少女、叫ぶ

「明日あれと祝言をあげるのは──お姉さまよ!」


 格子の隙間に差し入れられた指が、小夜に向かって突きつられる。


 狂ったように高笑いを続ける乙羽に、傍に控える供の二人も驚いたように顔を見合わせていた。


 乙羽は元々癇癪かんしゃく持ちではあったが、小夜もこのような状態の彼女を見るのは初めてだった。


 壊れた人形のように笑い続ける声が、牢の壁に反響する。


「お姉さま、見ないうちに随分とましな見てくれになったのね。よく見るとその着物も上等なものだし……もしかして、何処かの成金なりきんの愛人にでもなっていたの?」

 

 あまりにもな失礼な発言に、きっと乙羽を睨みつける。


 二年前、肋骨の浮いていた身体やこけていた頬は、ほどよく健康的な肉付きになっていた。それもこれも暁が拾ってくれたおかげだった。


 上等なものだと看破された、自らの纏う着物をちらりと見る。

 

(惣一郎、ごめん)


 数刻前に想いを伝えてくれた友人を思い出す。

 呉服の市場を任された彼が初めて選んだ着物だと言っていた。


 ここに運ばれるまで無理矢理に引き摺られてきたせいで、砂で汚れがついてしまった。背中を押してくれた友の気持ちを蔑ろにされたのと同じだった。


 内心ふつふつと怒りが湧いてくる。


「何よ、その反抗的な顔ッ! ふぅ……ねぇお姉さま、これはもう決定事項なのよ。領主さまも大変喜ばれていたし」


(逃げなきゃ)


 このままでは二年前のように、強引に祝言を挙げさせられてしまう。領主との婚姻に思い詰めおかしくなってしまった乙羽のことは少し哀れに思わないでもないが、かと言って自分が生贄になるつもりは毛頭無かった。

 

 いつなら、どこからなら逃げられるだろう。

 

 婚儀の場所によっては、周りに助けを求めたり、隙を見て逃げ出せるかもしれない。ここで激しく抵抗すれば、隙を作ることも難しくなる。


 まずは冷静に、情報を集めなくてはならない。込み上げてくる怒りを抑え、心を無にして目の前の義妹に話しかける。


「……分かったよ、乙羽。それで婚儀はいつ、どこで行われるの?」

「やだ、ついに観念したの? 頭の悪いお姉さまでも、ようやく逃げられないって分かったみたいね。婚儀が行われるのは明日の夜、隣にある領主さまの本邸よ!」


 愕然がくぜんとする。お詣りだの言っていたことから、せめて東雲神社で行われるのなら勝機はあると思っていた。しかしそう上手くはいかないらしい。


 この牢のすぐそばの屋敷となっては逃げ場がない。恐らく移動の際は、見張りだってつけられるのだろう。


(どうする、どうすれば)


 圧倒的に悪い状況を理解し、焦りで思考が滑り落ちていく。


「婚儀が終われば、そのまま床入りよ。きゃはははっ、お姉さまと領主さまの子、見るのが待ち切れないわ!」


 それを聞いてぞっとする。乙羽の言葉から、床入りというのはすなわち子を成すことだと推測できた。つまり、いつだったか暁が教えてくれた人間の生殖行為のことだ。


(嫌だ……!)

 

 暁の淡々とした教え方からは具体的に想像がつかなかったが、あのでっぷりと脂ぎった手で身体の隅々まで触られると思うと、気持ちが悪すぎて鳥肌が浮き出てきた。しかし後ろ手に縛られているため、腕を摩ることすら出来ない。

 

 一瞬で顔を青くした小夜を見て、乙羽は邪悪な笑みを浮かべる。


「それじゃあお姉さま、また明日」


 軽やかな足取りとともに、彼女は地下牢から出て行った。


 供についていたうちの一人が格子の前に見張りとして残される。村長邸では見たことのない顔だった。彼はちらりと乙羽の後ろ姿を見ると、痛ましそうな視線を小夜に向けた。

 無理だと思いつつ声を掛けてみる。


「ねぇ、逃がしてくれたり……しない?」

「まぁ、アンタのことは気の毒だと思うがよ。俺にも生活ってもんがある。諦めてくれ」

「だよね」


 予想通りの返事だった。ほんの一欠片の期待が打ち砕かれる。しかしどうにか逃げるための情報が欲しくて、話しかけ続けた。


「本邸ってすぐ近く?」

「この別邸と隣接してるよ、一つの通路で繋がってる。逃げるのは無理だと思った方が良い」


 意外にも彼は小夜の問いに答えてくれた。同情しているのだろう。少しでも何か方法はないかと必死で頭を回転させる。


「私、東雲神社で巫女をしてるの。だけど勝手に連れてこられたから、明日のお勤めが出来なくなっちゃった。それってここにいる皆にとっても罰当たりなことだよね? せめて神社に、手紙か何かを届けてもらうことはできない?」


 弓彦に手紙か何かを渡して貰えれば、助けてもらえるかもしれない。


 神社の威を借りるのは少し卑怯な気もしたが、そうも言ってられない。見張りは「罰当たり」という言葉に少し怯んだ様子を見せていたが、すぐに首を横に振って肩をすくめた。


「いや、そもそも領主さまは土地神さまの末裔って話だぜ。罰も何も無いだろ。それに、余計なことをしたら俺の首が飛んじまう」


 土地神の末裔まつえい


 そういえば逃げ出した日、乙羽がそんなことを言っていた気がする。領主が神の末裔だから、村長の娘に来た婚姻の話を断れば、村に祟りがあると。


 こんな話があるから乙羽も小夜が再び現れるまで、婚姻に対して何も反抗できずにいたのだろう。

 

 そもそもその話だって眉唾だ。土地神の末裔ということはすなわち暁の子孫ということになるが、暁からも蜜からもそんな話は聞いたことがない、


(でももし本当に、暁に子孫がいたら?)


 かつては誰か人間の女を愛し、子を成したというのだろうか。考えるだけで胸が切り裂かれるように痛い。

 

 暁の美しい姿が脳裏に蘇った。そこで小夜はふと思う。


(いやでも、もし暁の子孫なら、あんなに下品で汚いおじさんにはなるはずない!)


 失礼な話だが、あの人智を超越した美貌を持つ暁の血が流れているのであれば、それが何代先だろうとあれほど品性の欠片も無い男が生まれ出でるはずがない。


 ましてや神の祟りを振りかざし、息子よりも年若い少女を無理やり後妻にあてがおうなどという、悪逆非道な行いをするはずがないのだ。

 

(祟りなんて起こるわけない。やっぱり、どうにかして逃げなきゃ)


 唇を噛み締め、再び考える。


 婚儀というくらいだ、まさかこのまま縛られたまま行うことはないだろう。恐らく化粧をされたり婚儀のための着物を着せられたりするはずだ。その時が逃げ出す一番の機かもしれない。

 

 ふぅ、と息を大きく吐く。勿論それすら、成功する可能性が著しく低いということくらい分かっている。


 しかしこの牢屋で今出来ることはもう無かった。


(誰か助けに来て、なんて)


 背にべたりと張り付く絶望感に、じんわり視界が滲んでいく。堪えきれず、涙が流れてくる。


(暁……)


 最後に見た彼の姿を思い出す。あの時確かに、暁は怒っていた。何が気に障ったのか分からなかったが、明らかに彼の声は冷たかったのだ。

 

 領主と婚姻なんて反吐が出る。


 今までどんな気持ちで暁への恋心を隠してきて、どんな気持ちでやっぱり伝えることを決めたと思っているのだ。


 このまま乙羽たちの思惑に絡め取られたまま言いなりになるなど、絶対に嫌だった。


(神さまなら、今私がどうしているかも、視ようと思えば出来るはずなのに)


 天気すら操れると豪語していた暁のことだ。最初の祭りの日、力を使って周囲から見える姿を欺いてくれた暁のことだ。

 今小夜がどうなっているか確認することなんて容易いだろうに。

 

 何で助けに来てくれないの、なんて責めるようなことを考えてしまって、また自己嫌悪に陥る。


(ううん、私が悪いよ)


 あの時、逃げなければ良かった。逃げずに彼が怒っている理由を聞いて、惣一郎に関する誤解だって解けば良かったのだ。

 

 あるいは、惣一郎の告白を受けていれば良かったのだろうか。彼なら間違いなく領主たちから守ってくれただろうし、見つかることも無かった。一瞬だけそんなことを考えてしまって、また頭を横に振る。

 

 暁を愛してしまい、彼のもとで尽くすと決めたのは小夜だ。そして告白を断ったのだって小夜だった。いくら弱っていたって、そんな都合の良いことを言うわけにはいかない。


(神は、人間に干渉しない)


 思い出す。


 そうだ、神は人間に干渉しない。暁や蜜の顔を思い浮かべる。それが不文律なのだ。干渉するには、始末を自分でつける責任が伴うから。


(かつてどれだけ願ってもお婆さんの病は治らなかったし……今どれだけ願っても、助けは来ない)


 だから最初に領主と婚姻を結ばされそうになった時だって、自分の足で逃げ出したんじゃないか。小夜は自らの頬をぺちんと叩いた。


(今は少しでも体力を温存しないと。──明日ここから逃げ出すために)


 小夜は身体を丸める。牢屋は罪人を収容する場所らしく汚い。隅を見れば虫が走っているのが見えた。しかし、こんなの一人ぼろぼろの空き家で過ごしていた昔を思い返せばどうってことない。


 夏用とはいえ、ひんやりと冷たい石製の床から肌を守ってくれる着物が心強かった。緊張と焦燥に包まれながら、いつの間にか小夜は眠りに落ちていた。

 

 


 **


 


「起きろ」


 がしゃり、と錠が開けられる音と共に目が覚める。


 もう朝なのか。日の入りの光なんてこの地下牢に届くはずもなく、ずっと薄暗いこの場所では時間感覚も無くなっていた。


 見ると既に見張りは交代しており、昨日乙羽に着いてきていたもう一人の男が牢の中に入ってきた。力任せに引っ張られ、腕がずきりと痛む。


「痛い!……自分で、歩けるから」


 緩められた力のもと、従順な振りをして階段を登る。


 そのまま連れて行かれたのは、平べったく低い大きな茶色の机が置かれた客間だった。


 中にいる人間たちが一斉に、両腕を抱えられたまま連れて来られた小夜の方を向く。


「ほう……本当に生きていたなんてな、小夜」

「本当ですわよね、お父様。この乙羽、お姉さまがご健在で嬉しく思いますの」


 口髭を生やした中年の男──村長だった。二年前より頭髪も口髭も減り、少し痩せたように見える。その代わり、瞳は卑しい光でぎらついていた。

 その横には乙羽が扇で口元を隠し笑っている。


 小夜が思わず睨みつけると、机を大きく叩いた村長が立ち上がり怒鳴った。


「何だその無礼な顔は! 誰がお前を拾って、何年も育ててやったと思っているんだ!」


(殴られる……!)


 小夜は思わず目を瞑った。激高村長の表情には覚えがある。村長邸では、彼の機嫌が悪い時に何度も殴られたのだった。

 しかし、覚悟していた拳は降ってこなかった。


「はッ! 婚儀当日に、花嫁の顔を殴るわけにはいかないからな」


 小夜は唇を噛んだ。嘲るような村長の視線が苛立たしくて、悔しくて堪らない。


 ぎっと睨み返ししていると、後ろからどすりどすりと床が軋む音が耳に入る。村長の視線が小夜の背後に向くと、彼の表情が一変した。


 遅れて小夜も振り返ると、そこには着物の上からでも分かる見事な三段腹をし、残り少ない脂ぎった髪を寄せ集めた背の低い肥満体型の男がいた。


「昼から一体、何の騒ぎじゃ?」

「これはこれは、領主さま! お早いお見えで……申し訳ありません、うちの小夜はまだ支度もしてませんで!」


 村長は急にへこへこと頭を下げ出す。村長の方は痩せ細ったように見えるのに、領主の方は二年前よりさらに肥えたように見えた。

 

 惣一郎が以前、米の不作や領主の税の課し方について話していたことを思い出す。小夜が思っているよりも村は今貧しい状態になっていて、余計に領主の顔色を窺っているのかもしれない。


「おぉ、小夜か。美しゅうなったなァ……ふぉっふぉっふぉ、今までどこに隠れていたかは聞かぬ。大方、そこらの男の愛人にでもなって、追い出されたというところだろう?」


 領主は乙羽のような下衆の勘繰りを始める。にちゃりとした笑みが、不愉快極まりなかった。


「良かったなァ、ワシは器が大きい。美しく成長した姿に免じて、その程度のことは目をつぶってやろう」

「ほら小夜、寛大なる領主さまに感謝せんか!」


 何が器が大きいだ。こんなことをしておいて馬鹿馬鹿しい。

 

 領主の舐め回すような下劣な視線に、横からしゃしゃり出てきた村長の勝手な命令口調に、その背後で扇を顔から離して嗤っている乙羽に、我慢出来なくなった。

 

 ここで余計なことを言って事を荒立ててしまえば、この後逃げ出すのがより困難になることは頭の隅では分かっていた。それでも言わずに居られない。


「誰が……誰があんたなんかと結婚するものか!」


 小夜の剣幕に、村長と乙羽が青褪める。にたにたと笑っていた領主の顔から、急に表情が消えた。


「お前、自分の立場が分かっているのかね? ワシが誰だか、分かっているのかね? なァ、村長どの」

「は……ははぁっ! 小夜、今すぐ謝りなさい! 領主さまは、土地神さまの末裔だぞ!」


 慌てて駆け寄ってきた村長が、両腕を固められている小夜の頭を無理矢理下げさせようとする。


 小夜は頭を振って力を振り絞り、激しく抵抗した。


「嘘つき! 土地神さまの末裔だなんて全部嘘のくせに!」


 小夜は渾身の力で腕を固めてきた見張りを振り払い、その勢いを肩に乗せ、村長を突き飛ばす。

 

 そして小夜は後ろ手に縛られたまま背を向け、出口を目指して走る。しかし五、六歩駆け出したところで、見張りの男に手首が掴まれてしまう。


 領主のぎょろりと血走った目が小夜に向けられる。


「領主のワシに向かって、嘘つきとは何だ!」


 村長が拳を握りしめながら、拘束された小夜のもとに走ってくるのが視界の端に入ってきた。今度こそ殴られるのだろう。

 しかし小夜は領主を真っ直ぐ見据え、逆流する血に任せて声を張り上げた。

 

「祟りなんてあるものか! 本物の神さまは、こんなことしない!」

 

(まだ想いも伝えてないのに、こんな――!)

 

 頭の中にただ一人、朝焼けの瞳を持つ愛する人を思い浮かべ、声の限り叫んだ。


「暁っ!」


 その瞬間、小夜以外の部屋の全ての人間が崩れ落ちた。

 

 見張りの男たちはかくかくと腕を振るわせながら必死に起きあがろうとするが、叶わない。乙羽は白目を剥いて後ろに倒れ、領主と村長は苦しげに喉を押さえている。

 

 詩でも詠むかのような朗々とした美しい声が、背筋も凍るような恐ろしい声が、その場にいる全員の脳内に直接響く。


「愚かな人間たちよ。──よくも、わたしに手を出そうとしたね?」

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