神、降臨する

「愚かな人間たちよ。──よくも、わたしの生贄に手を出そうとしたね?」


 それは、小夜が世界で一番大好きな声。

 

「この娘は私に捧げられた生贄。それを奪おうとは、神を愚弄ぐろうするに等しい」


 いつもより厳かな口調だった。その声を耳にした周りは皆、顔が青褪める事を通り越して白くなっている。


「見なくていいよ、こんなもの」


 耳元で暁の声が聞こえたと思うと、大きな手によって小夜の目が塞がれる。彼の袖の感触が顔に触れた。


(あぁ、この手……本当に、暁だ)


 視界が閉じられ、感覚器官から伝わる情報は、そこかしこから聞こえる悲鳴や引き攣った声だけになった。


 暁は小夜に見苦しい眼前の光景を見せまいとしてくれたのだろう。だけど、小夜にとって今そんなことはどうでも良かった。

 

 被された彼の手に、小夜の両手をそっと乗せる。

 

「でも私、暁の顔が見たいよ」


 ぴくり、とその手が一瞬揺れると、周囲の呻き声が止んだ。


 ゆっくりと顔から手が離され、半身を捻った小夜は、ずっと頭の中で思い描いていた朝焼け色の瞳と視線が合う。小夜はくしゃりと笑った。


「暁……助けに来てくれて、ありがとう」


 言葉を紡いだ瞬間、ぎゅっと強い力で抱きしめられる。布越しでも分かる厚い胸板に顔が押し付けられ息は苦しかったが、それ以上に愛おしさが募った。


 小夜も腕を彼の身体に回し、ひしりと抱きつく。

 

 このままずっとこうしていたい。そう思ったのも束の間、領主の震えた声が耳に入った。


「ひぃッ……嘘だ……まさか、土地神、さま……?!」


 暁は大きく舌打ちし、ため息をつきながら身体を離した。小夜は見たことのないその荒っぽい仕草に少し驚く。

 

「続きは帰ってからかな」

「ねぇ暁、この人たちにも姿を視せてるの?」

「どうして私がそんなことまでしてやらなくてはならない? 彼らには声しか聞かせていないよ」


 それなら弓彦と同じかと一瞬思ったが、その思考を掻き消す。きっと弓彦もこの惨状と同一視されたくはないだろう。


 改めて畳の上を見ると、伏せった彼らは苦悶の表情を浮かべていた。

 

 村長は自分たちには見えない神に話しかけているような仕草を見せる小夜に、信じられないというような視線を向けた。

 暁は一人だけ気絶している乙羽に目を遣る。


「あの娘は何を呑気に寝てるのかな」


 指をさして一振りすると、乙羽は一瞬痙攣し、目を開いた。


 身体が思うように動かせないことと、周囲の阿鼻叫喚の様子を見て恐慌状態に陥ったらしい。「いや、いやぁ……!」とうわごとのように繰り返している。


 暁はいつもの口調に戻っていたが、やっていることは結構怖い。

 

「小夜はこれ、どうして欲しい?」


 これ、と。まるで無機物かのように、暁は人間たちを指した。


「殺してほしい?」


 その声はあまりにも、いつもの音と同じだった。


(あぁ……暁にとっては、ここにいる全員を手にかけることくらい、何でもないんだな)


 神の感覚を人間と同じものと勘違いしてはならない。

 

 小夜はゆっくりと首を横に振った。

 そんなことを望んでいるわけじゃない。今、小夜の望みはただ一つ。見上げるようにして彼の目を見つめる。


「帰りたい、暁の社に」


 その言葉に暁は少し驚いたような顔をして、それから久しぶりに見るような優しい微笑みを浮かべた。


 引き寄せられた小夜は、再び彼の胸に顔を埋める。やがえ身体が少し離され、ちらりと袖の横から顔を出してみると、そこは見慣れた本殿の中だった。


「帰ってこれた……」

「危ない事をして。肝が冷えたよ」


 神に肝なんてあるのかと思いながらもほっと息をつくと、再び強く抱きしめられる。

 ぎりぎりと締め付けられ、内臓が出てきそうだった。慌てて暁の広い背中を叩いて解放を促す。


「うぐぐ、く、苦しいよ、暁」

「全く、私のもとから逃げ出そうなんて。困った子だ」


 必死の抵抗により少し力は緩んだが、それでも暁は小夜を決して離そうとはしなかった。


 どうしようもなく胸の鼓動が速まったところでふと、自分が砂まみれの状態になっていることに気づく。


 そういえば、引き摺られた挙句、あの牢獄で一晩寝ていたのだ。汚いし、髪だってぼさぼさだろう。


 顔から血の気が引く。このままでは暁まで汚れてしまう。


「暁、離れて! いま私、すごく汚れてるから」

「そんなことを私が気にすると──」


 思うのか、と言いかけていた暁がぴたりと声を止めると、腕の中の小夜をじろじろ見つめた。


 やっぱり汚いと不快に思ったのだろうか。申し訳なく思っていると、無言のまま暁は指を振る。


 瞬きした次の瞬間、小夜はいつもの薄紅の袴姿になっていた。頭皮の不快感も、腕にあったはずの汚れも消えていた。

 

 こんなに密着しているというのに、身を清めるだけでなく着替えも可能にするなんて、神力しんりょくとは一体どういう仕組みなのだろう。今更その力の不可思議さに息を呑む。


「これで汚くはないね......それに」


 自らが抱え込んでいる小夜を見下ろし、暁は鼻を鳴らす。


のままが良かった? あの人間から貰ったんだろう」


 そうだった、思い出した。

 小夜の着物を見て暁は急に冷たい態度になったのだった。『人間同士お似合い』だと言い放った彼の言葉が蘇り、ちくりと胸が痛む。

 

 確かに指の一振りで消えた着物と、捕らえられてからその懐に隠していた蝶の簪の行方は気になるが、まずは彼の誤解を解かなくてはいけない。


「あのね、暁。確かに着物は惣一郎から貰ったし、好意も伝えて貰った。だけど私『いてきてほしい』と言われて、断ってたんだよ」


 黙り込んだ彼は何も言わない。小夜は続けた。


「着物は……今度惣一郎が来たら、返すつもり。色々な領を回るから、しばらくはここに来れなくなるって言ってたけど」


 暁が今どこかへやってしまった着物は返してもらえるだろうか。


 引き摺られたせいで酷く傷んでしまっているかもしれないが、汚れてしまった事を謝って、それから修繕したものを返そうと思った。

 もし不要と言われてしまったら、どこかに寄付してもいい。気持ちを断った小夜が着続けるのは少し罪悪感もあったからだ。

 

 そして他にも小夜は言わなければならないことがある。

 

「……勝手に飛び出してしまって、ごめんなさい。迷惑かけるつもりは無かったの」


 暁への想いを伝えようとして、告白する前に突き放されたことに激しく動揺して、その場から逃げ出した。

 挙句に義妹に捕まって、領主の屋敷から救い出してもらってしまった。


「本当に、助けてくれてありがとう」


 心を込めて感謝を伝える。暁に感謝してるのはそれだけではない。


「私が今生きていられるのは全部、暁のおかげだよ。祠を壊したときに殺されたっておかしく無かったのに……このやしろに置いてくれて、自分で生活する術や勉強まで教えてくれた」


 治安の悪い道の上で奪い奪われ生きていた頃や、村長邸で息を殺していた頃では、一度たりとも考えられなかった暮らしだ。

 小夜はまっすぐに暁の赤紫の瞳を見つめる。


「私の命は全部、暁のためにあるの。もう何処にも行ったりしない。残りの人生、暁のためだけに生きるから」


 それは嘘偽りのない、決意表明だった。蜜は小夜の寿命をあと二百年ほどと言っていたが、その間全て暁の役に立つために捧げようと本心から思っていた。

 

 彼の瞳は、不思議な輝きを放っている。思わず吸い込まれてしまいそうな色。


 彼はゆっくりとその目を細め、小夜の頬に右手を当てた。親指が白い肌をすりすりと撫でる。

 

「ねぇ、小夜。私が何故迎えに行ったか、分かってる?」

「それは……暁が優しいから」


 小夜がそう答えると、彼は首を横に振った。暁から簡単な計算を教わっている中で、小夜が答えを間違ってしまった時と同じ顔をしていた。

 

「ふふ、本当に優しければ、君の育ての親という老婆はもう少し長生きしただろうし、あんなに愚かな人間たちのいる屋敷で暮らすことは一度も無かっただろうね。――優しさ、そんなもので神は動かない」


 暁は小夜をじっと見つめ続ける。


「神は去るものを決して追わない。本当は私だって、そのつもりだったのに」

「……じゃあ、どうして? どうして、暁は来てくれたの?」


 頬を撫で続ける指の動きに、心臓が高鳴る。思わずこくんと喉が鳴ってしまい、自分の胸に僅かな期待が入り込んでいることに気がつく。


 視界がほんの少しぼやけて、黒い瞳がが潤んでいるのだと自分でも分かった。


(だめ……自惚れてはだめ)


 そうやって自分を必死に抑える小夜に、暁は悪戯っぽく笑いかけた。

 

「本当は小夜も、分かってるんじゃないのかな?」


 頬を弄んでいた手がするりと下に降り、小夜の顎を持ち上げた。美しい顔が近づいてくる。


 そのまま小夜が瞼を閉じると、くすり、と笑い声が聞こえた。思わず目を開けそうになった瞬間、唇に柔らかいものが触れる。

 

 やがて重なった唇が静かに離され、小夜がゆっくりと目を開けると、こつんと額が優しく突き合わされる。


 堪えるのを諦めたように眉尻を下げた暁は、まるで教え込むかのように囁いた。


「小夜を、愛しているから。離したくないから、迎えに行ってしまったんだよ」


 思わず目を見開く。期待してしまっていたとはいえ、信じられなかった。


 開いた口がぱくぱくと動くが、言葉は出てこない。顔が急激に熱くなるのを感じる。

 

(暁が、私を──?)

  

 少しだけ赤味の強くなった、彼の強い瞳で射抜かれる。

 

「はぁ……小夜。もうあの世界には戻りたくないんだろう? 分かるね? 君の居場所は、ここしかないんだ」


 言い聞かせるようなその声には、じっとりとした仄暗い熱がこもっていた。顎に置かれていた手がまたするりと動き、小夜の耳を弄び始める。


「私はもう……小夜が他の誰かのものになることが、許せなくなってしまったみたいだから」

 

 ぼそりと呟いたそれは、彼自身が神そのものだというのに、どこか祈るような響きだった。


 じんわりと小夜の胸が熱を持つ。溢れる想いのままに、小夜も向かい合う暁の頬を両手で包んでみた。


「ねぇ暁、さっき助けてくれたとき……私のこと、神のって言ったよね」


 頬を染めながらも急に話が飛んだ小夜に、暁は怪訝そうな表情を向ける。

 

「それは言葉のあやというか、あの状況だったから……不満だった?」

「ううん。でも、生贄よりは──暁の、になりたいな」

「……え」

「私も好きだよ、暁」


 口を開いたまま、暁が固まる。遅れて彼の頬が赤らむ。二年以上一緒にいて、初めて見る顔だった。小夜は花が綻ぶように微笑む。

 

 そして、目を見開いている愛しい神さまの唇に、そっと自らのそれを重ねた。

 その日小夜は暁に、初めて自分から口付けを送ったのだった。

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