神と少女、結ばれる
小夜を領主邸から奪還してから数日。
暇さえあればくっついてくる神によって、彼女は座布団に座った長い足の中に抱えられていた。
背に当たる厚い胸板と頭上から聞こえる声に、小夜はどきどきしてしまう。
その黒髪に顔を寄せながら、暁は事の終わりを伝えた。
「結局、領主の婚姻については全て帳消しになったようだよ……ねぇ、あの義妹たちは本当に殺さなくて良かったの?」
抱えられたまま小夜は首をゆっくりと横に振り、身を半分捻って真後ろを向く。
「暁が来てくれた時のあれで、充分すっきりしたよ。そりゃ、乙羽のことは嫌いだけど……あの領主と結婚させられて清々しいだとか、死んでしまえだとか、そんなことは思わない」
視線が合った小夜の瞳は澄み切っていた。
「神の力を使えるのだとしても? 復讐だって、手を貸してやってもいい。神がこんなことを言うなんて滅多に無いんだよ」
「私は村長邸の人たちみたいに、不幸を誰かに押し付ける人間になりたくない」
「もう君は、彼らと同じような
暁は真実を告げた。
あの日、小夜に寝惚けた散漫な思考のもと、神力を使って茶を与えてしまったこと。それによって彼女の生は正しい人間のものから逸れてしまったこと。
しかし小夜はその言葉に一寸の揺らぎすら見せず、暁を見据えたのだった。
「それでも」
彼女はきっぱりと言い切る。
やはり小夜はもう、自らがただの人になれないことを知っており、とっくに受け入れていたのだと暁は確信した。
小夜の脳内を覗いていれば、彼女が社を飛び出すようなことも無かったのではないかと暁はふと思う。
正直、今まで何度も彼女の思考を覗いてやろうかと思ったことはあった。それをしなかった理由はただ一つ。
もし小夜がこの社から離れたいとか、あの人間の男が好きだとか、暁に笑いかける顔の裏でそのようなことを考えていたら、自分はきっとどうにかなってしまうと思ったからだった。
かつて友だった悪趣味な男神を思い出す。小夜への愛を認めてしまえば、愛した少女の頭の中を見てしまえば、自分もきっと彼のように狂ってしまうような気がしていた。
しかし、そうやって奥底に沈めていた想いは結局、浮かび上がってきてしまった。
「小夜は、優しいね」
目の前の頭を撫でる。室内灯を反射して彼女の黒髪は艶やかに輝いている。
実のところ、土地神の末裔だと吹聴していた領主への沙汰は、既に済ませていた。
彼は正気を失い、絶え間なく続く幻覚と幻聴に死ぬまで苦しめられることになっている。
罪に対する罰がこれで足りるということはないが、領主の一族もこれで心を入れ替え、二度と愚かな真似はせず次代へと移るだろう。
「神の血筋を騙った不届きものへの神罰だよ」
小さく呟く。
小夜の暮らしていたあの村では、村長が失脚し別の人間へと変わったらしい。新任の村長は染伊屋の従業員らしく、既に村の通商を掌握したあの青年の息が掛かっているのだとすぐに分かった。全く、情報の速いことだ。
あの村の者から小夜の記憶の一切を消し去ることも考えたが、止めておいた。少なくとも今はまだ。
特にあの義妹にとっては、虐げていた義姉が神に愛されていると理解するほうが、記憶を消すよりもよっぽど堪えるだろうと思ったからだ。
またいずれ邪魔になればその時、あの場の全員を葬り去れば良い。神がたった指を一振りするだけで、全て終わるのだから。
『私の命は全部、暁のためにあるの。もう何処にも行ったりしない。残りの人生、暁のためだけに生きるから』
小夜を取り戻したときの彼女の言葉を思い出す。それが本心であることはわかる。
しかしあれだけ毎月毎月、あの商人の青年の話を楽しみにしていたのだ。外の世界へを知りたい、出てみたいという憧れがあったのは暁の目から見ても明らかだった。
だから暁は考えたのだ。勝手に出て行ってしまうくらいなら、いっそ目の届くように、自分が連れ出してしまえばいいのではないか。
「別にね、ここから出ないなんて誓う必要はないんだ。外の世界が見たいなら、私が連れて行ってあげる」
小夜は驚いたように目を見開く。徐々にその瞳は期待できらきらと輝き始めた。それはまるで、夜空に浮かぶ星のようだった。
そもそも神力を使えば、二年前の時点で小夜に関係する人々の記憶を消し、何のしがらみもないまま自由にしてやることだってできたのだ。
干渉するしないは結局、神の匙加減に過ぎない。
それをせずにいたのは、暁が小夜をこの社という籠の中に閉じ込めておきたかったからに他ならかった。
彼女が追手に怯える限り、この社から出ていこうとはしないはずだからと。
「暁は……新しい世界まで、私に見せてくれるんだね」
感動でさらに瞬く小夜の瞳の中の星をもっと近くで見たくて、顔を寄せてみた。
すると顔を赤くした彼女が瞼を閉じるものだから、元々の目的だったわけではなかったが、彼女の望み通り唇を戴くことにした。
ちゅ、と音を立てるだけの軽い口付けを交わす。顔を離してやると、小夜はぽつりと溢した。
「今まではこれも、拾った動物を可愛がるようなものだって、そこに深い意味は無いって思ってたけど。暁が口付けてくれるのは……私が好きだから?」
「そうだよ。私のことで頭がいっぱいになってしまえばいい、っていつも思ってた」
小夜が飛び出していったあとすぐに迎えに行かなかったのは、「神は去るものなど追わない」と意地を張ってしまったからだった。
しかし一夜明けても帰ってこない。これはおかしいと思って領内を神力で探ると、小夜が捕えられていたことが分かった。
異変を察知したのか女神も来ていて、小夜を気の毒そうに見ながらも「でもこれ、婚儀の最中に取り返したら劇的じゃあないかしらぁ!?」など好き勝手言い始める。
しかし、小夜が他の男のために婚礼衣装を着るのを、みすみす黙って見ていることなど出来るわけがない。そして名を呼ばれた暁は、人間たちにその場で罰を下したのだった。
取り返した小夜は酷く
くだらない躊躇などせずに早く小夜への気持ちを受け入れ、素直に伝えていれば良かったのだ。
「……はぁ。小夜が好きで可愛くて仕方がないと、もう少し早く認めれば良かったな」
自虐めいた響きで答えた暁の身体に、小夜がしがみつく。
その厚い胸に耳を当てても心臓の音は聞こえない。それは人間とは違う、神の身体だった。
一体どうやって動いてるんだろう。小夜がそんなことを考えながらしばらくくっついていると、暁は伸びた黒髪を撫でてくる。
頭から伝わる手のひらのあたたかさに、小夜は幸福感で満たされていくのを感じた。
(ああ、この神さまは本当に、私のことが好きなんだ)
薄墨色の着流しの上から、彼の胸に顔を埋める。
「私ずっと……暁がよくしてくれるのは、憐れみと、神力を与えてしまった責任感からだって思ってた。神さまに恋するなんて、身の程知らずで罰当たりだって、隠そうとしてた」
「……確かに最初はそうだったかもしれない。自分の始末をつけようと思って、生贄か花嫁かと突きつけてしまった。そのくせ人間を愛してしまったことを、なかなか受け入れられずにいたんだ」
暁も、思えば相当に見苦しいことをしてきた。愛着が湧いただのと色々と言い訳をしながら恋情を認めず、そのくせ自分の贈ったものを身につけさせたがった。
あまつさえ、取るに足らないはずの人間の男に
毎月隠れて小夜との会話を盗み聞いた挙句、最後には姿まで見せて脅した。
高貴なる神とは思えないやり口だったと自分でも思う。あの女神に呆れたような視線を向けられても仕方がなかった。独占欲が強いというにも限度がある。
「うん。それでも暁は、私を掬い上げてくれて、愛してくれた」
小夜は埋めていた顔を上げる。それは全て受け入れてくれるような眼差しだった。小夜こそが女神と呼ばれ崇められるべきなのではないか、なんて暁は本気で思った。
「私も、暁がいない世界なんて考えられないの、ずっと一緒にいて欲しい。ねぇ、だから……」
身長差のせいで上目遣いになった小夜の瞳は、潤んでいた。
「──ちゃんと責任、取ってね」
その言葉に堪らなくなる。顎を引き寄せ、瑞々しい苺のような小夜の唇に勢いよく噛み付いた。力が籠った指の先が小夜の黒髪に差し込まれ、そのまま一分の隙間すら許さないというように角度を変えながら唇を合わせ続ける。
「ん、んっ!」
長い口付けに慣れていない小夜は、上手く息が出来ていないのだろう。抗議するように必死に胸をぽかぽかと叩かれてしまったが、離してやらない。一瞬唇が離れた隙に、小夜は息を吸おうと口を開く。その隙間を見逃さず、暁は強引に舌を捩じ込んでやる。上顎をつぅ、と舌先でなぞってやれば、小夜はびくりと大きく身体を震わせた。
「んぅ!? なっ、ん……!」
小夜の鼻にかかった声がすぐ近くで聞こえ、頭の中が真っ赤に塗り潰されるような強烈な興奮が湧き起こる。思わず脚の間に抱えていた小夜の背を、そのまま畳に押しつけてしまう。
暇を持て余していた時代に適当な女で遊んだ経験もあったが、このような暴力的な昂ぶりは永い生の中で初めてだった。回路がいかれてしまった頭の唯一まともな部分でさえ、(このまま神力注いだらものすごく気持ち良いんだろうな)などと考えている始末だ。
「ふぁ……んむ、あっ」
声を出し続ける小夜の耳を両手で塞いでみる。ぐちゅ、ぐちゅ、と唾液が混ざり合うような音が脳に向かって直接響いているのだろう、小夜の身体がまた震えたのが分かった。白い指が覆い被さる暁の襟を必死に握るのが可愛くて、もっと虐めたくなってしまう。強張っていた彼女の力が段々と抜けていくのを感じ、さらに音を立てて吸い付きながらその口内を好き勝手に侵す。
やがてその華奢な身体が完全に脱力したのに気づき、口付けから解放してやった。自分の口を適当に袖で拭ってから、暁のせいでぐちゃぐちゃになってしまった小夜の小さな口を優しく拭き取ってやる。
目は涙で潤んだままとろんと蕩け、頬は熱にうなされているかのように火照っている。熱爛れたような唇は半開きになって、その奥には先程まで暁のそれと絡みあっていた舌が覗いていた。腹の底がずくり、と熱を持つ。それでも暁は、今すぐにでも奪ってしまいたい欲を飼い慣らし、銀の髪をかき上げた。
「ねぇ、小夜。君を娶るためは、神力を与えて私の眷属にしなくてはならないんだけど……」
神力を過分に分け与えれば、眷属となる。それは決して神ではないものの、神に準ずる存在。そのまま神から神力を分け与えれられ続けている限りは、不老不死に等しい身体を持つこととなる。
暁は己の唇に指を当てて、悪戯っぽく笑う。
「さっきみたいに口付けて直接神力を注ぎ込まれるのと、祝言の際に神酒を飲んで神力を得るの、どちらがいいかな?」
「な……!?」
それまで畳に身体を預け惚けていた小夜は慌ててぶんぶんと頭を振り、全力で後者を選んだのだった。
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次回、最終話です!
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