04 始まりの合図
それから一ヶ月が過ぎたが、
義凪は剣道中心の学校生活を送り、彩加は週に一度は学校を休んだ。
その日は朝から空一面、淡い灰色に覆われていた。雨は降らない予報だが、五月とは思えないほど蒸し暑い。
義凪は頬杖をついて昼下がりの授業を聴いていた。
(こんなに暑かったらしんどいよな……)
彩加は朝から登校したが、一限目が終わると保健室へ行ってしまった。鞄は残されたままだから、まだ保健室にいるのだろう。
彩加がいなくても、授業は何事もないように進んでいく。仕方のないことだと理解しつつも、義凪にはそれがどこか不愉快だった。
窓の外を眺めていたが、頭を軽く振って黒板に目を遣る。
(ちゃんとノート取らないと)
先日、初めて彩加にノートを貸した。わかりやすかったと言われて、義凪は内心踊り出したい気分だった。お礼にと渡されたチョコレートは鞄のポケットに入れたままになっている。
ノートに視線を落としたその時、背中がゾクッとした。
思わず声を上げそうになるのを堪える。悪寒はすぐに引いた。
(なんだ、今の……? こんなに暑いのに寒気なんて、風邪かな)
額の冷や汗を拭いながら、そんなことを考えた、その時だった。
地響きと共に、突き上げるような揺れが学校を襲った。
床も、机も、ガタガタと音を立てて揺れ、あちこちから悲鳴が上がる。義凪は声を上げることすら出来ず、倒れないようにするのが精一杯だった。
どれくらいの間、揺れが続いただろうか。
少し経ってから校内放送が流れ、順次グラウンドへ避難する指示が出た。教室中でひそひそと話す声や、すすり泣く声が聞こえる。
「義凪、大丈夫か」
前の席に座っている瑞樹が話しかけた。
「ああ、びっくりしたな。緊急地震速報は無かったよな……」
教師からグラウンドに移動するよう指示が出ると、皆、足早に廊下へと向かっていく。義凪が教室から出たのは最後の方だった。
あっ、と義凪は思わず声を上げた。
「どうした?」
驚いた瑞樹が振り向く。
「先に行ってて」
義凪はグラウンドとは反対方向に走り出した。
(佐伯がまだ保健室にいる!)
走り出してから、普通に考えれば保健医と一緒に避難しているはずだと気づく。しかし保健医が不在の可能性だってある。
保健室まで全力で走り、ノックもせずドアを開けて飛び込んだ。ベッドを隠すカーテンを開けると、そこには眠ったままの彩加の姿があった。
「あんなに揺れたのに起きないのかよ……」
義凪の口から言葉が漏れたが、穏やかな寝顔を見て、思わず頬が緩む。
しかしこうはして居られない。
「佐伯、起きろ」
義凪が彩加の肩に手を伸ばしたその時、再び大きな揺れに襲われた。天井が軋む音と、ガラスの割れる音がして、義凪は咄嗟に彩加に覆い被さった。
揺れが収まり、義凪は恐る恐る顔を上げる。
彩加はまだ眠ったままだった。
「どんだけ爆睡してるんだ……」
少し呆れたのも束の間、徐々に恐怖心が込み上げてきた。
これだけの揺れでも起きないなんて、流石におかしい。
「佐伯」
呼びかけながら彩加の頬に触れた義凪は、驚いて手を引っ込めた。
冷たい。
呼吸はしている。けれど、こんなに冷たいなんて普通じゃない。
「佐伯、佐伯!」
義凪は彩加の肩を揺する。それでも彩加は目を覚まさない。
その時、遠くから近づいてきた足音が近くで止まった。義凪が振り向くと、意外な人物が保健室の入り口に立っていた。
「
「義凪、お前、なんでここに」
現れた要の肩が上下している。義凪はその台詞をそのまま返したかったが、今はそれどころではない。
「佐伯が目を覚さないんです。早く先生を呼ばないと」
要は半泣きの義凪を押し除けると、彩加に顔を近づけた。
「限界だ」
そう呟いた要は突然、彩加の掛け布団を剥いだ。
「先輩、何やってるんですか!?」
「邪魔するな」
要は低い声で言うと、腕を掴む義凪を睨みつけた。
今まで向けられたことのない、酷く冷たい氷のような眼差し。
たじろいだ義凪は要の腕から手を離す。
その時、遠くで何かが爆発したような音が響き、義凪の体は跳ね上がった。
「な、なんの音……?」
戸惑う義凪を気にも留めず、要は舌打ちする。
「
要が保健室の入り口に向かって叫んだ。
開いたままの入り口からのそりと現れたのは、これまで義凪が見たことのない、巨大な犬だった。
「うわっ! い、犬? 狼……!?」
長い体毛は白く、三角の耳は先が茶色い。金色の瞳が義凪をギョロリと睨んだ。
前半身にはハーネスが装着されていたが、街中で見かける犬のそれというよりも、競走馬が装着する手綱に近かった。というのも、その狼は人間が優に跨ることができるほどの巨体で、義凪の知る犬の規格からは大きく外れていたからだ。
「義凪、こいつに乗れ」
「えっ!?」
彩加を抱き抱えた要が狼の方へ歩きながら言うが、義凪は状況が飲み込めない。
要は北斗と呼ばれた狼の上に彩加を座らせて、義凪を睨む。
「乗れ。彼女だけでは体が支えられない」
「何言ってるんですか!? 早く病院に……」
その時、彩加の細い声が聞こえた。
「結城くん……」
「佐伯、大丈夫か!?」
義凪は狼の背中に乗せられた彩加に駆け寄った。彩加は目を伏せたまま、息も絶え絶えだ。
「仁科先輩の、言う通りに……」
「何言ってるんだ、早く病院に行かないと」
彩加が義凪の手を掴んだ。
「先輩の、言う通りに、してほしいの……」
彩加は必死で言葉を繋いでいた。弱い呼吸に反して、手には強い力が込められている。
義凪は迷った。自分の判断が彼女の命を左右しかねない。その責任に対する恐怖で頭の中が真っ白になった。
不意に彩加が目を開けて義凪を見た。そして目が合うと、そっと微笑んだ。
――こんな時でも笑うのか。
「……わかった」
義凪は彩加の手をぎゅっと握り返した。
「後ろに乗って右手で支えろ。左手で手綱をしっかり持て。絶対離すな」
要の指示の通り、狼に跨る。義凪が手綱を左手に巻きつけている間、要が小さな声で狼に話しかけていた。
どこに向かうのか訊こうとするより僅かに早く、狼が走り出した。
「うわっ」
後ろに倒れそうになり、慌ててバランスを取る。彩加を自分の右肩にもたれ掛けさせながら、右手でも手綱を掴んだ。
校舎を飛び出すと、狼はグラウンドを迂回して山手へ向かい、民家の間を縫うように走っていく。こんな巨大な狼が人に見つかったら大問題だと義凪はハラハラしたが、不思議と人の姿は見られない。地震のせいか、それとも。
(人目を避けて走っているのか?)
森と水田の間を走っている最中にも地響きと揺れを感じたが、狼は気にも止めず走り続けた。
やがて狼が足を止めたのは
狼が体を低くした。降りろということらしい。
義凪は彩加がずり落ちないように支えながら、まず自分が地面に立った。降り立った位置のすぐそばを川が流れ、飛沫が足にかかりそうだ。
「おっと」
意識のない彩加を北斗から下ろし抱き抱える。華奢な体は、怖くなる程軽かった。
「こんなところでどうしろと……」
仕方がないので狼の顔を見ると、金色の瞳と目が合った。そして次の瞬間、狼が素早く後ろを向いたかと思うと、後ろ足が飛んできた。
(!?)
義凪は声も上げられずに、彩加を抱えたまま川に落ちた。
*
気がついた時、自分がどこにいるのかわからなかった。ただ、体が背中からゆっくりと落ちていく感覚だけがある。
(川に落ちたんだ!)
義凪は慌てて体を起こす。水の浮力は感じるが、冷たさは感じられない。それどころか、流れが急な川に落ちたはずなのに水の勢いも感じない。
(息が……?)
ようやく強烈な違和感の正体に気がついた。水の中なのに呼吸が苦しくないのだ。
まさか自分は死んでしまったのだろうか。しかし義凪の腕は、眠る彩加をしっかりと抱いたままだ。
足が硬いものに当たったので、義凪は両足で立った。川底かと思ったが、足元には土も砂利もない。
水の流れがわずかに感じられるようになり、上流の方を向くと、何かが光っていることに気がついた。
見えない地面を、流れに逆らってゆっくりと進んでいく。
光の正体は、人の背丈以上もある巨大な結晶だった。氷よりも純度が高く、表面が滑らかに虹色に輝いている。
そしてその中には、女性の姿があった。
巫女のような赤い袴を身につけ、まるで祈りを捧げるかのように、瞳を閉じて両手を胸の前で組んでいる。長い黒髪が、水中で踊るように揺れたままの形で静止していた。
(綺麗だ……)
腕に抱いていた彩加がピクリと動き、見惚れていた義凪は我に返った。名前を呼ぼうとしたが、水の中であるためかうまく声が出ない。
彩加は義凪の腕を解いて立つと、結晶の方へ歩き出した。そして結晶に両手と額をそっと当てた。
「やっと会えたね」
彩加の声が、まるで義凪の耳の中で直接発せられたかのように響いた。
彩加は首を捻り、義凪を見た。その横顔は、泣いているような悲しそうな瞳で、微笑んでいた。
「ありがとう」
再び彩加の声が聞こえたかと思うと、突如視界が眩しくなった。
義凪は反射的に目を閉じ、腕で顔を覆った。そこで意識が途切れた。
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