から引き離した可能性だった。

 研究所が特殊な力を持つ人間を集めて悪辣な研究をしていることは知っていた。椎南のことを“山の守り神”と言った本当の母親が特殊な力を持つ人間だったとしたら、そしてその娘である時雨が目をつけられたとしたら、辻褄が合う。

 結果的に、時雨には特殊な力がなかったのだろう。そうでなければ研究所の外で普通に暮らせるはずがない。


 推測の域は出なかった。本当は確かめたかったが、要には他にやるべきことが山程あった。

 研究所の動きを探り、いずれ始まる襲来に備えること。それは一族の残った子供たちの命に関わる最重要課題だった。


 いつか時間ができたら。余裕ができたら。

 そのいつかは来るのだろうか。

 この篭城戦が無謀に近いことを、要が一番よく知っていた。




 要は子供の頃の話を、事実だけを掻い摘んで話した。


「……とまあ、椎南を助けてくれたのが時雨だったんだよ」

「そんなことがあったなんて全然知らなかったわ」


 京はそう言って椎南の顎を慣れた手つきで撫でた。


「もういいだろ、話し疲れた」


 要はスッと立ち上がったがふらついた。その体を檜が支えた。


「休んだ方がいい」


 京が先導しつつ、要は檜に支えられながら社の中に入って行った。





「おはよ」


 目を開けた時雨の視界にエリカの顔が入った。


「ここは……」

「病院よ。覚えてない? 昨日の夜、足を怪我してそのまま入院したのよ。傷は大したことないから、すぐ退院できるって」

「そうだった……。迷惑かけてごめん」

「まったくよ、心配したんだから」


 エリカは微笑む。カーテンの隙間から日差しが漏れていた。


「要は?」

「あのまま山に戻って、それっきり」


 目を閉じると、街灯に照らされた要の血だらけの腕が瞼に浮かぶ。普通に考えればすぐに手当てしなければならない怪我だった。


 大丈夫かと訊けば、きっと『大丈夫』と答えただろう。

 いつだってそう。

 要の『大丈夫』は、本当に大丈夫だったのだろうか。


「ねぇ、雷の日のことって何か、聞いてもいい?」


 エリカが尋ねたのは、時雨が要に言った言葉のことだ。


「……私が雷が苦手なこと、エリカも知ってるよね」


 雷に極度の恐怖を感じる、その原因は覚えていない。

 母によれば、時雨は六歳の頃に事故に遭い、それ以前の記憶を失くしている。雷がトラウマになるような出来事があったのではないかと思ったが、母は心当たりはないと言った。

 母が山火事で亡くなり、時雨は独りになった。


「二年前、雷が落ちて町中停電したことがあったでしょ? あの時、私パニックになっちゃって。その時に要が一緒にいてくれたの」


 独りで稲光と轟音に耐えていたが、部屋中の明かりが消えた瞬間に限界を超えてしまった。

 誰かが叩いた玄関のドアを、無我夢中で開けた。

 そこには要が立っていた。

 時雨の悲鳴が隣の部屋まで聞こえたのだろう。驚いた顔を今も覚えている。


 その直後、要の背後で光った稲光に再び悲鳴を上げた。

 要はドアを閉め、雷鳴が聞こえないように時雨をそっと抱きしめた。『大丈夫』と繰り返して。


「それからね、雷をやり過ごせるようになったの」


 相変わらず雷は苦手だったが、もう泣くことはない。雷が鳴れば、優しい『大丈夫』の声を思い出す。辛くなったらまた頼ればいい。


 私は大丈夫になった。

 君は?


 鍵が開いたまま、返事のない部屋。ノートパソコンのバックライトだけが光っている。

 要は冷たい床の上で毛布に包まって眠っていた。食事の形跡はほとんどなく、殺風景な部屋で体を小さくして眠る姿は、普段の彼からは想像できない程弱々しかった。


 大丈夫かと訊いても、『大丈夫』としか答えなかった。


 作りすぎたと嘘をついて一緒にごはんを食べた。最近は言い訳するのも面倒になって、勝手に世話を焼いていた。


 知りたかった。

 冬の夜のような冷たい横顔で、彼が何を見ていたのか。

 しかし手を伸ばせば伸ばすほど、見えない壁があるような気がした。


 そしてようやくその壁の正体を知った。

 エリカが語った現実味の薄い話を受け入れられたのは、母親のことがあったからだけではない。それが要が見ている世界なのだと納得したからだ。


 同じ景色なんて最初から見られるはずがなかったのだ。


 時雨は深く息を吐いた。


「両親のこと、本当なのかな」

「わからないけど、要くんはいい加減なことを言う人じゃないわ。それに確かに時雨のお母さんが亡くなった時、戸籍や住民票がちょっとおかしいっておじいちゃん言ってたわ」

「どうして要が知ってるんだろう……」

「研究所のことを調べていた時に、時雨の情報もあったのかしら。でも、あんな風に言われただけじゃわからないよね。ちゃんと説明してもらわなくちゃ」


 エリカは腕を組んで頬を膨らませた。


「会って話せるかな……」

「信じて待つしかないよ。私たちにやれることをやりながら」

「うん……そうだね」


 どうか無事であってほしい。そして、背負った重荷から解放される日が来ますように。

 君の『大丈夫』が、本当の大丈夫になるように。

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