第四幕 因縁

少女、簪を挿し替える

 春も終わりに近づいて、風に吹かれるたびに桜の花びらが地面に落ちていく。歩いてくる惣一郎を目にして小夜は、ふわりと微笑んだ。


「座ってて、お茶淹れてくる」


 この二年間、日にちが前後することもあったが毎月彼はかかさず東雲神社に訪れていた。


 先月来た時には桜の木はまだ緑の葉がついていた。花見は来月にしようと言ってこの日がやってきたが、地面には既に桜色の絨毯が敷かれている。桜の花は見頃を過ぎてしまっているようだ。

 

 本殿へ歩く小夜の後頭部に、自らの贈った蝶のかんざしが見える。惣一郎はむず痒い気持ちが湧き上がってきて、短く刈った焦茶色の髪に手をやった。

 

 夜には商談があるため酒を飲みながら花見とは行かないが、惣一郎が本当に見たいのは桜ではなく、毎月会うごとに美しくなっていく少女の方だ。


 本殿から少し離れた場所に位置する四阿あずまやで物思いに耽っていると、急須と湯呑みの乗った盆を手にした小夜が戻ってきた。屋根が吹き下ろす壁のないこの休憩所で、二人は毎月、日が暮れるまで話し込むのだった。


「はい。これ、この前くれた茶葉で淹れたの」

「ありがとう。ここの茶葉、俺も気に入ってるから」


 染伊屋の跡取りとしてあちらこちらを飛び回る彼は、拡大する取引先との関わりの中、たまに商品を分けてくれる。貰えないと突き返そうとすると「次俺が来たときに使え」と言って譲らない。これを数回繰り返し、ついに日持ちするものであれば小夜も折れるようになったのだった。


「仕事の方はどう?」

「新しく呉服も扱い始めたと、この前話しただろ? 俺が責任者になったんだ。その関係で色々な領に行ってるから、最近は忙しいな」


 惣一郎はますます精力的に活動を行っている。修行のために行っていた行商や、はるかに年上の者を相手取った取引などの経験を重ねるうちに、親の威光だと言われようと動じない自信が身につくようになった。


 彼が月に一度語ってくれる外の世界の出来事は、確かに小夜の楽しみになっていった。

 

 一方の小夜は、この社に来て一年が経ったほどで、本殿内でただ与えられるだけの暮らしを享受することに耐えられなくなっていた。

 弓彦を粘り強く説得し、他の巫女にも見られないように気をつけながら、破魔の矢や守札などの製作を裏で手伝わせてもらうようになったのだった。

 社に益をもたらすことが、暁の役に立つことに少しでも繋がるのではないかと考えたからだった。


「惣一郎はいいね。外の世界をたくさん見れる……羨ましいな」


 寂しそうに微笑む彼女に、惣一郎は胸をぎゅうと掴まれるような心地になった。


(――小夜に、俺の手で外の世界を見せてやりたい)


 そう強く思った。しかし今すぐにはできない。彼女を連れ出すにはまだ少し時期が悪い。

 ふぅ、と息をついた惣一郎は、難しい顔で口を開いた。


「知ってるか? 隣領……つまりここ、小夜のところの領。酷いことになってるぞ。昨年は洪水が各地で発生していたし、主要な米の産地でも軒並み病が流行していた。だというのに、税の課し方が粗末すぎる。米商人たちも嘆いていた」


 そう告げる彼の言葉で、最近の弓彦の姿が思い出される。東雲神社に生活に困窮した人が押し寄せてきているようで、増加した祈祷の依頼の合間、対応に追われているようだった。

 

「そういえば最近、弓彦がとっても忙しそうなの。神社に困ってる人がいっぱい来てるんだって。それも……」

「搾り取るような今の領政の影響、だろうな。人は救済を求め、神に縋るから」

 

 惣一郎は肩をすくめた。

 

 神に祈り続けても呆気なく老婦が死んだのを見たとき、小夜はこの世界に神など居ないと思った。そして拾われた先の村長たちに利用されたことを知ったとき、神を怨み呪った。


 しかし、それが人間の独りよがりだったことを、神の側で暮らす二年足らずの生活で小夜は実感した。

 

 人間がいくら神に縋ったとて、神が人間に干渉することはない。弓彦も暁に何かを嘆願しようとするような素振りは見せなかった。その確信を遊びに来た蜜に話してみれば「それが神の在るべき姿よ」と、彼女は目を細めたのだった。


 惣一郎が領内の状況を伝えてくれたとしても、小夜は何も出来ることなどない。ただ曖昧に笑うことしかできない小夜を、惣一郎は真っ直ぐに見つめて言った。


「今こうなっているのは──領主がもうじき、盛大なを行うかららしい。さっさと代替わりして隠居するどころか、親子ほど年の離れた娘を後妻に迎えるんだと」

「え……」


(領主? 祝言?)

 

 身体が硬直する。平穏な日々の中、忘れかけていた恐怖が背筋に走った。


 見えない無数の手が小夜を追いかけてきているような感覚に陥り、思わず自らをかき抱く。


 祝言。それはあの日、乙羽が教えてくれた言葉だ。

 

「祝言って……だ、誰と」


 震えが止まらない腕に爪を立て、なんとか声を絞り出す。これでは惣一郎に不審に思われてしまう。そう焦った瞬間、彼の手が頭に伸びてきた。

 

 彼は優しく小夜の頭を撫でる。蝶の簪で留めている髪を崩さないよう、流れに沿うその手つきに、段々と強張りが解けていく。


「大丈夫だ。相手は、小夜じゃない」


 彼のその言葉で理解した。

 惣一郎はすでに知っているのだ。小夜と領主との因縁を。


「どうして知って……」

「貼り紙を見た。小夜の名前と、似顔絵が描かれているやつ」


 以前、暁にも同じようなことを言われたのを思い出した。考えてみれば、商人として街中を駆け巡る惣一郎がそれに気づかないはずもない。落ち着かせるように抑えられた穏やかな声色で、彼はひたすら目の前の黒髪を撫でる。

 

「事情があるのは気づいてたさ。小夜から話してくれるのを待ってたんだ──いい加減、俺に話す気になったか?」


 惣一郎の手の感触は優しい。彼は、味方だ。


 身の上を話したとて、彼が領主らに小夜を突き出すことは万一にもあり得ない。まだ残っていた肩の力が段々と抜けていき、呼吸も落ち着く。

 

 待っていてくれたという唯一の人間の友人の、その想いに小夜も応えたかった。


「私……孤児だったの」


 かつて暁に話したように、惣一郎に身の上を語る。孤児として薄汚い生活を送っていたことも、村長邸に引き取られた経緯も、義妹の身代わりとして神の子孫を名乗る領主に捧げられそうになったことも、全て。

 

 黙って聞いていた彼は、考えを纏めるように顎に手を当てた。


「なるほどな、繋がったよ。領主と祝言をあげる村娘の名前は──乙羽と言った。お前の義妹だな」

「乙羽……」


 思いがけない言葉に、思わず息を呑む。小夜が居なくなったことで、領主の婚姻が乙羽に繰り上がって元に戻ったのだろう。何とも言いがたい気持ちが胸を占める。


 自分は確かに逃れることのできたという安堵。

 しっぺ返しを食らった乙羽に胸がすく痛快な感覚。

 そしてそれを感じてしまったことへの自己嫌悪。


 自分だって結局、乙羽たちと変わらない醜悪な性根を持っているのかもしれない、と思った。

 

「安心しろよ。あの全く似てない小夜の似顔絵は、領主の祝言の日取りが決まったあたりから、とんと町中では見なくなったから。取り下げられたんだろうな」


 一方の惣一郎は、貼り紙に気づいてからこっそりと街中のそれを剥がして回っていた。

 しかし人の目がある場所や領主邸の周囲などでは流石に剥がすこともできない。やきもきしていたものの、先日近くを見に行ったときには既にその貼り紙は消えていたのだ。


 情報は商売の命だ。

 

 小夜の貼り紙から領主、捜索主として連名になっていた村長との関係を辿るのは、そう難しいことではなかった。

 情報を掴むため惣一郎は染伊屋の代表という立場を利用し、その村にまでとして商売の手を広げていた。

 すでに彼はその村の通商を、染伊屋無しでは立ち行かないほどにまで掌握していたのだ。

 

 領主は二年前、婚姻が可能な十六歳になったばかりの村長の娘を、娶る予定だった。しかし祝言直前になってその娘は忽然こつぜんと姿を消したという。

 惣一郎は小夜と知り合ってすぐの段階で、ここまで把握していた。

 

 しかし小夜が村長の実の娘ではなく拾われ子であり、ほとんど監禁のような生活を送らされていたということは、彼も今初めて知ることだった。彼女の義妹の乙羽とは会ったこともなかったが、ざまぁないなと思った。


(小夜は決して、正しいことだけで生きてこられたわけじゃない)


 それを知ってもなお、惣一郎には彼女の懸命さが眩しく見えた。惣一郎は大きな商屋の跡取りとして生まれ、衣食住も仕事も全て与えられていた。恵まれた身だった。


 親の力だと見くびられながら力を蓄えるにはそれなりの苦労もあったが、小夜のしてきた苦労はその比では無い。彼女は生まれた時点で、何一つ持っていなかったのだから。

 

 それでも今、与えられるだけの生を良しとせず、外に出られない中でどうにか出来ることを探そうとする姿は、年下の少女ながら立派だと思ったのだった。


 こうして花見などほとんどせずに話しているうちに日が暮れかけ、夜に仕事がある惣一郎は社を後にした。


 小夜としては、乙羽が領主と祝言をあげることについてはまだ複雑ではあったが、隠していた自分の生い立ちを友人が受け入れてくれたことには、すっきりとした気分になる。

 

 道を下っていく惣一郎が見えなくなると小夜はすぐに――蝶の簪を外した。二年前とは比べものにならないほどの艶めきを手に入れた黒髪が風に揺れる。

 

 そして懐に忍ばせていた鈴蘭の簪をそっと撫でると、挿し替えたのだった。


 


 **


 


 四阿で小夜と惣一郎が話しているのと同時刻。姿を見せずにいた暁は、全ての話を聞いていた。自らの神域内であれば、何だって見聞きすることが可能なのだ。


 さらに言うなら、惣一郎が来る時間の少し前。

 小夜が鈴蘭の簪を抜き取り、あの男に貰った蝶の簪に替えていたところからの全てを、暁は冷たい目で見ていたのだった。

 

「覗きなんて悪趣味ねぇ。いつからそんなふうになっちゃったのぉ、暁ちゃん?」


 突然感じた神の気配と、背後からかけられた鬱陶しい言葉。暁は溜息をついた。

 

「悪趣味なのは、勝手に他の神の領域に侵入してくる貴女の方では?」

「お似合いよねぇ、あの二人。良いのかしらぁ?」


 暁の嫌味を完全に無視して横に並んできた女神は、四阿に視線を向ける。そこではあの人間の男が、馴れ馴れしげに小夜の頭を撫でていた。

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