神、かつての友を偲ぶ

「あの子? 誰のことだか、さっぱり」

「とぼけないの。暁ちゃんの唯一の友達だった神よ。私以外でねぇ」

「まず第一に、貴女は友達ではありません」

「……百歩譲って今日はそれでいいわぁ。でも他所の神との付き合いを億劫おっくうがる貴方が唯一、迎えていた神がいたでしょう」


 暁はため息をついた。脳裏に、長い赤銅しゃくどうの髪を逆立て、大剣を担いで豪快に笑う男の姿が蘇る。

 

(──友達などではない、あんな愚か者は)




 **

 



 暁がはじめ小夜の手首に噛み付いたのは、その神の悪趣味な言葉を思い出したせいだった。

 

 その神は、血と争い、そして人の肉を好んだ。また彼は血気盛んな神たちとそこらで争いを繰り広げていたのだった。


「だからよォ、獣の肉も良いが、人間は美味いんだって! 特に若い女は最高だなァ!」


 宴会の場でガハハと豪快に笑い、男が酒を樽ごと飲み下すと、周囲の神は「趣味悪ィな!」と野次を飛ばした。暁もそう思った。


 そもそも食に興味の薄かった暁は、悪食を好むこの男が全く理解できなかった。

 顔が広く、比較的何事にも寛容かつ享楽を好む蜜でさえ、この男の趣味の話には困ったように苦笑していたほどだった。


 しかしそれでもその破天荒な言動は、暁を飽きさせなかったことは間違いない。程よい距離感を保ち続ける暁に、彼もまた友と懐いていた。


 永遠の命を持つ神同士の戦いなど決着が付くわけもないというのに、その男は勢力争いにも、いの一番に参加していた。


 暁はどこの勢力にも戦にも参加しなかったが、血塗れになりながらも瞳孔をかっ開いて喧嘩をやめない彼の姿は、見ていてある種の痛快さを覚えるほどだった。


 そんな男がある日、人間の女に神力を与えて眷属にしたという。それだけでなく、妻に娶ったとまで語ったのだ。


「静かに座ってもいられない君が、ひと所に留まる決心をしたなんてね」

「俺も自分で驚いてるさ。しっかしかく、愛おしくってなァ。本気で誰かを愛するとはこういうことだと、理解できた」


 暁と彼は酒を交わした。

 あれほど血の気の多かった彼が穏やかな表情になったことに、暁も素直に驚いていたのだった。


「しかし人間の女か。彼女、君の酷い趣味は知ってるの? 同族を食う神の妻に、よくなったものだよね」

「あー……あれな。これ以上人を喰らうのは辞めてくれとは言われたよ。そうしたら妻になってやっても良いと」

「へぇ、じゃあもう人を食べるのは止めたのか」

「まァな」

「だとしても、物好きな人間だね」


 そしてその後も暁はたまに彼と酒を飲み、人間だった妻との生活や勢力争いの状況を聞いていた。

 

 しかしそれは永久には続かない。それから二、三十年の間に、どんどんその男はやつれていった。


「顔色が悪いよ。どうしたの?」

「……喰いたくて、堪らないんだ」

「何を? 人間?」

「……俺の、妻を」


 身を固めてから彼は本当に、食人の欲求を抑えていたらしい。二、三十年というのは人間からすれば長いが、神からすればほんの僅かな時間だ。その僅かな時間すら苦しみながらも耐えてきたのだと。


「妻は……相変わらず可愛い。だけど可愛いと、食べたくなるんだ。嗚呼、辛いなァ。喰いたくって、堪らない」


 彼の中では、性欲と食欲が直接結びついているのかもしれない。


 絶望的な趣味だと思う気持ちに変わりはないが、自らの偏った性格的嗜好に苦しむ姿は、見ていて哀れに感じた。その欲求は一欠片たりとも暁には理解できなかったが、目の前の男が本気で苦しんでいることは分かった。


 そして次に彼が暁のもとを訪れた時、赤銅色だった髪はすでに薄暗い灰がかった茶に色褪せていた。真っ青な顔には、落ちくぼんだ瞳がかろうじて乗っている。


「何があったの?」

「…………喰ってしまった」

 

 ついにか、と暁は思った。ぽつりぽつりと彼は溢す。


 我慢の限界に達し、妻を食い殺してしまったのだと。彼女は悲痛な叫び声をあげ、怯え切っていた。そして食べる間際、今まで不可侵としていた彼女の頭の中を、神力で覗いてしまった。


 そして彼は知ってしまう。そもそも彼女が妻になったのも、断れば食い殺されるかもしれないという恐怖ゆえだったと。


 彼があれだけ愛していた女は、彼を愛するどころか内心、最期まで恐怖しか抱いていなかったのだ。

 

 まぁ、あり得る話だと思った。


 彼はそれから、日を追うごとに狂っていった。争いに精を出すでもなく、傷一つまともにつかない神の身体をただ、自ら痛めつけていくのだった。


「なァ、俺はもう……存在していたくないよ」


 かつてどの神よりも破天荒だった彼は、自ら滅びることを選んだ。神力が散っていく中、彼はひたすら妻だった女への懺悔ざんげを口にしていた。

 

 暁は彼の消滅を止めなかった。ただ見届けようとした。暁の耳に、最期の言葉が向けられる。


「なァ、友よ。お前に頼みがある。彼女の――」

 

 完全に彼の神力が消え去る。頼みとは、彼女の一族の面倒を見てやってほしいとのことだった。盗むようにして一人の生涯を奪ってしまった、その贖罪。


(はぁ……なぜ私が)

 

 しかし暁は、その女の一族を東雲神社に仕える者として取り立ててやる。弓彦はその子孫だ。それが、暁の出来るその神への唯一の弔いだった。


(愚かだ。人間を愛し、しまいには狂い果てるなど)


 あれだけ快活だった彼が、一人の人間に恋に落ちたことにより破滅してしまった。彼の不幸な悪趣味が悲劇の原因ではあったが、恋という不確かなものは、神すら狂わせるものだと知った。


(だから私は、そんな愚行は犯さない)


 暇を潰す話の種の持ち主が消え去ったのち、暁は退屈な生に飽きた。


 人間を操って遊んでみたりもしたが、さほど楽しむこともできない。あの神のように人間を争いに駆り立ててみても、適当な女の肌に触れてみても、何も楽しくない。


 よく絡んでくる鬱陶しい女神が捨てられた人間を集め、乱痴気らんちきさわぎを行ってるのを横目にした時は、よくまぁあれほど好色こうしょくに生きられるなと思ったものだ。


 そして暁は、眠ることを選んだ。

 その時はまさか、祠を壊されることで人間に起こされるなんて全く思っていなかったが。


 


 **


 


「……確かに彼は哀れだったわぁ。でもむしろあの趣味は、特殊な例でしょう。そんなに恐れる意味があるのかしらぁ?」

「貴女だって、結局自分では人間に神力を与えていないでしょう。一人と共に永く在ることをいとうのは、神に共通した思考かと思いますが」


 珍しいこととはいえ、人間に入れ込みすぎたせいで破滅する神は彼だけではない。そんな話を耳にするごとに普通の神は、気に入った人間との遊び方に折り合いをつけて行くのだ。


「分かったわよぉ、人間を深く愛するのが怖いこと、わたくしもよぉく同意してあげる。でもそれなら尚更、人間同士の恋路を邪魔するものじゃないわぁ」

「別に、邪魔したことなどありません」


 嘘だった。反射で言い返した直後に、思い出す。二年前、東雲祭に誘おうとする惣一郎の意図を察知し、小夜との会話を中断させるために弓彦を呼びつけたことを。


「ふぅん。そういえば去年の祭りは、あの人間の子に小夜ちゃんをらしいものね?」

「…………何が言いたい?」

「もしこの先、小夜ちゃんがあの人間の子を選んだら、その時はわたくしが彼女を預かるってことよ。そうなれば今の寿命も長すぎるでしょうし……あと数十年で、終わらせてあげる」


 終わらせてあげるとは、あの青年の死ぬ頃に合わせて小夜を消すという意味だ。

 

 言いたいことだけ言って、彼女は嵐のように去っていった。暁は拳を握る。苛立ちのままに地面に叩きつけてやろうかと思って顔を上げれば、惣一郎が帰路に着くところだった。

 

 その姿が見えなくなるとすぐに、小夜が簪を付け替えるのが目に入った。


(まるで、後ろめたいみたいに……)


 そんなことをさせたのは暁だ。以前「使わないで」と言ったから小夜は、暁の前であの男からもらった蝶を挿さないようにしているのだ。そのくらい分かっていた。


 本殿へ入るころを見計らって姿を現すと、小夜は鍋を取り出したところだった。


「暁。今から晩御飯の支度始めるから、もう少し待っててね」


 蛇口を捻ろうとする彼女をつつむような、後ろから腰に手を回す。暁の身体と水道との間で、押し込められた彼女の身体は硬直した。

 

 上から覗き込み白い頬に手を添えてみれば、小夜は露骨に目を逸らす。二年前のあの祭りの後からずっと、このような反応だ。

 

「……暁、どうしたの?」

「あの人間の男に話したんだ? 小夜が逃げてきたってこと」

「惣一郎? うん」


 暁は惣一郎を「あの人間」「あの男」と呼ぶ。神の記憶力を持ってすれば人間一人の名前など覚えてられないはずもないのに、彼は必ずと言っていいほどにその呼称を崩さなかった。

 

 小夜の後頭部に咲く鈴蘭を見つめる。先程まではここに蝶が止まっていたくせに、空々しいものだ。


 彼女が生い立ちを惣一郎に話した時、昔暁が聞いたときよりもよほどすんなりと話していたように見えた。それが気に食わなかった。そんなにあの男に気を許しているのか。

 

 小夜の耳をなぞるように指を這わせる。その感覚に思わず首をすくめた彼女の耳に顔を近づけ、囁いた。

 

「人間の世界に、戻りたくなった?」

 

 ぴくりと一瞬震えた小夜は、しかし確かに首をゆっくりと横に振る。


「ううん。私は……ずっとここで奉公するつもりだから」


 目が合わない彼女はそれでも、この地を離れるつもりはないと言った。胸の奥底から、優越感が湧き上がってくる。


(ほら)

 

 あの青年が小夜に懸想しようが、それを小夜がどう思おうが関係ない。祠を壊された日、暁は確かにこの少女を拾ったのだ。

 

 生贄になろうが、花嫁になろうが、あるいは何にもなるまいが、小夜は。


(──私のものだ)


 所有物を愛でたとして、何が悪い?

 これは決して愚かな恋情などではない。


 そんなことを考えている暁は、小夜から見えないのを良いことに、目の前の鈴蘭の簪に口付けたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る