神、威圧する

 惣一郎は東雲神社の奥にあるいつもの道を上っていた。


 毎月毎月行き来する道、今更迷うはずもない。しかし今日は歩いても歩いても小夜の居る本殿へ着かない。


 よく見れば周りの木々もずっと同じものが繰り返されているような気がする。小夜に会えると浮かれながら歩いていた惣一郎も、ようやくおかしいと気づいた。


「此処は……」

「君、どうしてこんなやしろの外れに来たの?」


 背後から声が聞こえた。ばっと振り向くと、見たこともない銀髪をゆるく後ろで結んで垂らし、不思議な赤紫色の瞳をした美しい男が腕を組んでいた。


 多くの土地を駆け巡ってきた自負があるといえど、このような美男子は今まで目にしたことがなかった。

 

 歳の頃は二十後半ほどに見えるが、突飛な髪と瞳の色のせいで推察するのが難しい。外国人だろうか。それにしては話し方に訛りもない。


 それに声をかけられるまで気配に気づかなかったがまさか、後をつけられていたのか。惣一郎は警戒しながら答える。


「友達に、会いに」

「友達? 小夜のことかな」

「小夜の知り合いですか?」

「……知り合い、ね。ふふ、小夜を拾って此処に置いたのはね、私なんだよ」


 口元を隠しながらその男は目を細める。


 小夜は村長たちに追われていたところを東雲神社に助けられたと言っていた。てっきり弓彦が保護したものだと思っていたが、目の前の彼だったのか。


 それなら、この美丈夫は小夜の恩人であるはず。だというのに、惣一郎の背筋にぞくりと冷たいものが走った。


「君、小夜のことが好きなの?」


 そして彼は単刀直入に、何の前触れもなく聞いたのだった。惣一郎は固まる。


「な、何を……」

「毎月来てるよね。物を贈ったりもしているようだし」


 そんなことまで把握されている。小夜から聞いたのだろうか。


 しかし小夜を拾った人物だ、彼女のことを心配し、寄ってきている男に目をつけたのかもしれない。仮に保護者のような立ち位置なら、今後のためにも心象を良くしておくべきだ。


 一瞬でそこまで思案し、惣一郎はたたずまいを直す。そして赤紫の目をまっすぐに見て言った。


「はい。小夜を、愛しています」


 その途端、惣一郎は身体に崩れ落ちそうになるほどの重力を感じた。くらりと身体が傾きかけたのを、足を踏ん張って堪える。


 流行りの風邪に罹った時とは比べ物にならないような、酷い寒気が止まらない。冷たい汗がだらだらと背を流れた。

 

(何だ、これは)


 急に身体が言うことを聞かなくなり、頭が真っ白になる。ぐらぐらと視界が揺らぐ中、男の赤紫色だけが目に入った。

 

 朝焼けの色が、今までこんなに冷たく見えたことは無かった。


「へぇ、頑張るね。だけど、あまり無理しない方がいい」


(まさか……笑っている?)


 明らかに様子のおかしくなった惣一郎を前にして、彼は心配するどころか、愉快そうに笑っているようだった。

 それはありを水溜りに浮かせて、もがく様を観察する残酷な子どものような目。


「何を……」

「愛している、ねぇ。──君と違って小夜が、としても?」

「は……」


(どういうことだ?)


 あまりの悪寒の酷さに、頭が働かない。いや、悪寒が無くとも理解はできなかっただろう。

 

 目の前の美男子を睨みつける。背景と混じりぼやけていたその輪郭を、どうにか一本の線に戻す。銀髪、赤紫の目、おまけにこの急激な体調の悪化。

 

 彼は言った。『君と違って』、と。


(つまり、この男も小夜も……人間では、無い?)


「ご名答。まぁ、小夜と私もまた違うけれどね。察しの通り、私は人間ではないよ」


 どうして考えていたことが分かったのだろう。惣一郎の思考をそのまま読んだかのような口ぶりだった。


 そう、人間ではない。そんなことが、出来るのは。

 

「神……?」

「よく分かったね」


 その褒めるような言い方も、出来の悪い生徒が珍しく正解に辿り着いたときの教師のようだった。


 一つ分かることは、今自分は対等な立場にいないということだ。


 この上位存在の機嫌一つで、一寸先に命があるかが決まってしまう。これは次元の異なる存在だ。そう肌で感じてしまった。


「小夜はこの先あと数年──すなわち肉体の全盛期を迎えて以降は、しばらく年を取らなくなる。君が年老いても彼女はずっと若いまま。そして君が死んでからも、百年以上は生きるだろうね」


 理解が追いつかない。

 平時は理知的な判断をする脳が『そんなことはあり得ない』と主張する一方で、惣一郎の直感は、これが事実であると確信していた。


「それでも彼女のことを愛せるというのかな? ──所詮しょせん君は、ただの人間に過ぎないのに」


 ようやく惣一郎は、自分がこの神に心底嫌われていることに気づいた。

 ずっと微笑んでいると思っていた彼の表情の、その目だけは全く笑っていないことにも。


 恐らくこの神は小夜のことを、並外れた度合いで大切にしているのだ。だから小夜を恋い慕う人間に圧をかけている。

 いや、圧どころでは無い。これはもはや剥き出しの殺意だった。

 

 ぐらり、と。また視界が定まらなくなってきた。


 しかし今瞼を完全に閉じれば、重心を保てなくなって今度こそ崩れ落ちるだろう。


 惣一郎は、目に力を込めて堪える。すると小夜の姿が視界に映ったような気がした。まず間違いなく幻覚だとは分かっているが、思わず追ってしまう。

 

 惣一郎は小夜に出会った日を思い出す。


 足となる馬を置いた途端賊に襲われ、怪我を負いながら安全と思われる神社の中へ飛び込んだ。それでも追って来ていたら面倒だと思い社の中を駆け抜けたところで、変な道に入ってしまった。


 しかし引き返すわけにもいかない。仕方なしに上っていったところ、彼女に出会ったのだ。

 

 倒れ込んだ惣一郎を見て慌てて寄ってきた小夜は、下手くそな手当てを始めた。


 心配そうに手を握ってきたかと思うと、座布団や毛布なんかを持ってきて、今度は惣一郎に巻きつけてきた。そして回復した後日礼を伝えると、顔を紅潮させながらはにかんだのだった。


 身体は真冬のように凍え切っていたが、小夜の微笑みを思い出すと胸の中だけは温まってくる。がんがんと嫌な音が鳴り響く頭で、惣一郎は彼女を想う。

 

(そうだ。例え彼女が、人間ではないとしても)


「それでも俺は……小夜を愛して、います」


 目の前の神は変わらず無表情のまま、「そう」とだけ呟いた。


 苦痛に喘ぎながら肩で息をしていると急に、身体を攻め立てていた圧が消える。

 力が消えた反動で惣一郎は膝をついてしまう。慌てて顔を上げれば、神は既にいなくなっていた。


 惣一郎は息をしばらく整える。


 昼過ぎだったはずの青空は、橙色に染まり始めていた。

 恐らくあまり時間は無い。道をひたすら上っていたときも、あの神と対話していたときも、どれほどの時間が経過していたというのだろうか。


 激しい運動をした次の日のように痛む脚を叩いて、再び道を上る。そこには、いつもより遅くやってきた惣一郎を怪訝そうに見つめる小夜がいた。

 彼女の漆黒の瞳を見て、安堵する。

 

 茶を淹れようと背を向けかけた小夜を制止した惣一郎は、背負っていた箱から風呂敷に包まれた物を取り出した。


「少し前、呉服ごふくの取り扱いも始めたと言っただろ?」

「うん」

「俺が選んだ着物だ。生地も柄も帯も、全て俺が自分で選んだ。小夜のために」


 差し出された風呂敷包みを小夜は押し返す。

 困ったような顔で彼女は言った。


「こんな良いもの、貰えないよ」

「前に助けて貰ったときの礼だと思えば良い」

「それならあの時、簪をくれたでしょう。惣一郎、その後も事あるごとに何か寄越そうとしてくるし」

「あんなので足りると思うなよ。それに、最初に着物を仕立てるなら小夜にって、決めていたんだ」

「どうして?」


 眉尻を下げながら、小夜は思わず訊いた。惣一郎はその問いには答えず、真剣な眼差しで彼女を見つめる。


「次来たときに話す。だから小夜も、来月はこの着物を身につけて欲しい」


 そして包みを強引に渡すと、彼は四阿あずまやに腰掛けもせず、暮れかけた日を背景に去っていった。全く困り果てた小夜は、手に押し付けられた包みを見遣る。


「もう、どうしろって言うの……!」

 



 **

 


 

 小夜が、自分といるより惣一郎といる方が楽しそうにしているのが気に食わなかった。神の社でこそこそと女を口説こうとしているあの男が気に食わなかった。

 

 暁はそんな理由で、本殿を目指す惣一郎に話しかけたのだった。


 ここは暁の社だ。その気になれば、社の中どころか領程度は余裕で空間ごと操れる。そのまま彼に圧を掛けてやれば、今にも倒れそうなのを堪えているようだった。

 

 親切に愚かな人間に小夜のことを教えてやったというのに、それでもあの男は『小夜を愛している』なんて言い張った。


(愚盲な人間だ)


 今彼が呼吸が出来ているのは、暁が慈悲をかけてやっているからに過ぎない。

 

 神とはときに冷徹で残酷なものだ。しかし暁は消えたあの神のように人を食らったり、忌まわしいあの女神のように人を飼って享楽に溺れたり、そのようなたちの神では無い。


 むしろ品行に何一つ問題のない、祠を壊されてもすぐに粛清しようとしないくらいには器の大きい神だった。そのはずだった。


 しかし最近は不愉快な苛立ちが常に付き纏っている。明らかに小夜が暁との距離を取ろうとし始め、おまけに本人は気づいていないものの、あの人間の男に熱心に言い寄られているからだった。



 草木も眠る丑三つ時。

 暁は深い眠りについている彼女の寝室に音もなく侵入した。

 侵入も何も自分の神域を歩いて何が悪い、というのが暁の言い分だが。


(昔はまた捨てられて元の場所に戻されないかと、気にしていたくせにね)


 今やすっかり本殿を安全な場所だと認識するようになったのだろう。最近では暁への視線を隠そうとするときや、暁が触れようとしたときくらいしか緊張しなくなっていた。もう彼女にとってもこの社が、身体に馴染んだ家となっているのが分かった。


 暁が入ってきたことに微塵も気付かず眠りこける小夜を見下ろす。つんつん、と何度か頬を突いてやれば、形の良い眉を顰めて小夜は顔を背けた。

 

 そのまま暁は布団を剥ぐと、無言のまま寝着を纏った小夜の身体に乗り上げる。


 しかし彼女は気付かない。彼は暗闇でも白さが分かるその首に、両手を添わせてみた。

 

「殺してしまおうかな」


 暁が少しでも力を入れれば、この首は一瞬で折れてしまう。


 言いながらも、そのようなことが出来ないのは自分で分かっていた。今この手で殺すには、情が湧きすぎている。

 

「それとも、奪ってしまおうかな」


 暁は首にかけていた両手を寝着に沿って下ろしていく。そうっと寝着の襟に手を差し入れると、吸い付くような肌の感触が手に直接伝わる。


 そのまま少し手を動かしてやれば、彼女が身にまとう浴衣が大きく乱れた。神の瞳を持ってすれば暗闇とて、何の妨げにもならない。


 小夜の身体を割り開いて、このまま碌に分かりもしないうちに手折たおってしまうことだって、暁には容易い。


 ここで今首を絞めるのと、服を剥いでやるの、どちらの方が嫌がるのだろう。


 生きるために必死だった少し前の小夜と、暁を避けるのに必死になっている今の小夜。

 

 その二つを頭に浮かべながら暁がふと顔を上げると、鏡台の上に並ぶ簪が見えた。手巾の上に、ご丁寧に鈴蘭と蝶が横並びになっている。


 簪を見ていたら、乾いた笑いが込み上げてきた。


「は、馬鹿馬鹿しい」


 急に身体を支配していた暴力的なまでの苛立ちが、ふっと消え失せる。ここまで振り回された自分に呆れ果てていた。

 

 人間同士の恋愛に、神が口を挟む必要もない。

 月に一度の二人の会話さえ、これまでずっと姿を消して見ていたのも全く、くだらないことをしていたものだと思った。


(──たかが人間の少女一人に、何を)


 月明かりが差し込む中、静かに自嘲した暁は、音一つ立てずに部屋を去ったのだった。

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