10 襲撃

 どれくらい時間が過ぎただろう。ぼうっとしていた義凪よしなぎは、狼の遠吠えで我に返った。

 慌てて振り返ったが、遠吠えの主は後ろで寝ていた北斗ほくとではない。もっと遠くから聞こえた。


「北斗」


 食堂から駆けてきたしょうが狼の名を呼んだ。ガウ、と北斗も返答する。

 梢はそのまま駆け寄ると、義凪の手首を掴んだ。


「来てください、やしろに移動します」

「ど、どうしたの」


 先に走り出した北斗を追いかけるように、義凪は梢に引っ張られる形で走り出す。

 振り返る梢の顔に笑みはなかった。


「敵が来ます」




 外に出て間もなく、斜面に埋め込まれるように造られた建物があった。

 梢に連れられて入り口横の階段を上ると、人が集まっているのが見えた。昨日の朝に広間で見た面々だった。


 社と呼ばれた建物の入り口前の空間は広く、先ほどまで義凪がいた建物の広間と同様に、山肌から突き出すように石の床が広がっている。しかしこちらは天井が圧倒的に高く、朱塗りの柱や梁には神社を思わせる趣があった。

 奥には装飾のある高さ四メートル程の巨大な両開きの扉があり、その両横に通常の大きさの片開き戸が付いている。

 梢が足を止めたのは右側の扉の横、この広い空間の隅だった。


「結城先輩はここにいてください。危なくなったら社の中に避難します」


 梢の真剣な眼差しに只事ではないと感じ取った義凪は、こくこくと頷いた。


 梢と北斗は集団の方へ駆けていった。赤っぽい服の集団の中に、群青色の袴の巫女と狼の姿が混じっている。

 巫女以外は皆、同じような上着を着ていた。臙脂色の短いケープのようで、背中にフードが垂れている。民族衣装のようなものだろうか。かなめだけ丈が長く、腰まで隠すそれはマントのように見える。


 ふと、かいの姿が目に留まった。その腰には日本刀が提げられている。

 それを見て、あの日の光景が脳裏に蘇る。檜と金髪の男の戦闘、そして銃声――無意識に思い出さないようにしていた光景がにわかに現実味を帯びて、義凪は固唾を呑んだ。


 ゆいめいの姿もあった。そして昨日の朝も見たもう一人の少年。顔を見て、唯の弟・れいだと思い出す。


 要を中心に何か話した後、檜、唯、羚の三人は森の中へそれぞれ別方向に、人間のものとは思えないスピードで散っていった。

 唖然としている義凪のところに、梢と茗がやって来た。


「茗は先輩と一緒にいてね」


 梢がそう言うと、茗はこくんと頷いた。そして梢は横の扉から建物の中へ入っていく。その後ろ姿を見送った義凪が視線を戻すと、茗が義凪をじいっと見つめていた。


「えっと、どうかした?」


 気まずくなった義凪が尋ねる。小豆色の大きな丸い瞳が、真っ直ぐに義凪を見上げている。


「大丈夫だよ、茗が守ってあげるから」


 その言葉に、義凪は目を瞬いた。


(あれ……?)


 義凪はふと思った。人質ということは、普通に考えれば、自分はここに向かっている人たち、すなわち梢が言った“敵”に助けてもらえるのではないか。

 研究所の人間とは両親以外に面識がないが、義凪が人質だという認識があれば保護してもらえるはずではないか。もしかしたら、自分を救出するためにここへ向かっているのかもしれない。


(それなのに、この子はなんで俺を守るなんて言うんだ?)


 だが、その矛盾よりもずっと、義凪の心に引っかかったことがある。

 湧きあがった、モヤモヤとした感情の正体。


(こんな小さい子が、俺のこと守ろうとしているのか……?)


 自分はそんなに不安そうな顔をしていたのだろうか。十歳にも満たない子供に気を遣わせるほどに。


 その時、遠くで大きな音がした。続けて、メキメキと木が折れる音。


「来るわ」


 要と共に森を見下ろしていた群青色の袴の巫女が呟いた。その隣には狼が二匹いる。いつも梢の傍にいる白い狼・北斗と、薄茶色のもう一匹。

 梢が扉から出て来た。そしてまるで盾になるかのように、義凪の少し前に立った。義凪は自分より年下の女の子二人に守られる構図になった。


(大切な人質だから……?)


きょう、大扉まで下がれ。椎南しいな、北斗、来るぞ」


 要が言うと、京と呼ばれた巫女は巨大な扉の前まで下がった。二匹の狼が姿勢を低くすると、要はその後ろに下がる。義凪にも緊迫した空気が伝わってくる。


 木々から一斉に鳥たちが羽ばたいた。椎南と呼ばれた茶色の狼が再び遠吠えを上げる。

 間も無くガサガサと何かが木を揺らす音がした。その音はどんどん近づいて来る。


 森の中から何かが飛び出した。奥にいた義凪には、まるで床の下から突然飛び上がったように見えた。

 北斗がその何かに飛び掛かる。黒い影は身を翻すと、距離を取って着地した。

 それは、黒ずくめの人間だった。


「へぇ……これっぽっちか」


 男の声がした。社の床に着地したその人物は、忍者か暗殺者を連想させる装いで、黒いレンズのゴーグルをつけている。右手に持った刃渡り五十センチほどの刀ともナイフともつかない刃物が鈍く光った。

 男の視線の先には要が険しい表情で立っていた。


「本当にガキだな」


 椎南と北斗が威嚇しているが、男が気にする様子はない。

 男は社を見渡した。そして梢、茗、義凪の三人が身を寄せているところに視線を移した時、動きが止まった。


 相手の目はゴーグルで見えない。しかし義凪は目が合ったような気がした。


 一瞬の隙を突いて椎南が飛びかかる。

 しかし男は目にも留まらぬ早さで右手を動かすと、椎南が悲鳴を上げて横に吹き飛び、床に落ちた。

 鮮血を帯びた男の刀が煌めく。

 次の瞬間、男は人ならざる速さで義凪たちの方へ飛びかかった。


「逃げろ!」


 要が叫んだが、義凪は動けなかった。

 梢が義凪を咄嗟に引っ張り、二人は床に倒れ込んだ。

 見上げれば、先ほどまで義凪の頭があった場所の後ろの壁に、男の刀が刺さっていた。


「こんなところにいやがったな」


 男は刀を壁から引き抜くと、尻餅をついたままの義凪を見下ろし、切っ先を向けた。

 激しい憎悪がその声から伝わってくる。

 義凪は体が震えた。


 なんで?

 なんで俺が狙われるんだ。

 俺が人質なら、保護するんじゃないのか。


 男が刀を振り翳すのとほぼ同時に、茗の飛び蹴りが男に向かって飛んだ。

 男はそれを刀を持った右腕で防御する。茗は飛び退いて後ろに二回転し着地すると、姿勢を低くしたまま男を睨みつけた。


「チッ、ガキが……」


 その時、男の足元の床が突然隆起した。男は飛び上がると一回転して離れた位置に着地した。そして先ほどまで立っていた、右側の扉の方を見遣った。


「出たな……やっぱり生きていやがったな、赤目の女ァ!」


 赤い巫女装束の女性・かえでが左手を壁につき、右手に持った杖をこちらに向けていた。

 楓の杖についた宝石が赤く光ると、突然石礫が飛び、男を目掛けて迫る。男は踊るように飛び退いてそれを避けた。尚も追いかけるように飛んでくる石を、男は空中で刀を振って弾いた。男は軽々と着地し、楓と再度向かい合う。


 その直後に、後ろから何かが男に襲い掛かった。


「!?」


 男に斬りかかったのは檜だった。

 振り返った男が刀で受け止める。金属同士が激しくぶつかり合う音が空気を揺らす。

 男と檜が互いに飛び退いた。檜は刀を構え、その眼はフードの下から男をきつく睨んでいる。


 男より先に、檜が一気に間合いを詰めた。その速さは、義凪には瞬間移動したようにしか見えなかった。勢いで檜のフードが頭から外れた。


 檜と男の刀が弾き合う音が繰り返し響く。

 残像のように火花が散る。


 二人が同時に飛び退き距離を取った、その二秒ほど後に男が左膝を床に着いた。左の腿の服が切れ、赤い色が覗いている。男はさらに左手で右肩を押さえた。右手に持った刀から血が滴り、床に落ちた。

 檜がわずかに動いた時、男は舌打ちすると同時に左手を勢いよく振った。檜が後ろに飛び退くと同時に、爆竹のようなものが爆ぜた。

 男は顔を楓の方に向けた。


「アンタが生きていることがわかれば十分だ。くだらない、どうせすぐ終わる」


 男はそう言うと後ろに飛び、斜面の下に落ちていった。追いかけようとした檜を要が制止した。


「檜、深追いするな」


 檜は床の端で立ち止まり、斜面の下を覗いた。しばらくして、無駄のない動作で刀を左腰の鞘に収めた。


「椎南、大丈夫!?」


 京が椎南に駆け寄る。椎南のか細い鳴き声が聞こえた。直ぐ傍には北斗が立っている。


「よかった、傷はそんなに深くないわね。すぐ治すわ」


 要が楓の元へ駆け寄った。


「楓、大丈夫か」

「ええ……ごめんなさい、遅くなって」


 楓は壁に手をついたまま答えた。顔色が悪い。

 今度は社に飛び込むように唯と羚が現れた。


「ごめん! 大丈夫だった!?」


 焦った様子の唯の頬には、引っ掻かれたような傷がある。


「なんとかな……そっちは」要が訊き返す。

「ちょっと手こずっちゃったけど大丈夫。分散させてきたなぁ……」


 唯は腰に手を当てると、小さく舌打ちした。

 義凪はその様子を、尻餅をついたまま見ていた。まだ鼓動が早く、体中から汗が噴き出していた。


「先輩、大丈夫ですか?」


 梢に呼びかけられ、義凪は我に返った。


「あ、ああ……。風駒かざこまさんありがとう、助かった」

「いえ……でも、どうして先輩が狙われたんでしょう……?」


 それは誰よりも、義凪が知りたい問いだった。

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