少女、絶体絶命に陥る

「そんな着物、持っていたんだね?」


 それはあまりに冷淡な声だった。背筋が凍る。小夜は村長邸に連れて来られる前、死にかけたあの冬の日の寒さを思い出す。

 

 怯んでしまいそうになったが、きゅっと袖を握って堪える。何のためにここまで来たのか、忘れてはいけない。

 

「惣一郎がくれたの」

「男が女に着物を送る意味、分からないの?」


 暁の言いたいことは分かる。男が女に着物を送る意味とはそれ即ち愛の告白に他ならないだろう、と言いたいのだろう。

 

 しかしそれを言うなら、暁だって身に纏うものを小夜にくれたじゃないか。


 普段着用している薄紅の袴、二年前の祭りの日に寄越された梅紫の浴衣。


 そこまで思い返して、その日花火を見ながら初めて口付けられたことまで脳内に蘇ってしまった。頬が熱くなり、じんわりと目が潤んでくるのを感じる。

 

(こっちは、男が女に口付けする意味だって分からないのに……!)

 

 あの口付けを、小夜はずっと気合いで忘れようとしていた。だというのに、やっと暁から距離を取ることに慣れ始めてきた一年前の祭りの日、彼は二度目の口付けまでしてきたのだ。


 簡単にそんなことしないでほしい。そんなことを思いながら、不意の出来事に慌てて逃げるくらいしか出来なかったのだった。

 

 そんな記憶を思い返しながらきゅっと口を引き結び、暁を見上げる。すると頬を染めた小夜の何を勘違いしたのか、暁の眼差しはより一層剣呑けんのんになる。


 寒色暖色入り混じっている瞳の色は、今日は紫が強いように見えた。

 

「へぇ、その反応。ふぅん……彼、真面目そうだし、豪商の跡取りというくらいだ、金もありそうだったね」

「ねぇ、一体何の話?」


 話がよく分からない方向に進んでいっている気がした。そもそもどうして着物の話になったのか、そこから惣一郎の話になったのか、小夜は掴めなかった。


「あの商人に、好きだとでも言われたんだろう?」

「えっ……!?」


 どうして分かったのだろう。小夜が驚いて目を丸くすると、また一段階本殿内の温度が下がった気がした。小夜から目を逸らした暁は、「やっぱりね」と呟いた。


「良かったね、小夜」

「な、にが……」


 嫌な予感がして、訊ねる声が震える。何が良かったというのか。まさか暁は、小夜が彼の想いを受け入れたと思っている?

 

 否定しようと口を開いた瞬間、無慈悲な神の声が耳をそろりと撫でる。

 

「人間同士、似合いだと思うよ」


 小夜の小さな胸の中で、何かが折れたような音が聞こえる。告白するための勇気は完全に打ち砕かれ、萎んでしまった。

 先程までは勇んで暁に想いを伝えようとしていたところだったのに。


『似合い』。

 

 つまり暁は、小夜と惣一郎が想い合うことを良しと言ったのだ。まるで谷底に突き放されたような心地に、頭の中が真っ白になる。上手く息が吸えなくて、頭がくらくらとしてきた。

 

 今更、惣一郎の結婚の申し出は断ったと伝えたところで何になる? 暁からこんなことを言われて、想いなんて打ち明けられるわけがなかった。

 

 一歩、二歩、後ずさる。何も考えられない、声も出せない。恐慌状態に陥った小夜は本殿の暁に背を向け――裸足のまま飛び出した。


「はっ、はっ……」


 地面に足をつけた瞬間、小夜は深く後悔した。社の中は砂利で敷き詰められている。足の裏に砂利が容赦なく刺さり、自重で沈むたびに肌を傷つけていった。


(痛い……!)


 しかし暁の前から逃げ出しておいて、今更引き返すこともできない。立ち止まって雪駄せったを履きに戻ることだって不可能だ。


 痛みに顔を歪めながら、小夜は息を切らして走った。全速力で駆け抜けたのなんて、それこそ二年前村長邸から逃げ出して以来になるだろう。


 本殿に篭りきりで体力などない小夜は朱色の鳥居をくぐったところで立ち止まり、くったりと柱石に身体を預けた。

 

 初めて一人で鳥居の外に出てしまった。暁も惣一郎も誰もいない。祭りの二度ほど出歩いたことがあるはずの外の世界は、まるで初めて見たものかのように現実味が無い。その景色には一欠片の親しみすら生まれてはこなかった。


 惣一郎がくれた着物は夏用とはいえ、太陽の下では帯を中心にじっとりと蒸れてくる。背中に汗が滝のように流れるのを感じ、肌着の長襦袢ながじゅばんがびしょびしょになって気持ちが悪かった。


 簪が挿された頭もまた、ぐしゃぐしゃに乱れていた。 陽の光が眩しくて、目を細めてしまう。


 まだ太陽の位置は高い。初夏の空気にはぼんやりとした不快な熱気が込められていた。


「はっ、はぁ……はぁ……っ」


 全力で走ったせいで耳鳴りが治まらない。自分の呼吸の音も直接頭の中に響いてくる。


 急に負荷が掛けられた脚は鉛のように重たい。

 

 しかし何より厳しいのは、汗だくの身で浴びる強い日差しだった。長い裾を引きながら、小夜は日陰を探すために歩き出した。

 

 しかし日が頂点に近いせいで、まともな日陰が見つからない。

 段々と朦朧とする頭でうろうろしていると、大通りに辿り着いた。


 定まらない視点でふらふらと周りを見ると、一際豪奢ごうしゃな着物を纏い、数名の供の者に日傘を差させている若い女が目に入った。

 

 彼女も道の真ん中にいるおぼつかない足取りの小夜が視界に入ったのだろう。

 品の良さそうなその一行と視線があった。


 近づいてきた彼女は、信じられないというようにぽかんと口を大きく開いた。

 

 それは、小夜の顔だった。


「あ……あぁ……」


 絶望で目の前が真っ暗に染まる。先程まであれほど暑いと感じていた体内の熱が一気に引いた。


 顔を真っ青にした小夜に気づいたのだろう、目の前の少女は驚愕に見開いていた目をゆっくりと細めた。


「......お久しぶりですわね──お姉さま?」


 いつの間にか周りは彼女の供に取り囲まれていた。そのうちの一人に腕を掴み上げられるが、全く身体に力が入らず、何の抵抗もできなかった。

 

 目の前の少女は扇子を開き、笑みが溢れる口元を隠す。小夜は彼女から視線を逸らせなかった。


 掠れた声が、小夜の唇から漏れる。


乙羽おとは……」


 そこに居たのは目をぎらぎらと光らせた、かつての義妹、乙羽だった。


 


 **




 ずるずると囲まれて引き摺られていった先は、知らない屋敷だった。村長邸より一回り小さいくらいだろうか。


 門をくぐったところで、首筋に鋭い衝撃が走る。手刀を入れられたのだと気づいた次の瞬間には、意識を失っていた。


 目が覚めると小夜は、薄暗い地下牢のような場所に入れられていた。三方を石畳に囲われ、残りの一方には格子が掛けられている。


 身体を起こそうと身じろぎすると、手首と足首に引き攣れるような痛みが走った。後ろ手にきつく縄で縛られていたのだ。

 

 見張りの男が小夜が目覚めたことに気づき、階段を登って行った。仲間を呼びに行ったのだろうか。

 

 小夜は寒さに身震いする。石畳の冷たさに加え、着物の中の汗が冷えたのだろう。


 辺りを確認しようとしたが、あの見張りが灯りを持って行ってしまったせいで、ほとんど何も見えなくなってしまった。

 

 しばらく縄をどうにかできないかよじっていると、階段からぼんやりと灯りが下ってくる。


 牢の前に歩み寄ってきたのは、先程の見張りの男を含めた二人の屈強な男、そして乙羽だった。


「乙、羽……」


 名前を呼ばれた乙羽は次の瞬間、小夜の前の格子を草履で思い切り蹴り飛ばした。


 何度も蹴り上げられたそれはがしゃん、がしゃん、と大きな音を立てる。一通り気がおさまったのか、草履を戻した彼女は扇で口元を隠した。


「お姉さまったら一体、今までどちらに隠れていらしたの? この乙羽、とってもお会いしとうございましたのよ?」

「此処は、どこ……」


 乙羽の口調が二年前とは少し違って聞こえる。何だかねっとりとした気取った感じの喋り方だった。

 

 聞きたいことは沢山あったが、まず今いる場所を訊ねる。一体何処へ連れてこられたというのか。

 

「えぇ、えぇ、教えてあげる。ここは私や数名の村の者が滞在している、領主さまの別邸。その地下牢ですわ」

「領主、さま……」

「そう、領主さま」


 そう肯定した乙羽は、突然声を荒げた。

 鬼のような形相で、小夜よりも長い黒髪を振り乱す。


「お……お前のせいよッ、お前が逃げ出したせいでッ! この私が、あの老いぼれ狸と結婚しなくてはならなくなった!」


 以前、惣一郎に生い立ちを話した時の話を思い出した。


 領主と乙羽が近々婚姻を結ぶことになったと。せっかくの生贄が逃げてしまったせいで、元の通り村長の次女ということになっている乙羽が、あのでっぷり肥えた領主の婚約者に下げ変えられたのだろう。


 そもそも初めから身代わりを立てる時点で酷い話だが、彼女が怒り狂っている理由がやっと小夜にも分かった。

 

 大声で怒鳴っていた彼女は急に静かになると、今度はけたけたと笑い出した。


「……ふふふ、あはっ、あはははっ! でも、天は私を見捨てなかった!」


 乙羽は格子こうしをぎりぎりと掴み、口角を歪に吊り上げる。


「祝言の前日だからと、東雲神社にお詣りに行かせられていたら……まさか! お姉さまが出てくるなんて!」


 神社近くの大通りで鉢合わせしたのはそういう事情だったのか。

 

 前日。つまり明日が祝言の日ということだ。よりによってそんな間の悪い日に外に飛び出してしまったとは。小夜はきりきりと唇を噛む。


 目を魚のようにぎょろりと大きく見開いた乙羽は、床に転がる小夜を見下ろすと、とびきり醜悪な笑顔で言い放った。


「明日と祝言をあげるのは──お姉さまよ!」

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