08 いたみ

 広い部屋には義凪よしなぎだけが取り残された。風が木の葉を揺らす音だけが聞こえる。

 頭痛がして、少し熱があるような気もした。頭の中を整理しなければと思う一方で、考えることを全て放棄してしまいたい。


 視線の先には五月らしい澄んだ青空が広がっている。無性に腹が立ってきて、先ほどまでかなめが座っていた木の椅子を蹴り倒した。


「くそッ!」


 ふと義凪が後ろを向くと、今朝のランタンの少女と狼がこちらを見ていた。


「お腹、空いていませんか。昨日から何も口にされてないですよね」


 少女は怖がる様子もなく、優しく言った。

 言われた通り、昨日の昼から何も食べていなかった。意識すると、急に空腹が気になり出す。なんでこんな時でも腹が減るんだと義凪は恥ずかしくなった。


 少女に案内されたのは隣の部屋だった。石造りで、先ほどの部屋ほど広くないが二十人は入れるほどの広さがあった。こちらは四方向が壁に囲まれ、部屋の中央に小さな焚き火がある。

 焚き火の上にはヤカンが吊り下げられており、その周りには四本の大きな丸太が正方形を描くように横たわっている。丸太が椅子の代わりなのだろう。まるでキャンプだ。

 窓はあるが日が差し込んでいないため部屋は薄暗く、焚き火の小さな火が壁や天井をオレンジ色に照らしていた。


「どうぞ、お好きなところに座ってください」


 少女がそう言ったので、義凪は一番近くの丸太に腰掛けた。火は小さいが暖かい。五月とはいえ、日の当たらない山の上は肌寒かった。

 少女が金属製のトレイを持って来て、義凪と向きが九十度になるように隣の丸太に座った。白い狼はその後ろに伏せると、ふさふさの尻尾を一度大きく揺らしてから、義凪たちに背を向けて丸くなった。


 どうぞ、と少女が差し出したトレイを受け取ると、おにぎりが二つ載っていた。少女はヤカンを火から下ろすと、足元に置いてあった急須にお湯を注ぎ、少し待ってからステンレスのカップに中身を注いだ。義凪はそれをじっと見ていた。


「熱いので気をつけてくださいね」


 そう言いながら少女は義凪の足元にカップを置いた。香ばしい匂いが湯気と一緒に立ち上る。


「……あんた、一年の風駒かざこまさんだろ」


 義凪がボソリと言うと、少女の大きな瞳がさらに大きくなった。


「私のことご存知なんですか?」


 義凪は彼女のことを知っていた。

 風駒しょう――四月に新一年生が入学した後、美少女がいると圭一を含む一部の男子の間で話題になった女の子。容姿もさることながら、日本人にしては明るい色の髪と色素の薄い瞳が目立っていたのでよく覚えている。今朝水を持って来たときは暗かった上に、声は知らなかったので気がつかなかった。


「でも、私も結城先輩のことは知っていましたよ。先輩は有名ですから」

「有名? 俺が?」


 義凪は驚いた。


「剣道部の結城先輩、かっこいいってクラスの女の子が言ってました」


 そんな話は初めて聞いた。ちょっと信じられなかった。


「……俺はかっこよくなんかないよ」


 吐き捨てるように言った。

 こんなに情けないのに、格好よくなんかあるもんか。感情のやり場もなくて、物に当たるような人間なのに。


 義凪はおにぎりを掴んでかぶりついた。ほんのり温かくて、甘い。一日ぶりの食事はとても美味しく感じられて、目頭が熱くなった。涙が出そうになるのを堪えるように、手に持っていた残りを口に押し込んだ。

 義凪が二つのおにぎりを食べ終えるまで、梢は前を向いて焚き火の炎を見つめていた。義凪がカップのお茶を一口飲んだ頃、そっと口を開いた。


「……私、彩加あやかさんと何度かお話ししたことがあります」


 名前を聞くだけで、義凪は胸が締め付けられる思いがした。梢は炎を見つめながら、静かに話し続ける。


「本当は、お会いするつもりはなかったんです。長く生きられないことを知っていましたから、お別れが辛くなってしまうので……。だけど彩加さんが会いたいって言ってくださったんです。『かえでがいなければ知り合うこともなかった、せっかくのご縁だから』って」


 梢はそっと微笑んだ。その笑顔は年下とは思えないほど大人びて見えた。


「体は辛かったはずなのに、いつも笑顔で優しい人でした。山を降りたばかりで、町での生活が不安だった私のことを励ましてくれました。一族以外で初めてのお友達だったんです。だから、もう会えないなんて、悲しいです。お別れは来るってわかっていたけれど、だからって悲しくならないわけじゃないです」


 梢は泣きそうな顔で義凪を見た。


「ごめんなさい、みんな素っ気なくて……。また戦いが始まって、余裕がないんです。立ち止まっていたら、また仲間を失ってしまうかもしれないから……」


 それまで口を閉ざしたままだった義凪の目から、つうっと一筋の涙が溢れて頬を伝った。


「……助けたかったんだ」


 義凪の僅かに開いた口からぽつりぽつりと言葉が漏れる。


「俺、何も知らなかったけれど……死ぬって決まってたのかもしれないけど……死なないでほしかった……生きていてほしかった……」


 涙は拭っても拭っても溢れた。

 自分が人質だという状況より、母が魔女と呼ばれたことより、摩訶不思議な話への戸惑いより、自分の心を占めていたもの。説明のつかなかった苛立ちの正体。


 ただ、嫌だった。

 大切な人がもうこの世界にいないことが。

 そうなることが決まっていたことが。

 決まっていたからといって、それを受け入れてしまう人たちが。

 何事もなかったかのように、空が青いことが。


 どうしようもないことが、嫌で嫌で堪らなかった。


 一緒に悲しんでほしい。

 世界中に悼んでほしい。

 まるで駄々を捏ねる子供のように、暴れて、喚き散らしたかった。


 人目も憚らず泣きじゃくる義凪が落ち着くまで、梢は何も言わなかった。嗚咽が小さくなった頃、立ち上がって何処かへ消えたかと思うと、小さなタオルを持って戻って来た。

 義凪は渡されたタオルを受け取り、ぐしゃぐしゃに濡れた顔を拭いた。そして大きな溜め息をついた。


「……ごめん」

「いいえ、全然」


 梢は優しく微笑んだ。気がつけば、太陽の向きが変わったためか周囲は明るくなり、焚き火に照らされていた部屋も自然光の色に近くなる。

 梢の瞳はよく見ると茶色と緑が混ざったような不思議な色をしていた。


 梢によれば、彩加の遺体は楓が両親に引き渡したらしい。だから刻徒ときと川のほとりから移動する際、彼女だけ残ったのだ。それを聞いて義凪は少しだけほっとした。


「でも俺はここから出られないから、葬式には行けないってことね……」

「はい……ごめんなさい」


 梢が申し訳なさそうに俯いた。


「かなちゃんは人質なんて言い方をしてましたけど、ここにいていただければ自由にしていて構いません。山奥でなにかとご不便をおかけすると思いますが……」

「……かなちゃん?」

「あ、要さんのことです。小さい頃からそう呼んでるので、つい」


 衝撃の後、笑いが込み上げて来た。


(あのクールな要先輩が、かなちゃん……)


 義凪は顔を手で覆って必死で堪えた。梢は大きなヘーゼルの瞳を見開いてきょとんとしている。


「そんなにおかしいですか……?」

「ごめんごめん、なんでもない」


 義凪は手をパタパタと振りながら答える。呼吸を落ち着けると、暫く焚き火を見つめてから、梢の顔を見ずに訊いた。


「……要先輩が殺したわけじゃ、ないんだよな」

「はい」

「楓ってやつのせいじゃないってのも?」

「本当です」

「……そっか」


 梢の返答は力強かった。きっと真実なのだろう、要の話したことは、全て。

 そうわかっていても、受け入れることを拒んでいる自分がいる。

 義凪の心情を察したのか、梢が言った。


「かなちゃんの言ったこと、直ぐに受け入れるのは難しいと思います。でも、ゆっくりでもわかってもらえると嬉しいです。嘘はひとつもありませんから」

「……うん」


 梢が義凪の手を取ったので、義凪は驚いた。


「わからないことがあったらなんでも言ってくださいね。私にわかることなら、なんでも答えますから」


 梢の純真な笑顔に、少し頬が熱くなる。


「……ありがとう」

 

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