05 桜の雨
目を覚ますと、
「起きたか」
起き上がった義凪は、背後からの声に驚いた。
「
腕を組んで立つ要の傍らには義凪たちを乗せてきた白い狼がいて、さらに奥には黒く長い髪の人物が跪いて足元を見ている。
そこに見慣れた制服が見えた。
「佐伯!」
ハッとするのと同時に立ち上がり、要の横を通って駆け寄る。
草むらに横たわった
「佐伯」
跪いて彩加の手を掴んだ時、言葉の続きが出なくなった。
その手は冷たかった。
保健室で触れたときとは違う冷たさだった。
震える手で、今度は頬に触れた。
この冷たさを義凪は知っている。
二年前、隣の家のじいちゃんが死んだ時、一度だけその体に触れた。義凪は人の亡骸を見るのもそれが初めてだった。
名前を呼びたいのに、言葉が出てこない。現実を認めたくないという強烈な欲求が、喉に詰まっているようだった。体に収まりきらない熱が、汗になって吹き出す。
どうして、こうなったんだ。
混乱と絶望の次に込み上げてきたのは、怒りだった。
義凪は勢いよく立ち上がり、両手で要の胸ぐらを掴んだ。
「どういうことですか!? なんで、なんで……!?」
要は無表情で義凪の目を見たまま、何も答えない。
「佐伯を助けるためじゃなかったんですか!?」
「違う」
冷たく言い放たれた一言に、義凪は言葉を失った。唇がわなわなと震え、これまで感じたことのない強い怒りで、右手の拳を振り被った。
しかしその拳は、後ろから掴まれる形で止まった。
驚いた義凪が振り返ると、いつの間にか背の高い青年が立っていた。高校の制服を着たその人物に見覚えがある気がしたが、思い出せない。
「離せ!」
義凪は拳を下ろそうとしたが、びくともしない。
「要、一人で格好つけるな」
青年が義凪を引き離して言うが、要は返事をしない。
「なんなんだよ! どうなってるのか説明しろよ!」
義凪は声を荒げて暴れたが、青年に腕を押さえられ動けない。
その時、ポケットのスマートフォンが振動して、義凪は動きを止めた。
青年が腕を解放したので、義凪はズボンからスマートフォンを恐る恐る取り出す。
着信画面には、『母』の文字。
「……もしもし」
「義凪、どこにいるの!?」
七瀬の声が聞こえた。そういえば地震の後、グラウンドに避難するはずだったのだ。今の自分の状況をどう説明すればよいのかわからず、義凪は言葉に詰まる。
沈黙を破った七瀬は、意外な人物の名前を口にした。
「要くんと一緒にいるのね?」
「えっ、なんで」
なぜ七瀬が要を知っていて、一緒にいることまで知っているのだろうか。
「義凪、よく聞いて」
いつも陽気な母の、真剣な声を久しぶりに聞いた。
「要くんの言う通りにして。母さんは大丈夫だから」
同じ台詞を聞いた。
保健室で彩加が言った台詞だ。
だが、その通りにした結果がこれじゃないか。
「それって、どういう」
「ごめんね」
遮るように七瀬が言うと、通話は切れた。
義凪はしばらくの間、スマートフォンを握ったまま立ち尽くしていた。顔を上げると、要と目が合った。
「……ちゃんと、説明してください」
「後で説明する。行こう」
突然、義凪の視界が揺れた。
義凪は一瞬のうちに、先ほど腕を押さえられた青年に担がれていた。
「黙ってろ、舌噛むぞ」
暴れる義凪を青年が低い声で嗜める。
「
要が聞き慣れぬ名前を呼んだ。
「先に行って」
聞いた事のない女性の声。義凪が辛うじて顔を起こすと、先程彩加のそばで跪いていた黒髪の人物と目が合った。
結晶の中にいた、黒髪の女性だった。
燃えるような、真紅の瞳。
「……わかった」
要が言った次の瞬間、義凪は青年に担がれたまま、彩加と女性から遠ざかっていった。
物凄い速さで木々が横を通り過ぎていく。
自分を担いでいるのは本当に二本足の人間だろうか。ジェットコースター並みの速さと振動で、義凪は吐き気に見舞われた。途中、要の声が聞こえた気がしたが、風と木葉の擦れる音で聞き取れない。
意識が朦朧としてきた頃、ようやく振動が止まり、義凪は閉じていた目を開けた。
黒っぽい地面が随分遠い。
ピントが合って、ようやく自分いる場所の異常さに気がついた。
(高っ!!)
地面までは十メートル以上あるだろう。血の気が引いて、一気に目が覚める。
そこは鬱蒼とした森の中で、青年は高い木の枝の上に立っていた。
麓の方から、拡声器を通した男の声がした。
『無駄な悪あがきはやめろ! 大人しく渡せば我々はそれ以上望まない!』
「嘘ばっかり」
聞き覚えのある声に義凪はハッとする。
近くから聞こえた呟きの主は、クラスメートの稲葉
「稲葉!?」
「あ、起きた。おはよ」
唯の口調は相変わらず呑気だったが、顔は笑っていなかった。
「来る」
青年はボソッと呟くと、担いでいた義凪を肩から下ろした。
「唯、こいつ頼む」
そして落ちたらただじゃ済まない高さの木の上で、義凪はポイッと放り投げられた。
(は?)
空中で、時間が止まるような感覚。
あまりの出来事に悲鳴を上げることすらできなかった義凪は、唯に受け止められ落下を逃れた。
後になって、心臓がバクバク音を立て、冷や汗が溢れ出す。
「もうっ!
唯が文句を言った時には、檜と呼ばれた青年の背中は遠くなっていた。
飛び降りた檜は、空中で腰の鞘から刀を抜く。
ガサガサという音と共に、薮から金髪の男が飛び出した。男が投げたナイフを、檜の刀が弾いた。甲高い金属音が響く。
「大人しく渡す気なんてねえよなあ!」
ボサボサの金髪の男は嬉々とした、狂気じみた声を上げた。迷彩服を身につけ、髪を除けばどこかの軍人のような出で立ちをしている。
檜は何も言い返すことなく、素早い太刀捌きで更に二本のナイフを弾いた。そして地面を蹴り、男に迫る。男は刃渡りの長いナイフを振り翳した。
刃同士がぶつかり、火花が散る。
「ちっ、やるなぁ」
金髪の男の笑みが引きつっている。一方の檜は鋭い目つきのまま表情を崩さない。
押し勝った檜の刀が男のナイフを弾き、次の瞬間には男の右手首を裂いた。
「ぐあっ!」
僅かに差し込んだ陽光が、鮮血を照らした。
その時、檜がハッと何かに気がついて後方に飛び退いた。
一発の轟音が森に響く。
それは義凪が生まれて初めて聞いた銃声だった。
少し離れた木の上に人影があった。黒いボディスーツにサングラスを身につけている。体のラインから女性であることは明らかで、ミルクティ色のポニーテールが揺れている。手には拳銃が握られていた。
「てめぇ、邪魔するな!」
「勝手なことをするな。待機以外の命令は出ていない」
金髪の男が血塗れの手首を押さえながら怒鳴るが、女は冷たくあしらった。
木の上から一部始終を見ていた義凪は、自分の目が信じられなかった。
これは、なんだ?
刀。
ナイフ。
鮮血。
銃声がまだ鼓膜を震わせている気がした。
「『魔女の息子』がこちらにいる!」
突然、下の方から要のよく通る声が聞こえた。
「こちらに手を出せば容赦はしない。宝玉は決して渡さない。そう伝えろ!」
狼に跨った要が言うと、女はフンと鼻を鳴らし麓の方へと去っていった。金髪の男も舌打ちし、悔しそうにその場を後にした。
「義凪、大丈夫?」
「え? あ……」
唯の声で義凪は我に返ったが、開いた口が塞がらない。
たん、と音がして、檜が隣の木の上に戻ってきた。白いシャツに返り血がついている。
細く鋭い目に、義凪の背筋が凍る。
次に気がついた時には、義凪は再び檜に担がれ木々の間を移動していた。まるで瞬間移動だ。みぞおちに力が掛かる。
「うっ……」
「檜兄、もっと優しく運んであげてよ」
唯の声が聞こえる。彼女もまた木の枝の上を飛んで移動していた。
しばらくして、どこかに着地したようだった。
義凪が薄らと目を開けると、灰色の石の床が見えた。檜の肩から降ろされたが、完全に目が回っていてた。
「ダメだね、こりゃ」
頭上から唯の声がした。
「……寝かせてやってくれ」
今度は要の声だ。
再び担がれ、今度は歩いて運ばれた。しばらくして柔らかいところに降ろされた。ベッドかなと義凪は思ったが、目を開けるのも嫌だった。そのまま起き上がることもできず、すぐに意識がなくなった。
*
気がつくと、義凪は短い草の上に座っていた。
ここはどこだろう。
空は雲ひとつなく、目に染みるほど青い。
はらりと何かが舞っていることに気がつく。それは小さな花びらだった。見上げると、薄紅色の花をたわわに付けた枝が放射状に広がっている。
「怒らないであげてね」
驚いて声の方を向くと、義凪の隣には彩加が座っていた。
「私は感謝してるんだよ。本当だったら、こんなに生きられなかった。結城くんに会うこともなかったの。私はとても幸せだった」
彩加は前を見たまま笑っている。
風が吹いて、桜の雨が強くなった。彩加の柔らかな茶色い髪が揺れている。
「お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
彩加が義凪の方に顔を向けた。
「楓の力になってあげてほしいの。楓は、私のとても大切な人だから。幸せになってほしいから……」
そう言った彩加は泣きそうな顔をしていた。義凪が知る彩加の表情の中で、いちばん真剣で、悲しげだった。
桜が吹雪のように、義凪の視界を遮り始める。彩加が見えなくなっていく。
「私、結城くんのことが好きだったよ」
消えないで――そう言いたいのに、手を伸ばしたいのに、義凪の体は動いてはくれない。
「元気でね」
最後に見えた彩加は、いつも見ていた幸せそうな笑顔だった。
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