11 熱
襲撃の翌日は、朝から雨が降り続いていた。
「疲れが出たのね。こんな所に急に連れてこられたんだもの、無理もないわ」
「今日は雨だから襲撃はないでしょう。安心して休んでね」
「すみません……」
義凪は朦朧とする意識の中、それしか言えなかった。
京と梢が部屋から出て行ってから、義凪は溜め息をついた。
昨日の出来事は、義凪にとってショックだった。
自分に向けられた切っ先。
梢が引っ張ってくれなかったらと考えるとゾッとする。研究所の人間なら自分を保護してくれるかもしれないと期待していたことも、余計にショックを大きくさせていた。
殺されかけるなんて初めてだと思ったが、四月に黒い車に撥ねられたのを思い出した。もしかしてあれも、風守の一族や研究所に関連があったのだろうか。あの時も怖かったが、今回は桁違いだった。
今まさに、自分の命が奪われようとする絶望。
(だけど、
義凪は自分がいる場所の異常さを痛感していた。
考えれば考えるほど、熱が上がっていくような気がして、義凪は目を閉じた。
*
いつの間にか眠っていたようだ。
夢を見た気がするが、内容は全く思い出せない。髪も服も汗でぐっしょりと濡れている。ひどく喉が乾いていて、水を貰おうと義凪はベッドから立ち上がった。
社の大扉をくぐった先は百人は入れそうな広い部屋になっていて、左右に扉がある。左の扉の先は北に向かって廊下が伸び、右側に三つ部屋が並んでいる。いちばん奥が義凪が寝かされた部屋だった。
義凪は部屋を出たが、人の気配がない。大扉のある広い部屋まで出てみたが、社の中は静まり返っていた。
広い部屋の右側の扉が少し開いていたので、そちらに向かった。北側同様に廊下が続いていて、こちらは左側に扉が三つ並んでいる。どうやらこの建物はほぼ左右対称の造りのようだ。
真ん中の扉の隙間から僅かに光が漏れていた。
義凪は扉の隙間を広げて中を覗き込んだ。その部屋は白っぽく霞み、もわっとした湿度の高い空気で満たされていた。野草のような不思議な匂いがする。
部屋に一歩踏み入れると、中央の床が正方形にくり抜かれていて、その中に白濁した液体が満たされている。大浴場のようなものだろうか。
その中に、黒く長いものが漂っているのが見えた。
なんだろう、と見つめた義凪は、それが人の髪だと認識した瞬間、反射的に駆け出していた。
「大丈夫か!?」
義凪が駆け寄ると、水の滴る音と共に、黒い髪が液体の中からゆっくりと迫り上がった。そしてそれ、否、その人は義凪の方に振り向いた。
赤い瞳が義凪を見つめた。
炎と氷が共存するような瞳。
陶器のような白い肌に埋め込まれたルビーの瞳に、義凪は息をすることも忘れて見惚れた。
そして、我に返った。
「うわあっ!?」
その女性――
「すいませんっ! てっきり溺れてるかと思っ……」
慌てふためく義凪の服の首元が後ろから掴まれ、ぐぇ、と変な音が口から溢れた。
「義凪……」
要の低く冷たい声に、義凪は背筋が凍った。どんな形相をしているか想像したくない。
そのまま後ろから部屋の外へ引き摺り出され、扉が閉められた。
「見てないです、何にも見てないです」
「見たな」
「すいません……」
義凪は思わず顔を両手で覆った。顔が沸騰しているかのように熱い。
やがて扉がわずかに開き、楓が無言で顔を覗かせた。羽織った白い着物を胸元で押さえている。当たり前だがまだ髪が濡れていた。
「すまない、邪魔してしまって」
「彼、何か用があったんじゃないの」
要の声は普段のトーンに戻っていた。
抑揚のない楓の声。二人の視線が義凪に向けられる。
「俺、水をもらいに……」
急に喉の渇きを思い出す。目眩がして、義凪はへなへなとその場に跪いた。
「要、連れて行ってあげて」
要は返事の代わりに溜め息をついた。
要の肩を借りて部屋に戻った義凪は、ベッドにだらりと座った。程なくして現れた楓が水の入ったカップを差し出したので、それを受け取って一気に飲み干した。
「すいません……」
最早何に対して謝っているのか、自分でもわからなかった。
楓の手が義凪の額に触れた。しっとりしたその手は、先程まで湯に浸かっていたとは思えないほど冷たかった。一瞬、彩加の手を思い出した。
「熱、高いわね」
その声が、義凪の頭に心地よく響いた。
「戻っていいよ。俺が看るから」
要の声と部屋から出て行く楓の後ろ姿を最後に義凪の意識は途切れ、再び眠りの底に落ちていった。
次に目が覚めたときには辺りは真っ暗だった。外の雨の音が途切れることなく静かに続いている。
起き上がったものの明かりがなく、困っていたところで部屋の扉が開いた。
「起きてたのか」
ランタンを持った要が立っていた。眼鏡にオレンジ色の光が反射している。要が壁の灯りをつけると、部屋はぼんやりと明るくなった。
要は義凪に着替えを投げて寄越した。
「食べるもの持ってくるから着替えてろ。あと、そこの体温計で熱測っておくこと」
部屋から出ていく要の後ろ姿に、義凪は一抹の懐かしさを覚えた。なぜだろう、と自問する。
(そうか、今の先輩、学校にいたときに似てた)
ここに来てからの要は義凪に対してドライアイスのように冷たかった。しかし今話した要は違った。無愛想なのは相変わらずだが。
しばらくして戻ってきた要は、小さな土鍋が載ったトレイを机に置いた。
「食べていいんですか」
「そうじゃなかったら持ってこないだろう、普通」
要はそう言いながら、壁際に置いてあった椅子を引き寄せて座った。
義凪はベッドを椅子代わりにして座り、机に置かれた鍋の蓋を開けた。卵雑炊のいい匂いが湯気と共に立ち昇る。義凪はいただきますと呟いて、掬った雑炊にふうふうと息を吹きかけた。
「熱は」要が素っ気なく訊く。
「下がりました。平熱です」
義凪はこの雑炊は誰が作ってくれたのか気になったが、別の質問をした。
「あの人、あそこで何してたんですか」
楓の話だと察した要は案の定、義凪を呪い殺さんばかりの血相で睨んだ。
「しょうがないじゃないですか、溺れてると思ったんです。水の中に髪だけ浮いてたら誰だってびっくりしますよ」
「それだけ喋れればもう大丈夫だな……。あれは薬湯だ。楓の体はまだ治りきっていない」
義凪が黙々とスプーンを口に運ぶ間、要は古そうな本を読んでいた。鍋の中身が空っぽになった頃、要は本を閉じて義凪を見た。
「お前をここに連れてくることは、俺が七瀬さんに提案した。七瀬さんは少し悩んでから了承してくれた。お前のことを頼む、そう言っていた」
義凪は手を膝の上に置いて、要の話に真剣に耳を傾けた。
「あの山火事の後、初めて会ったときに七瀬さんは床に頭をつけて仲間の命を奪ったことを詫びた。本当は、七瀬さんは実際に攻撃した訳じゃない。直接傷つけてはいないんだ。ただ、自分の力が一族の壊滅に繋がったことを誰よりも理解していた。言い訳は一切しなかった」
三年前、煤だらけのまま泣き続けた母の姿。あの涙は、罪の意識によるものだったのかもしれない。
「お前がここにいれば、七瀬さんはそれを理由に山に入ることを拒否できる。ただ、七瀬さんの一番の目的はそこじゃない。お前を守ることだ」
予想外の言葉に、義凪は驚いた。
「俺を……?」
「お前に研究所の手が及ぶのを防ぎたかったんだ」
要は固まったままの義凪から視線を逸らして話を続けた。
「楓のような《術》、いわゆる魔法を使役できる人間とは即ち魔力を持つ人間だ。魔力は一代で終わることもないわけじゃないが、その子供も魔力を持っていることが多い。実際、楓の家系は代々術を使役している」
昨日の襲撃で見た、隆起した石の床、赤く光った杖、飛んだ石礫。あれが《術》なのだろう。
「だから、七瀬さんの息子であるお前に研究所が目を付ける可能性があった。いや、実際そうだったんだろう。七瀬さんははっきり言わなかったが、三年前に奴らに協力させられた理由が、お前だったんじゃないか」
義凪は要の言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
「もしかして、脅された……?」
要は何も言わなかったが、義凪は俯いた。
あの優しい母が人を進んで傷つけるなんて考えられなかった。そしてそれは間違いなかった。それがわかっただけでも良かったとは思う。しかし……。
「お前、間違っても自分を責めるなよ」
要が義凪をチラリと見て言った。
「え?」
「お前は無関係でなかったとしても、責任は全くない。貧乏くじを引いたとでも思っておけ」
義凪は目を瞬いた。要は目を逸らしてしまったが、きっと要なりの気遣いだったのだろう。
「とにかく、お前にはここにいてもらわないと困る。安全とは言えないが七瀬さんはこっちの方がマシだと判断したんだろう。悪いが我慢してくれ」
「わかりました……そうか、それで……」
「なんだ」
「
「あいつ、そんなこと言ったのか」
要はふっと少しだけ笑った。義凪が見たことのない、優しげな表情だった。
「それは多分、別の理由だ」
「なんですか?」
「お前が
嫌われていたわけじゃないのかと義凪はホッとした。少し泣きそうになり、話題を変えた。
「それで、なんで人質の俺が殺されかけなきゃなんないんですか」
「それは俺にもわからない。あの様子はお前を救出しようとしたわけじゃない……確実に殺そうとしていた」
「そんなぁ」
義凪は別の意味で泣きそうになった。
「心当たりはないのか?」
「あるわけないですよ。こっちが聞きたいんですけど」
「そうか……。そんなことをしたら、七瀬さんが二度と協力しないことは奴らもわかっているはずだ。一族の人間と勘違いしたか、もしくはお前の潜在能力を警戒したのか……」
「俺、魔法なんて使えないですよ。普通の人間です」
「それは七瀬さんがコントロールしていたからだ」
「……へ?」
情けない声が義凪の口から漏れた。
「七瀬さん自身がそう言っていた。何かまじないのようなものをかけられたり、持たされたりしてたんじゃないか」
「全然……あっ」
七瀬は、毎朝必ず出かける前の義凪を抱きしめた。義凪が事故に遭ったり怪我をしたりしないためのおまじないだと、子供の頃から欠かさない習慣だった。義凪はそれが恥ずかしくて嫌だったが、七瀬はしないと落ち着かないと言って、止めようとしなかった。
守られていた。ずっと。
俺はもう子供じゃない。自分のことは自分でできる。そんな気でいたけれど。
義凪は膝の上の手を強く握りしめた。
「だがここは宝玉が発する力で満ちている。お前の体にも変化があるかもしれない。違和感を感じたらすぐ知らせること」
「わかりました」
要は立ち上がるとトレイを持ち、義凪に背を向けて部屋の扉を開けた。
「あと」
要は足を止めた。
「……佐伯
それだけ言うと、振り返ることなく部屋から出て行った。義凪は、閉じた扉をしばらく見つめていた。
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