少女、自覚する
それからの帰り道の記憶は薄ぼんやりとしていて、あまり覚えていない。
確か、花火が終わるまであの四阿にいて、それから露店の横を通り抜けながら一緒に、東雲神社に帰ったのだったか。
そうだ。そして自室の前で彼と別れた小夜は、放心状態のまま鈴蘭の簪を頭から引き抜き、蝶の簪の横に置いたのだ。
『口紅。また、落ちてしまったね』
唇に手を伸ばす。ここにあの時、暁のそれが触れた。唇を合わせる行為は、小夜でも知っていた。
(どうして、口付けなんか……!)
だというのに、あんなことをした後も暁はいつもと変わらない態度だ。それが余計に小夜を混乱させる。まるで何も無かったかのような振る舞いだった。
口付けというのは、恋人がするものではないのだろうか。あの細工屋で指輪を買っていた二人のような、恋人同士が。
『──私の花嫁に、なるのなら』
彼の言葉が頭から離れない。浴衣も簪も貰って、好きなものを食べさせてもらって、ただの拾われ子の待遇としておかしいのはとっくに理解している。おまけに「花嫁」だなんて言い出す始末。
小夜は姿見の横に置かれた蝶の簪と、鈴蘭の簪を見比べる。部屋に差し込む明るい日差しを反射して、二つの簪はきらきらと輝いていた。
小夜は鈴蘭の簪を手に取る。彼は惣一郎に貰った方ではなく、これを使うようにと言っていた。
「分からないよ……」
暁の考えてることが、分からない。
だけど彼の考えなど、最初に噛まれた時からずっと分からないと思っていたはずじゃないか。
それなら今こんなに悩んでいる理由は、暁ではなく自分の方が変わってしまったからに違いなかった。
振り回されてばかりだ。胸の中に積もる熱を逃すように、小夜は大きく息を吐く。
問題なのは、自分が暁の関心を欲しがるようになってしまったこと。ただ元の世界に放り出されないようにと、最初はそんな打算で縋ったはずの暮らしだったというのに、こんなにも強欲な想いが生まれてしまったことだ。
あの祭の日、小夜が目にした大勢の人々は皆、暁のためだけに存在していた。露店も、花火も、人々の狂騒も、全てが暁に捧げられたものだったのだ。
神輿を担いで回る人々を愉快そうに見る眼差しは、人間のものでは無かった。
小夜にとっては初めて見る大きな世界の中。その光景を当然としていた彼が、いかに違う世界の存在であるか、痛いほどに実感させられてしまった。
手の中の鈴蘭の簪を見つめる。花から伸びる飾りが、しゃらりと音を立てた。
(だめ、だめだよ)
これは間違いなく、分不相応な想いだ。決してこれ以上育ててはいけない。身の丈に合わない強欲など、許されるはずがない。
どうしてあの瞳で見つめられると胸が激しく脈打つのかなんて、本当は小夜も心の奥底で気づいていた。その上で見ないふりをしていたのだ。
これは、絵本の中のお伽話に出てくるような類いの感情なのだと。
暁から花嫁の話を初めにされた時、頭に浮かんだ本をまた思い出す。継母や義姉たちに虐げられていた少女が、帝に見初められる恋物語。
(違う)
現実はその本とは違う。
気まぐれな神が、一人の人間の少女を暇つぶしにただ拾ってみただけ。そしてその人間の少女が神に対して、卑しい感情を抱いてしまった。ただそれだけの話だ。
(こんな気持ちなのは、私だけ。暁は、違う)
絵本を読んでいたとき、この感情はもっとあたたかくて優しいものなのだろうと想像していた。そして自分の人生とは、一切関係のないものだと。
しかし小夜は目を逸らし続けていた事実を、感情を、もう認めなくてはならなかった。
(──私、暁が好きなんだ)
ぽろり、と頬を何かが伝う。その雫は止まるどころか流れ続け、薄紅の袴に滲みを作っていく。
ごしごしと無造作に袖で拭うが、それでも止まらない。想いを自覚した途端、それまで火傷のようにじくじくとしていた痛みが刺すような鋭いものへと変貌した。
祭りが終わってからのここ数日間、暁は昼に学問を教えに来なくなってしまった。
しかし夜は変わらず小夜の作るご飯を食べにやって来て、祭りの日のことなどなかったかのように、他愛もない話を振ってくるのだ。一方の小夜は様子を合わせるのに必死で、ご飯の味すら分からなかったというのに。
まだ陽は高い。どうせ今日も彼は来ないだろう。
急に見放されたような惨めな気持ちになって、夏用に変えた布団の上に横たわる。手脚がいやに重たくて、身じろぎすら億劫だった。たまには復習も家事も気にせず、休んでしまっても良いのではないか。
いまだに瞼から溢れ続ける涙を袖に吸わせる。鈴蘭の簪を握ったまま、世界から自らを切り離すように、小夜は瞼を閉じたのだった。
**
「小夜ちゃ〜ん、お邪魔するわよぉ」
少し離れたところから聞こえるのんびりとした声で、意識が浮上する。
いつの間にか泣き疲れて、眠ってしまっていたらしい。絞められた帯にじっとりとした熱を感じる。手にはまだ簪を握っていた。返事をする前に身体を起こして簪を鏡台に乗せたところで、蜜はどこからともなくひょっこりと現れた。
思わず顔を隠す。
自分は今、泣き腫らして酷く醜い顔をしているに違いなかった。
「やだ、小夜ちゃん! どうしたのぉ?」
思った通り、心配そうな声が肩にかかる。鋭い彼女にはこの気持ちだって、すぐに見透かされてしまうかもしれない。
卑しい恋慕が露呈してしまう恐怖で、上手く息が吐けなくなる。はっ、はっと引き攣るような音が喉から漏れた。
「大丈夫、大丈夫よぉ。なぁんでも、お姉さんに言ってごらんなさい?」
自覚したばかりの想いを抱えきれない。柔らかい手で背中をゆっくりと摩られれば、洗いざらい全て打ち明けてしまいたくてどうしようもなくなった。
もう、言ってしまおうか。
しかし声を発そうとしたところで思い出す。ここは本殿にある小夜の部屋、すなわち暁の神域内だ。
彼の力は未知のものだが、今まで見せられた文字通りの神技を思い返せば、神域内全てを把握できたとしてもおかしくない。
「ここ……暁に、聞かれちゃうかも」
「えぇ? 今暁ちゃんの気配は無いけれど……でも、そうよねぇ。任せてぇ!」
顔を隠していた袖をずらし、意気揚々とした声の彼女をちらりと覗く。蜜は空間に線を描くかのように、指を振っていた。
「うふふ、結界を張ったから大丈夫! 神域内とはいえ今暁ちゃんは、わたくしたちの姿を見ることも声も聞くことも、ぜぇ〜ったいに出来ないわぁ!」
蜜は力強く言い切った。他人の神域だというのに、女神となるとそんなことまで出来るのか。
少し安心したが、彼女は何だか少しわくわくとし始めたように見える。視線に押された小夜は覚悟を決め、目の前の女神に告白した。
「私……暁のこと、好きになっちゃった」
小さな声になってしまった。蜜は馬鹿にしたりなんてしないだろう、そう思ってはいたが、それでも人間が神に恋したことを、女神にどう思われるか怖かった。
しかし俯く小夜の頭上から聞こえたのは、場違いなほどの明るい声。
「あらっ! でもわたくし、そうじゃないかと思ってたわぁ!」
「え?」
驚いてつい袖を完全に離し、蜜を見上げてしまう。彼女の卵のようにつやつやした頬は林檎のように紅潮していた。蜂蜜色の瞳がかっと開かれ、ぎらぎらとした光が宿る。
「どうして、どうして好意に気づいたのぉ? やっぱりお祭りの日、何かあったのねぇ!?」
木から果実を落とそうとするかのように肩ががくがくと揺らされ、すっかり息の乱れも引っ込んだ。
何とか息をついた小夜は、肩に置かれた手を軽く叩いて興奮している彼女を制止し、ぽつりぽつりと語り出した。
少し前から生贄になるか花嫁になるかの選択を迫られていたこと。
祭りの日に美しい浴衣を寄越してくれたこと。
付けていたものを外させてまで新しい簪をくれたこと。
祭りの間も小夜をずっと気にかけてくれたこと。
そして──唇を重ねられたこと。
勇気を出して口付けの話まですると、蜜は「きゃぁーーっ!」と叫び、文字通り空を跳ね回り始めた。
「それってもう、求婚じゃないっ! 花嫁だなんて、暁ちゃんってば情熱的なんだからぁ!」
興奮して騒ぎ続ける蜜に、何だか申し訳ないような気持ちになってくる。恋心はあくまで、小夜の一方的なものなのだから。
「違うんだ。暁はただ気まぐれでそう言っただけで……私のことが好きとか、そういうのじゃ、ない」
「きっ、気まぐれぇ!? 気まぐれで神が人間と、結婚なんてするもんですかぁ!」
そう叫んだ蜜は騒ぎ疲れたのか、糸が切れたかのように急に静かになる。そして一つ、大きく息を吐いた。
息を吐き切った蜜は長い睫毛を目を伏せて、過去を思い返すような遠い目をする。
「暁ちゃんは昔から、真面目な性分だったとはいえね……こんなに責任感が強いなんて、わたくし思ってなかったわぁ」
(──
しんみりと話す蜜の言葉が、小夜の脳の隅に引っかかった。その違和感を飲み込めないまま、目の前の彼女の言葉が次々と耳の中に入ってくる。
「小夜ちゃん気に入られてそうだったから、『あと二百年位はそのまま消されずにいてくれるかしらぁ?』なんて思っていたのよぉ。それがまさか暁ちゃん、結婚だなんてぇ」
(二百年?)
小夜の顔色が段々と白くなっていくことには気づかずに、蜜は嬉しそうに頰に手を当てていた。
「暁ちゃんの
(眷属?)
聞き覚えの無い言葉ばかりが出てくる。それに『あと二百年位はそのまま消されずに』とは、どういう意味だろうか。全く言っている意味が分からないというのに、心臓だけがばくばくと嫌な音を立て始めた。
小夜は何とか言葉を絞り出して訊く。
「二百年って……?」
「だって、小夜ちゃんの寿命はそのくらいだったのよね?」
「え?」
「神力の感じ……え?」
話が噛み合っていないこと、そして小夜の顔色が変わったことに、蜜はようやく気付いたらしい。女神は思わずと言ったように溢した。
「まさか暁ちゃん、何も……」
そこまで言って口を抑えた蜜の表情には、ありありと「しまった」いう文字が書かれている。だらだらと汗を流しながら硬直する女神に、小夜は聞かずにいられなかった。
「何もって、一体どういうこと」
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