17 要と時雨(一)

 陽が沈みかけた頃、かなめ椎南しいな、そしてゆいが麓に向けて社を発った。町長との情報交換と物資の受け取りのためである。

 狼や唯たちの足であれば下りは三十分とかからない。要たちが病院の裏に着いた頃、空はまだわずかに明るかった。


「変わりないかね」


 町長たちの出迎えを受け、要は椎南から慣れた動作で飛び降りた。


「襲撃はありましたが無事です。研究所に動きは」


 十五歳とは思えない、理知的かつ落ち着いた物言いで要は尋ねる。


「ないね。地震について本社が確認中と言ったきり、だんまりだ。内通者からも連絡がない」


(スパイがいるんだ……)


 唯は少し離れた所で二人の会話を聞いていた。

 頭脳戦は要に任せっきりだ。特に唯には苦手分野であったが、そうでなくてもこちらは子供の集団だ。要という舵取りがいるからこそ、辛うじて敵と対峙できている。


 傍に停まっていた車の荷台を開けて、女性が唯に声をかけた。


「今回の食材と日用品よ。持てるかしら」

「エマさん、ありがとうございます!」


 要が町長と話し終えた頃、忙しない足音が近づいてきた。


「要くん!」

「エリカ、あなたどうしたの」


 突然現れた愛娘に、エマが驚いた顔で訊く。エリカは要の前で立ち止まると、乱れた息を落ち着けながら尋ねた。


時雨しぐれ見てない?」

「いや、見てないが……」

「夕方から姿が見えないの。あの子、風守の一族と研究所の話を聞いてからちょっと様子が変で……。時雨のお母さん、研究所の人だったでしょ。何か思い当たることがあったのかもしれないと思って……」

「居場所に心当たりは?」エマが尋ねる。

「自宅はまだ避難区域で近づけないし、念のため学校は見てきたけど見つからなかったわ」


「時雨先輩のお母さん、あそこの人だったんだ……。要、知ってた?」


 隣に立っていた唯が驚いた顔で訊いたが、要はその質問には答えず、エリカに尋ねる。


「あいつに何を話した?」

「えっと、三年前の山火事のことと……」


 要は思考を巡らせた。時雨はあくまで一般人だ。焔城ほむらぎ山にも、明らかに危険な研究所にも近づくとは思えない。


「他には?」

「研究所の実態がよくわかっていないって話もしたわ。情報がなかなか得られなくて、要くんが苦労してたって」

「それか」


 要が呟いた。


「自宅の可能性が高い、そうでなければ研究所に捕まったと思った方がいい」

「でも、時雨のマンションの辺りは立入禁止よ?」


 要は舌打ちをして、椎南の背中に飛び乗った。


「唯、俺が一時間経っても帰ってこなかったら社に戻れ」

「えっ、ちょっと!?」


 唯が言い終わる前に、要は手綱を引き椎南と共に走り出した。




 椎南は森の縁を風のように走った。


「俺が住んでいたマンションに向かってくれ」


 マンションはこの町では珍しい。と言っても、こんな田舎町でいうマンションは、アパートより多少階建てが高く、部屋が広い程度だ。


 時雨が母親と暮らし、母親の死後も住み続けている場所。

 そして要が一人暮らしをしていた場所でもある。


 二年前の春、つまり山火事があった次の春、要は最上階である五階の端の部屋で暮らし始めた。

 その隣に住んでいたのが、時雨だった。

 時雨が研究所の幹部の娘であったことも、その母親が山火事で死んだことも、要は知っていた。


 だから近づいた。

 少しでも、敵の情報が欲しかった。


 そうは言っても、何をしたわけでもない。時雨が重要な情報を持っている様子はなく、母親が研究所に勤めていたことさえ知らなかった。


 時雨は大人しい女の子だった。同じ中学校に通い始めてからも、顔を合わせれば挨拶するくらいだった。それでも、少しずつ会話が増えていった。


 そして夏、雷が落ちたあの日……。


 あれから時雨はよく喋り、よく笑うようになって、何かと要の世話を焼くようになった。


(違う、そんなことはどうでもいい……)


 時雨は次第に夕食を作ってくれるようになった。

 要の部屋に持ってくることが多かったが、時雨の部屋で食事をしたこともあった。リビングを観察したが、母親の遺品らしきものは見当たらなかった。


「ママは仕事人間でほとんど家にいなかったから、荷物は少ないの。でも服とか化粧品が残ってて、整理しなきゃって思ってはいるんだけど」


 それとなく訊いたとき、時雨はそう言っていた。


 それが、ほんの一ヶ月前に少し話が変わった。


「ママの仕事の道具って、会社に返した方がいいのかな?」


 高校受験の前に片付けようと、母親の遺品に手をつけたらしい。何かの資料がほんの数枚見つかったという。


「もう二年以上経ってるんだから処分してもいいんじゃないか」


 要は素っ気なく答えた。


「そうだよね。私、うちには何にもないって追い返しちゃったから、今更返しづらくて」


 そう言って時雨は笑った。

 要も、ほんの僅かな、二年以上も前の情報に興味はなかった。

 何より、時雨を研究所に近づけたくなかった。


(あいつは、本当は……)




 要と椎南はマンションが見える位置まで来た。


「ここで待っていてくれ」


 マンションは森に近いとはいえ、椎南は連れて行けない。森の外では目立ちすぎるし、一族に欠かせない存在に何かあっては困る。


(俺は欠けたって大した痛手じゃない)


 要は紅辻べにつじの血は引いているものの、宝玉の恩恵は一切使えない。獣使いの才がある、それだけが風守の一族に属する理由だった。


 立入禁止区域となっているため、辺りは気味が悪いほど静かだった。月と常夜灯だけが辺りを照らしている。マンションのどの窓も真っ暗だ。

 マンションの前に車が停まっている。わずかに排気ガスの匂いがして、ボンネットに触れると温かかった。


 嫌な予感がした。


 要は音を立てないように階段を上がった。時雨の部屋の玄関から光が漏れている。

 男の声がした。

 そっと部屋を覗くと、先ほど外から見た時は暗かったはずのリビングの照明がついていた。


 慎重に、気配を消して近づく。


 二人の男の後ろ姿。

 その向こうで時雨が床に座り込み、怯えた表情で男たちを見上げていた。何かを抱えて、胸に強く押し付けている。すぐ近くに懐中電灯が落ちていた。


「やはり隠し持っていたな」男の低い声がした。

「どうしますか」もう一人の男が言った。

「娘ごと回収する。被験体くらいにはなるだろう」


 男が時雨の腕を掴んだ。


「いやっ!」


 次の瞬間、要は壁のスイッチに手を伸ばした。リビングの明かりが消え、懐中電灯以外の光が失われる。

 要は姿勢を低くして飛び出し、体を捻って男二人の足を払った。倒れた男が床の懐中電灯にぶつかり、光が踊る。


「立て!」


 要は叫ぶと、時雨の腕を掴んで思い切り引っ張った。そのまま手を引いて玄関まで走る。


「くそ! 待て!」


 男の声に続いて、鼓膜を破るような轟音がした。


 銃声だった。


 小さな悲鳴と共に時雨の体が硬直したが、要は構わずに腕を引き部屋を飛び出した。

 階段に差し掛かる時、もう一度銃声が轟いた。それでも足を止めずに階段を降りる。


「時雨、大丈夫だから落ち着いて降りろ」


 地上まで、二人は階段を駆け下りた。

 男たちの足音が響く。要は階段から見えない方向に走った。椎南を待たせた位置からは若干外れるが、上から狙われては一溜りもない。

 三度目の銃声と同時に、時雨が倒れた。


「時雨!」


 足音が近づいてくる。


「要、ごめん、これ……」


 時雨が要を見上げ、胸に抱えたものを渡そうと手を伸ばす。

 男たちの姿が見えた。

 拳銃が月明かりに鈍く光る。要は咄嗟に時雨に覆い被さった。


「……?」


 数秒待っても、銃声は聞こえなかった。代わりにドサリと何かが地面に落ちる音がした。


「大丈夫!?」


 要が顔を上げると、息を切らした唯の姿があった。そして男たちがいた方向から走ってきたのはかいだった。


「どうして……」


 体を起こしながら言う要の手を、唯が掴んで引き上げた。


「早くここから離れるぞ」


 檜が周囲を警戒しながら急かす。その向こうには男二人が倒れている。


「時雨、立てるか」

「う、うん……」


 時雨は上半身を起こしたが、体が震えている。


「足、撃たれたのか」


 暗くて見えにくいが、時雨の左足から血が流れている。出血量は多くない。


 椎南の背中に乗せられた時雨は巨大な狼に驚いたが、不思議なことに怖いとは思わなかった。鼓膜に残る銃声の余韻の方がずっと怖かった。

 要はその後ろに乗ると、時雨の震える右手に自分の右手を乗せ、上から押さえるように手綱を握らせた。

 ぬるりと生温かい液体の感触。


「要、血が……」


 要は何も聞こえなかったように、椎南の手綱を引いた。


 要たちは来た道を辿るように森の縁を南へと走った。淡雪総合病院の裏にはエリカたちが待っていた。

 椎南から下ろされた時雨はその場に座り込み、そこへエリカが駆け寄った。


「左足を撃たれている、手当てを頼む」


 椎南から降りた要の右肩からは血が流れ、腕が真っ赤に染まっていた。


「ごめんなさい……私のせいで……」

「お前、何しに行ったんだ」


 要は時雨の言葉を無視して訊いた。


「これを……」


 時雨は大事そうに胸に抱えていたものを差し出した。唯がひょこりと覗き込む。


「設計図と、カード?」


 くしゃくしゃになった紙の束は建物の平面図のようだった。手にはもう一つ、黄色いプラスチックのカードが握られていた。


「研究所のカードだと思うの。ママの遺品の中にあって、要の役に立つかもって思って……」

「だからって立入禁止区域に入るなよ。危険すぎる」

「ごめんなさい……」


 時雨の目から大粒の涙が溢れた。


「これ、もらって行きます」


 要が平面図とカードキーを持って振り向くと、町長は無言で頷いた。


「戻るぞ。唯、檜、荷物頼む」

「要くん、怪我の手当てしないと」エリカが慌てる。

「いい、上で治す」


 その時、踵を返そうとした要の左手を座り込んだままの時雨が掴んだ。


「ごめんね」

「別に」

「ありがとう」

「だからいいって」

「あの雷の日、一緒にいてくれてありがとう」


 俯いたまま時雨が絞り出した一言に、要の動きが止まった。


「お礼言えてなかったのに、もう言えなくなるんじゃないかって、怖くなったの」


 時雨の膝の上にぼろぼろと涙が落ちる。嗚咽に混ざって言葉が溢れる。


「お願い、死なないで」


 要は項垂れた時雨をしばし見つめ、溜め息をついた。


「……大事なことを言ってないのは俺も同じか」


 要は独りごちると屈んで片膝をついた。


「時雨、お前の死んだ母親は本当の母親じゃない」


 僅かな沈黙の後、時雨が涙に濡れた顔を上げた。


「え……?」

「お前に六歳より前の記憶がないのは、恐らく事故のせいじゃない。研究所に連れて行かれたんだ。それまでは焔城山の、この街とは反対側の麓で両親と暮らしていたはずだ。本当の名字は、藤澤」


 ポカンと口を開けたままの時雨の頰を、不意に椎南が舐めた。ざらりとした、温かい感触が涙を拭う。

 不思議なことに、時雨はその感触が懐かしいと思った。自分を見つめる金色の大きな瞳がちっとも怖くないのは、なぜだろう。


「信じるかどうかはお前の自由だ。もっと早く教えてやれなくてすまなかった」


 そう言い残して要は椎南の背中に跨ると、仲間と共に漆黒の森の中に消えていった。

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