神、焦れる
鈴蘭の簪に口付けると、小夜の首から良い匂いが漂ってくる。思わずそのまま剥き出しの
「あ、暁……包丁使うから、離れてっ」
「気にしないでいいから」
「気になるよ!」
彼女は意地でも振り向かないまま包丁を置き、巻きついてくる長い腕をどうにか押し除けようと、奮闘しているようだった。
「小夜。こっち、向いて」
恐る恐るというように。
小夜は半身をほんの少しだけ捻り、斜め後ろを見上げるような姿勢になった。
漆黒の瞳が不安気に揺れる。そのままゆっくり暁が端正な顔を寄せると、小夜はひゅんっと一瞬で前に向き直った。
「も、もう! このまま晩ご飯作るからね!」
そして彼女は何事もなかった振りをして、野菜を切り始める。そう、こうやって暁が触れようとするたびに、小夜は露骨に避けるようになっていた。
『去年の祭りは、あの人間の子に小夜ちゃんを取られちゃったくせに』
女神が先ほど吐いた余計な言葉が頭に蘇る。さっさと黙って帰ってくれれば良かったのに、と心から思う。
昨年の東雲祭、小夜は惣一郎に誘われていた。その日も暁は、二人が座って話す四阿を見ていたのだった。
**
昨年のそれは、夏の気配が近づいてきている頃だった。
「小夜! 今年の祭り……俺と、行かないか」
開口一番、惣一郎が顔全体に緊張を滲ませながら誘ったのが見えた。
前年は暁が弓彦を使って邪魔をしたが、今年は早かったな、と思う。しかし暁は油断していたのだ。小夜がこの誘いを受けるわけがないと。
小夜は申し訳なさそうに目を伏せる。
「あんまり人に見られるの、好きじゃないの。だから……」
(見たことか)
そう、追手に見つかってしまうかもしれない中で、小夜は
前回は暁が姿を変えてくれたが、人間同士ではそうもいかないだろう。そんな可愛らしいことを彼女が考えているのが暁には伝わった。
しかし、俯く小夜に惣一郎が渡したのは――白い狐のお面。
「顔を隠せば問題ないだろ。このお面、染伊屋が大々的に祭りで配る予定なんだ。当日は売り子も含め、大勢がこれを顔に付けることになっている。目立つこともないさ」
青年の訳知り顔を、捻り潰してやりたくなった。
小夜は気づいていないようだったが、暁はとっくに見抜いていた。この青年がこの時点で小夜を探す貼り紙について知っているどころか、出身の村にまで行商の手を広げていることに。
染伊屋で面を配るだのというのも、小夜が人に顔を見られたくないことを分かった上で、考えついた策だったに違いない。
(人間ごときが、
初夏だというのに、今日は涼しいなと。そんな呑気な顔で腕をさすった小夜は、祭りの誘いを承諾したのだった。
その晩彼女は、夕食の卓で恐る恐る話を切り出す。
「あのね……東雲祭、友達に誘われたの。お面があるかは大丈夫、って。行ってきてもいい?」
「私の許可なんて、必要かな」
自分でも分かるほど、冷淡な返事になってしまった。
しかし別に、今年も小夜を連れて行こうと決めていたわけではない。たかが人間が人間と祭りに行くことに、何の異議があろうか。
小夜は一瞬黙って、「それもそうだよね」と俯きながら笑ったのだった。
小夜にとっては二度目の東雲祭。
その当日、彼女は惣一郎に貸してもらったという、淡い空色に金魚が描かれた浴衣を纏っていた。
(……似合わない)
こんな年端もいかぬ子供のような浴衣ではなく、小夜にはもっと落ち着いた色が似合う。例えば、昨年暁が贈ったあの浴衣のようなものが。
この人間の男は、あれで流行を追う商人なのか。その審美眼を疑いたくなった。
今すぐそれを脱いで昨年のものに着替えてしまえと、そう思ったことは内心に押し留めた。言ったところで何になるというのだ。
「どうかな……?」
浴衣に喜んでいるのか、不安がっているのか、曖昧な表情で感想を訊ねてくる小夜に、暁も曖昧な笑みで返してやる。似合っているとも似合っていないとも言わなかった。
いつだったか小夜に「世辞は言わないよ」なんて言ったことを思い出す。神が人間に気を遣って世辞を言うなど馬鹿らしい。
似合わぬものを似合わぬと馬鹿正直言ってやるほど意地が悪いわけではないが、かといって嘘をついてまで神が人間を褒めてやる筋合いもない。
だからこれは決して、
「じゃあ、行ってくるね」
がさごそと巾着に小物を詰めるような音がしたのち、背後で下駄を引っ掛けるような気配がする。
昨年のようにあとで脚を痛めやしないだろうか、と振り向くと――艶のある真紅が、暁の目に入った。
(その、口紅)
本殿を出ようとしていた小夜の唇には、女神に貰ったという口紅が乗っていたのだ。昨年の祭り以降とんと見なかった、男を誘うさくらんぼ色。
ぷっくりとした瑞々しい唇を彩る
わざわざ、こんなものを付けたのか。
(あの人間の男のために?)
頭に血が昇るような感覚に身を任せた暁は、水色の袖から伸びる小夜の手をぐいっと引く。
そして、小夜の唇に噛みついた。
せっかく綺麗に結われた頭を指で掴み、角度を変えるように口付けを深める。
彼女の下唇の内側から、思い切り噛んでやる。痕でも傷でも付けばいいと思った。
顔を離してやるとそこには、今にも泣き出しそうな少女がいた。
唇を彩っていたはずの口紅は、擦れて彼女の頬まで伸びている。思わずと言ったように唇に手を当てた小夜は、その赤が酷く広がってしまっていることに気づいたらしい。
瞳を潤ませて赤くなった彼女は、手巾でごしごしと口周りを拭く。顔どころか首や耳まで、さくらんぼみたいな色になっていた。
頬に伸びたものだけではない。唇に正しく残っていたものまですっかり、口紅は落ちていた。
(いい気味だな)
暁はそう思った。祭りのため、あの男のため、小夜が行った支度を台無しにしてやったのだ。
惣一郎とかいう人間は今日、紅を引いた小夜を見るこが叶わない。全部暁のせいだ。
「わ、私……行かなきゃ」
口付けについては何も言わず、ただそう言い残して一目散に本殿から逃げ出した小夜を遠目に見る。
そしてその祭り以降、二度と小夜が口紅を取り出すことはなかった。
**
先程から余計なことばかり思い出すな、と暁は軽くため息をついた。それもこれも、あの女神がしゃしゃり出てきたせいだ。
ふぅ、と耳元に息が吹きかかったのに小夜は何もなかったような振りをしながら、とんとんと包丁を扱っている。こんなに震えて、動揺を隠せているだなんて本当に思っているのだろうか。
それにしても不可解だ。何故小夜はこうも暁を避けようとするのか。
(──私のことが、好きなくせに)
暁は決して鈍感なたちではない。
拾ってから情緒を獲得していく小夜が、段々と暁に心を開いていったことにも気づいていた。
この瞳で見つめてやれば小夜が顔を赤くするのも、料理を褒めてやれば顔を輝かせるのも、自分への好意が育まれているからだと分かっていた。
しかしそれが、二人で祭りに行った一昨年、口付けをした日から変わってしまったのだ。
(あの時はただ……目についた紅の色を
口付けた理由はただそれだけだ。だけど、小夜が舞い上がって仕舞えば良いとも思っていた。頬を染める彼女の姿は非常に愉快で、可愛らしいから。
しかし実際はどうだ。彼女は暁と距離を置くようになった。
触れようとするたび、小夜は苦しそうな顔をして逃げ出すのだ。それが暁には解せなかった。
今だって、腕の中に見える小夜の耳の先は赤く染まっている。暁に抱えられながらもつつがなく料理が出来ていると本人は思っているのだろうが、全くもって隠し切れてはいなかった。
人間など本気で好きになるわけがない。
多少の愛着が湧いていることくらいは認めてもいいが、自分が小夜に同じ想いを返すことはない。
戯れに手元に置いて、それなりに可愛がっているだけ。
じりじりと焼けるような自らの胸の音には気づかないふりをして、暁はただ彼女の扱う包丁の音を聞いていた。
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