06 風守の一族(一)

 目を覚ますと頭が痛かった。義凪よしなぎは毛布の中で体を縮こませる。

 今、何時だろう。いつも枕元に置いてあるはずの目覚まし時計に手を伸ばしたが、すぐに壁に手が当たった。石の冷たい感触に、ふと我に返る。


 ここはどこだっけ。


 記憶を順番に手繰り寄せる。確か、担がれて山の中を飛び回った。


(猿になった夢でも見たのか……)


 次の瞬間、川辺に横たわった彩加あやかの姿が脳裏に浮かんで、義凪は飛び起きた。

 あれは夢じゃない。

 冷たくなった彩加の手の感触が蘇り、震えそうになる手を握りしめる。


 辺りを見渡しても真っ暗だ。唯一、壁に開いた出入口から僅かに灯りが漏れている。見ていると、灯りは足音と共に近づいてきた。

 やがて、ランタンを持った少女が顔を覗かせた。


「目が覚めましたか?」


 厚いストールを肩から掛けた少女が、鈴のような声音で尋ねた。

 その後ろから、大きな毛むくじゃらがのそりとついてきた。義凪と彩加を乗せて走った、巨大な白い狼だった。

 その姿を認めることは、夢であって欲しかった出来事が現実であることを物語っていた。


 声を出そうとしたが、口の中が乾いていて掠れた音にしかならなかった。


「今、お水を持ってきますね」


 少女はそう言いながら、マッチを擦って机の上の蝋燭に火をつけた。そして再びランタンを持って部屋から出て行った。

 小さな部屋に義凪と狼が取り残された。狼は出入口の近くに座って、蝋燭の火に照らされた金色の目で義凪を見つめている。

 義凪は狼から目を逸らし、代わりに部屋を見渡した。小さな部屋に窓はなく、ドアのない出入口が一つだけ。壁、床、天井すべてが石でできている。


 戻ってきた少女から、ステンレス製のカップを受け取った。酷く冷たかったが、一口飲み込むだけで喉の渇きが癒えていく。


「まだ夜明け前でみんな眠っていますから、もう少しここで休んでいてください。朝になったら、色々とご説明できると思いますから」


 少女の口調は丁寧かつ穏やかだった。義凪が無言で頷くと、控えめに微笑んで部屋から出ていった。


 義凪はポケットにスマートフォンが入っていることを思い出し、取り出した。

 画面には「圏外」の文字。時刻は午前二時を回ったところだった。着信履歴を見ると、最後の着信は昨日の午後四時過ぎに母親からとなっている。刻徒川のほとりで会話したときのものだ。


 義凪はベッドに横になり、蝋燭の火を見つめた。

 そして、これは現実なのだと悟った。

 今、見知らぬ場所で横になっていることも、彩加が死んだことも。


 涙が零れそうになる。義凪は考えることを放棄し、頭まで毛布に包まって目を閉じた。



 名前を呼ばれて目が覚めた。毛布から顔を出すと、目の前にゆいの姿があった。


「おっ、起きたね。おはよ」


 義凪はなにも言わずに体を起こした。唯の後ろには、昨晩の少女が相変わらずランタンを持ち、心配そうな表情を浮かべていた。その傍らには例の狼がいる。蝋燭の火はもう消えていた。


「もう朝だよ。この部屋暗くてわかんないね。起きれる? 体調どう?」

「うん……」


 一度に幾つも聞かれて、自分でもどれに頷いたのかわからなかったし、正直どれでもよかった。


「朝ごはん食べる? それともかなめから話聞く?」


 唯が学校で話すときと同じ明るさで言った。


「……話、聞く」


 呟くように言うと義凪はベッドから足を下ろし、靴を履いて立ち上がった。

 唯の後ろを義凪がついて歩き、その後ろにランタンの少女と狼が続く。前後を挟まれて、義凪は拘束されているような気分になった。

 部屋の外も石造りの廊下が続き、空気が冷たい。


 やがて、視界が開けた。

 石造りの広い部屋だった。否、部屋と呼ぶのが正しいのかは解らない。なぜなら正面の壁がなかったからだ。その先には青空と、木々の頭が見えている。


「連れてきたよー」


 唯が呑気に言った。


 薄暗い部屋の中央に、半円を描くように人が集まっていた。


 義凪の正面には要が椅子に腰掛けていた。右隣には赤い巫女装束を着た黒髪の女性が座っている。昨日、刻徒川で見た女性だった。

 その隣には昨日義凪を担いだ青年・かい、義凪より少し年下と思われる男の子、さらに幼い女の子が順に座っている。唯は女の子の隣の、端の椅子に座った。


 反対側、つまり要の左隣には、群青色の巫女装束の女性が座っていた。そして驚いたことに、その巫女の傍らには狼がもう二匹いた。違うのは毛の色で、一匹は薄い茶色、もう一匹は黒い。

 ランタンの少女は義凪の元に丸太でできた簡易な椅子を置くと、自身は左端の椅子に座った。

 義凪は用意された椅子には座らず、立ったまま要を睨んだ。


「何から聞きたい?」


 足を組んで座っている要が、挨拶もなく尋ねた。逆光で表情は定かでない。


「なんで佐伯を殺したんだ」


 義凪は拳を握りしめて言った。要は小さく溜め息をついた。


「……そのことか」

「義凪、違うよ、殺したわけじゃ」


 唯が口を挟んだが、義凪は最後まで聞かずに続けた。


「なんであんな場所に連れて行ったんだ! あんなことになるなら協力なんてしなかった!」


 義凪はてっきり要が彩加を助けてくれると思って、指示に従ったのだ。

 しかし刻徒川へ落とされた挙句、彩加は死んだ。


「ここがどこかとか、自分の置かれた状況とか、お前はそういうことが気にならないのか?」

「なんだと……!」


 義凪は要に掴みかかろうとしたが、要の側にいた茶色い狼が低く唸り声を上げたので踏み留まる。


「その話は説明が面倒だから後にしてくれ。今は彼女がそうなることは決まっていた、そして本人もそれを知っていた、とだけ言っておく」


 要が両腕を組んだ。


「そうだな……まず、この森のことから話そうか」





 義凪が要から説明を受けていた頃。

 要のクラスメートである雛形ひながた時雨しぐれは、同じくクラスメートである雪邑ゆきむらエリカの家の台所にいた。


 台所に入ってきたエリカは時雨に話しかけた。


「やっぱり中地区も山の方は立ち入り禁止になってる見たい。時雨のマンションにはしばらく帰れそうにないね」

「そっか……。ありがとう、エリカの家に置いてもらえて助かったよ」

「気にしないで、時雨ひとりで避難所には居させられないもの」


 時雨は止めていた手を動かす。フライパンの中できんぴらごぼうがほとんど出来上がっていた。


「さすが時雨、手際がいいね」

「でもこんなにたくさん作ったのは初めてだよ」


 そう言いながら時雨はフライパンを煽った。


「エリカのおじいさまたち、やっぱり大変なの?」

「うん、町長だしね。一族総出でバタバタしてる。ま、いつかこうなることは覚悟していたけど」

「そうなんだ……」

「お母さんも避難所に行ってるから、家のことは私がやらなきゃいけないの。悪いけど、時雨も手伝ってね」

「もちろん」


 時雨は火を止めてきんぴらごぼうを皿に移すと、コンロにフライパンを戻して手を止めた。しばしの沈黙の後、エリカの方を見た。


「ねぇ、本当に要は大丈夫なの? 焔城ほむらぎ山にいるって本当なの?」

「うん、大丈夫。少なくとも、今は」

「今は……?」

「この先はわからない」


 昨日、三度の地震と爆発音の後、淡雪町の町民は一斉に避難を強いられた。

 夕方になって、南地区の住民は自宅に戻ることを許されたが、北地区の全域と中地区の一部の住民は今も避難したままになっている。住宅街が南地区と中地区に集中しているため大半の住民は帰宅できたが、避難している住民は町の人口の約五分の一に上る。

 時雨もその中の一人だった。時雨が一人で住んでいるマンションは山に近く、帰宅禁止区域に入っているのだ。


 時雨は自分の家のことよりも、要のことが心配でならなかった。

 昨日、中学校でグラウンドに避難したときから姿が見えなくなっていたのだ。探そうとする時雨をエリカが止めた。要は大丈夫だから、後で説明するから、と。


「時雨には、話してもいいかな」


 沈んだ表情のまま固まっている時雨を見て、エリカが口を開いた。


「今から話すことは、すぐには信じられないと思う。でも、嘘はつかないわ。あと、他の人には話さないと約束して。いい?」


 時雨は顔を上げ、エリカの真剣な眼差しを受け止めた。普段は飄々としている親友がこんな話し方をする時は、冗談ではないことを時雨は知っている。


「約束する」

「ありがとう。それじゃ、長くなるから居間で話そう」


 二人は台所の隣にある居間へ移動して、大きな座卓を挟んで向かい合って座った。


「焔城山には風の神様が住んでいるっていう話、時雨も聞いたことあるよね?」

「うん、小学校で聞いたわ。神様が二人いて、風神様が焔城山にいるもう一人の神様を閉じ込めて守っているっていう話」


「そう……焔城山にはね、本当に神様が閉じ込められているの」

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